空席と三色ペン
空席と三色ペン
四月の中旬、ホームルームの時間は、独特の気怠さと緊張感に満ちていた。
窓の外では桜が完全に葉桜へと姿を変え、若々しい緑が目に眩しい。新学期の浮き足立った空気も一段落し、教室には「現実」という名の重力が増し始めていた。
「はい、じゃあ進路希望調査票を配るぞ。未記入はなしだぞ。来週の月曜までに保護者の印をもらって出してくれ」
担任の事務的な声と共に、まだ折り目のついていない真っ白なプリントが後ろへ回されてくる。
僕はその紙を手に取り、自分の机の木目に視線を落とした。斜め前にある優子の席は、今日も主を失ったまま、春の陽光を虚しく反射している。
「優子ちゃん、今日も休み?」「ダンスの大会が近いとかかな。サボり癖ついちゃったのかな」
後ろの席から聞こえてくる屈託のない噂話。彼女が、自分の「滑走路」を見失いそうになりながら、どれほどの焦燥の中にいるか。あの夜の公園で、ランタンの光越しに彼女の不安を片付けた僕には、その空席が切り取られたパズルのピースのように、不自然で冷たい空白に見えていた。
(占いに役立ちそうな勉強……いや、僕がやってるこれの『正体』を知るには、どこに行けばいいんだろう)
その日の放課後、僕はトランクを引いて一度自宅へ戻った。
一階にある、父さんが営む喫茶店。ドアを開けると、使い込まれた木製家具の匂いと焙煎された豆の香ばしさが、冷えた心を解きほぐすように包み込んでくれる。
「おかえり、晶。今日は早かったんだな」
カウンターの中でネルドリップを振る父さんが、穏やかに笑う。
「うん、進路の紙をもらったから。……父さん、あとで少し、お店の手伝いしてもいいかな。将来のこと、少し考えてみたくて」
「ほう、それは頼もしいな。じゃあ、夕方の仕込みを少し手伝ってもらおうか。玉ねぎの皮剥きからだな」
二階の自室に戻り、僕はトランクから骨製のルーンを取り出した。
二ヶ月前、この道具を手に取ったときの手触りは、今でも指先に残っている。これを扱うたびに、僕の占いは「当てる」ことから「背景にある物語を整理する」ことへ変わっていった。
でも、どうして昔の人は、こんな不確かな骨や石に人生を預けたんだろう。その根源が知りたかった。
僕はスマートフォンを取り出し、頭に浮かんだ言葉を片っ端から検索窓に並べてみた。
『占い 歴史 理由』
『昔の人 生活 信仰』
『おまじない 道具 意味』
『人が物を信じる仕組み』
断片的な知識の海を泳ぎ回るうちに、一つの学術的な輪郭が浮かんできた。
「……民俗学、文化人類学?」
その言葉を改めて調べ直すと、そこには僕が求めていた世界の地図が広がっていた。
古い習慣、人々の価値観、道具に込められた切実な祈り。それらを学問として紐解く分野。日本だけでなく、世界中の民族が何を信じ、どうやって心を整理してきたのか。
(これだ……。僕が公園でやっている『整理整頓』の、もっと大きな体系がここにある)
階下から、カチャリと食器が重なり合う音が聞こえてきた。
祖父の代から続くこの喫茶店。家族が僕を支えてくれたように、いつか僕もこのカウンターに立ち、一杯のコーヒーと共に誰かの心を整える道。大学で学ぶことと、この店を継ぐこと。それは僕の中で対立するものではなく、一本の太い「滑走路」として繋がり始めていた。
週末が明け、提出日の月曜日。
教室は週末の余韻を惜しむような騒がしさに包まれていた。僕は三色ペンを握りしめ、最後まで白紙だった調査票の欄を、丁寧に、一文字ずつ埋めていく。
【第一希望:文学部・人文学部(民俗学・文化人類学専攻)】
本や古い道具、伝統文化を通じて、人々の心の成り立ちを整理する学問を学びたい。
【就職希望:なし(進学優先)】
ただし、もし就職の道を選ぶなら、父の営む喫茶店を継承し、地域の人々の安らぎとなる場所を守りたい。
そして、自由記述欄。
『まだ漠然としていますが、人の心を整理する手伝いがしたいです。家族の支えがあって今があるので、その恩を返せるような道を探しています。』
ペンを置き、僕は再び優子の席を見た。
やはり、空席のままだ。
「はい、後ろから回収してー」
担任の声に促され、僕はプリントを後ろへと回した。僕の手を離れた調査票は、クラスメイトたちの「未来」の束の中に紛れ込んでいく。
(優子……。君は今、どんな空を飛ぼうとしているんだろう)
窓の外、五月の風が葉桜を激しく揺らしている。
もうすぐゴールデンウィーク。それが終われば、季節はさらにその熱を増し、夏へと加速していくだろう。
僕は確かな重みを感じるようになったトランクを足元に引き寄せ、心の中で呟いた。
夏休みまで待てないなら、いつでも来いよ。
君がどんなに高く、あるいは低く飛ぼうとしていても。
僕はここで、君の心を受け止めるための『滑走路』を、磨いて待っているから。




