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ミッドナイト・フォーチュンテラー  作者: 藍内 射尾
春風の滑走路

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老教授の羅針盤

 老教授の羅針盤

  四月中旬。進路希望調査票をカバンに仕舞い込み、僕はいつもより少し足早に帰路についていた。

 自宅の一階、父さんが営む喫茶店のドアを開けると、カウベルの乾いた音が店内に響く。

  「おかえり、晶。……早かったな」

  カウンターの中で、父さんがネルドリップの準備を止めて僕を見た。

 僕は少し迷ってから、昨日父さんに話した「占いや伝統文化を通じて、人の心を整理したい」という思い、あるいは、それを学ぶための進路について、改めて言葉にした。

 父さんは黙って僕の話を聞き、やがて太い指で(あご)を擦った。

  「晶がそんなふうに、外の世界や過去の知恵に興味を持つなんて思わなかったよ。……実はな、お前の話を聞いて、真っ先に顔が浮かんだ人がいてな。今日、ちょうど店に来てもらうことになってるんだ」

  驚いて問い返すのと、店のドアが開くのは同時だった。

 入ってきたのは、時代錯誤なほど立派なケープ付き外套(インバネスコート)を翻した初老の男性。少し癖のある白髪の上には、驚いたことに、ぴんと尖った「耳」がついた猫耳(ねこみみ)ニット帽が鎮座している。その瞳は、知識を詰め込みすぎた書庫のような、不思議な深みを持っていた。

  「水潟みなかた先生、お久しぶりです。……こちらが、息子の晶です」

  父さんの紹介に、その男性──水潟猫松(みなかた ねこまつ)教授は、ゆっくりと僕を見つめた。

 父さんが丁寧に淹れたコーヒーを、教授の前に差し出す。教授は一口啜り、深く溜息をついた。その際、ニット帽の猫耳が寂しげに揺れる。

  「……最近の大学は、効率と合理性ばかりだ。学生たちに民俗学(みんぞくがく)の話をしても、非科学的な迷信(オカルト)だと鼻で笑われる。彼らにとって、占いや伝承は、ただの古臭いゴミか、あるいはスマホアプリで完結するお遊びに過ぎないんだ。伝統の継承が、砂の城のように崩れていく……私は、悔しくて仕方がないんだよ。晶くん。君のような若者が本当にいるのなら、私は救われる気がするんだがね」

  僕はトランクから、重厚な羅盤(コンパス)を取り出した。無数の漢字と二十四方位が刻まれた、風水の宇宙(コスモ)を体現する道具だ。さらに、教授が持参した古い民俗資料――色褪せた祭事の木札の写真や、今はなき集落の記録を、羅盤を囲むように配置していく。

  「……羅盤の針が、東南を指しています。再生の方向。冷たい冬が終わり、新しい芽が出る場所です。教授が持ってきたこの木札の写真を、この方位に置くと……重なっていた影が、少しずつ溶けていくのが見えます」

  僕が静かに告げると、教授は目を輝かせ身を乗り出した。

「東南か……。羅盤はただの方位磁針ではない。かつてドルイドたちが森の声を聴いたように、東洋の先達はこれで『気』の流れを読み、自然との調和(ハーモニー)を計った。なのに、今の若者は『エビデンスがない』と一蹴する。占いの歴史は、人間が不安(カオス)と向き合った最初の試み、切実な『精神安定剤』だったんだよ。なぜ占いがなくならないか。それは、孤独(ココロ)や不安といった領域が、科学だけでは割り切れないからだ」

  教授の熱弁が、喫茶店の静かな空気に波紋を広げていく。僕は羅盤の中央、震える針を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「……教授の悔しさ、わかる気がします。科学が『どうなるか』という結果を教えてくれるなら、占いは、その結果を前にした人が『どう感じるか』を、一緒に感じてあげるものなのかもしれません。科学が届かない影の場所で、伝統は今も静かに息をしています。教授のような方がその灯を消さずにいてくれるから、僕みたいな子供が、その価値に気づくことができるんです」

  教授は絶句し、その瞳に救われたような光が混ざり合う。

「……完敗だ。晶くん。受験がどうなろうと、もし君が門を叩くなら、私のゼミはいつでも君を歓迎しよう。伝統という名の『心の整理術』を、共に学問の光で照らしてみないか」

  僕はその誘いに深く頷き、一つだけ付け加えた。

「ありがとうございます。……実は先生、僕は今、夜の公園で占い師のようなこともしているんです。そこで出会う人たちの『割り切れない心』に、毎日触れています」

 僕がそう伝えると教授は嬉しそうに表情を綻ばせて微笑んだ

「現場主義か! よいな、実に民俗学者向きだ。実学と理論、その両輪があれば、君の羅針盤は決して狂わないだろう。」

 教授は僕の言葉に満足したようだったが彼も僕に向かって一つだけ付け加えた。

「我がゼミは君を歓迎するが...、私のゼミは民俗学だけでなく生物学なども扱うからフィールドワークの時は大変かもしれぬがね」


  そうして教授は満足そうに去っていった。カウベルの音が止み、店には穏やかな日常が戻る。

「……晶。お前の椅子は、いつでもここにあるからな。店の手伝い、これからも頼むぞ」

  父さんの温かな言葉を背中で受けながら、僕は自分の進路希望調査票を思い返していた。

 民俗学という窓から世界を覗き、父さんの店という場所で誰かの心を温める。

 窓の外では、春の嵐が去った後の澄んだ夜空が広がっている。

 これから始まる新しい季節。僕が磨き始めたこの滑走路(ライン)の先に、どんな景色が待っているのか。今はまだ、羅盤の針も静かに静止している。

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