異邦人のコンパス
異邦人のコンパス
桜が葉桜へと姿を変え、公園の空気も少しずつ湿度を帯び始めた四月の午後。
新学期の喧騒が一段落した放課後、僕のトランクの前で立ち止まったのは、透き通るような肌と、少し癖のあるブロンドが印象的な少女だった。
「……それは、リソマンシー? それとも、ただのストーン・コレクション?」
たどたどしいけれど、どこか理知的な響きを持つ日本語。
彼女――エレーナは、僕が広げていた石たちをじっと見つめ、それから自分のバッグのサイドポケットから小さな麻の袋を慣れた手つきで取り出した。
「私は、こっち。……私の国では、おばあちゃんがよく使っていたの。こっちに来てからも、お守り代わりに持ってる」
袋から滑り出したのは、使い込まれて角が丸くなった木製のルーンチップだった。
「ルーンですね。僕も二ヶ月ほど前に、骨で作られたものを扱ったことがあります。あの時の感覚は、今でも指先に残っていますよ」
僕は応えながら、制服のポケットから自分用の麻袋を取り出し、中身をマットの上に滑らせた。コロン、と乾いた音を立てて転がった骨製のルーンを見て、エレーナは少し驚いたように目を細め、そのまま僕の向かい側に腰を下ろした。
彼女はこの春、東欧から日本の高校へ編入してきたばかりだという。
「日本の学校は、みんな優しすぎて……本当の顔がどこにあるのか、わからない。私の国では、嫌いな人には石のように冷たい顔をするけれど。ここでは、みんなが春の霧みたいにぼんやり笑っている」
霧の中を歩くような不安。それは、この時期の転入生が抱える、最も整理しがたい感情の一つだ。
「……では、少し試してみましょうか。エレーナさん。あなたのルーンと、僕の石、そしてこの骨を混ぜて。……あなたが今、この街のどこに立っているのか、コンパスを作ってみましょう」
「私のルーンも、使っていいの?」
「ええ。持ち主の息がかかった道具の方が、言葉は鮮明になりますから」
僕は彼女の木製ルーンをマットの中央に配置し、その周囲に僕の骨製ルーンと色石を並べていく。
僕が展開するのは、校舎裏で嫌というほど繰り返してきた「人間好感度メーター」。数多の恋愛相談、愛憎、すれ違いを『整理』してきた経験が、石の配置に冷徹なまでの精度を与える。
「……見えてきました。エレーナさん、今のあなたは少し『眩しすぎる場所』にいるみたいだ」
「眩しい……?」
「ええ。クラスの皆が向けてくる笑顔は、今のあなたには街灯が明るすぎて、道が見えなくなる夜の景色に似ている。みんな、あなたという『新しい風』を歓迎しようとして、一生懸命に光を当てているんだ。……でも、それが逆に、あなたの本当の姿を影にして隠してしまっている」
僕はエレーナの木製ルーンのすぐ側に、透明な水晶の欠片をそっと置いた。
「友情のメーターが動かないのは、冷たいからじゃない。お互いに、相手が反射している光を見ているだけで、中身まで手が届いていない。今の『好感度』は、まだ窓越しに綺麗な花を眺めているような、もどかしい距離にあります」
エレーナがその言葉を噛みしめるようにコーヒーを啜った、その時だった。
「よお、晶! 今日もやってるか?」
少しチャラついた雰囲気の男子生徒が、数人の取り巻きを引き連れてやってきた。同じ学校の二年生、佐々木だ。彼は僕の向かいに座っているエレーナに一瞬だけ目を剥いたが、すぐに調子のいい笑みを浮かべて僕のトランクを指差した。
「ちょうどいいところにエレーナもいんじゃん! なあ晶、いつもの『メーター』やってくれよ。俺とエレーナの親密度、今どれくらい?」
エレーナの眉が、ピクリと動く。
「ササキ……あなた、占いなんて信じるの?」
「信じるとかじゃなくてさ、これ、結構当たるって評判なんだぜ。なあ、晶、パパッと可視化してくれよ。俺、結構自信あるんだわ」
僕はエレーナの視線を確認した。彼女は「勝手にすれば」と言うように肩をすくめ、カップを口に運ぶ。
僕は無言で石を並べ、骨製ルーンをその隙間に落とした。これまで校舎裏で見てきた「自分を過信した男子」のデータが、石の動きを導き出す。
「……出ました。整理します」
「お、きたきた! 数値は? 80%くらいか?」
「佐々木さん。あなたの好意を示す石は、エレーナさんの領域に一歩も踏み込めていません。数値化するなら、親密度は『3%』。……ちなみに、その3%の内訳は『名前だけは覚えている』という認識コストの分です」
「は……? さん、ぱーせんと?」
「さらに付け加えるなら、周囲に散らばる『警戒心』と『騒音への忌避感』のメーターが合計120%を超えています。……つまり今のあなたは、彼女にとって『ただうるさくて、少し避けたい存在』として完璧に整理されていますね」
周囲の取り巻きが「ぶっ……!」と吹き出し、佐々木の顔がみるみる赤くなっていく。
「おい、晶! お前、忖度って言葉知らねえのかよ!」
「整理に忖度は不要です。事実、エレーナさんのルーンは、あなたの石から遠ざかるように、マットの端まで逃げていますから」
隣でエレーナが、カップを置いた。
「……ササキ。私、占いは信じないけれど、彼の『整理』はとても正確だと思う。……あと、さっきより少しだけ、コーヒーが美味しくなったわ」
佐々木たちが捨て台詞を残して退散していく背中を見送りながら、エレーナは初めて、小さく、けれど本物の笑みをこぼした。
「……残酷ね、あなた。あんなにはっきりと」
「整理整頓ですから。……少しは、霧が晴れましたか?」
「ええ。とてもスッキリしたわ。……でも、さっき言っていた『影の中にいる人』の話。もう少し詳しく聞かせてくれる?」
僕はマットの端にある、光の当たっていない場所にある石を指差した。
「この影の中に一つだけ、あなたのルーンに触れようとしている意志がある。この人は、あなたを『留学生』として特別視していない。ただの、クラスに新しく来た、ちょっと不器用そうな女の子だと思っているみたいだ」
「……そんな人が、いるの?」
「ええ。明日、教室の隅で、あなたと目が合ってもすぐに逸らしてしまうような人を探してみてください。その『気まずさ』こそが、光を通さない、本当のあなたの手触りだから」
エレーナはカップを両手で包み込み、ゆっくりとその温もりを確かめた。
「……そうね。眩しい光の中にいなきゃいけないって、自分に言い聞かせすぎていたかもしれない。少し、暗いところを探してみるわ」
彼女が去った後、僕は自分の骨製ルーンを掌に収めた。
「……整理整頓、完了」
(誰かと繋がるのは、光の中じゃなくて、案外、影の重なる場所だったりするんだ……)
僕は独白を夜風に預け、静かにトランクを閉じた。




