春嵐の変奏曲:星を聴くサックス
春嵐の変奏曲:星を聴くサックス
真司さんは何も言わず、ただ熱いコーヒーを喉に流し込んだ。
その一口が、凍りついた彼の内側を、ゆっくりと、けれど確実に浸食していくのが見えた気がした。
背後では、母さんと紫さんが、言葉を交わすこともなく僕たちのやり取りを見守っている。
夜の公園に満ちるのは、重い沈黙と、僅かな期待。
やがて真司さんは空になったカップをトランクの端に置くと、傍らに立てかけていた黒いケースに手を伸ばした。
その動きには、先程までの迷いはない。
「……少し、聴いていてもいいかな」
掠れた声が、静かに夜気を震わせた。
「真司さんでも、スランプになるんですね」
母さんが少し驚いたような、それでいてどこか懐かしむような声を漏らした。
かつて同じ場所で、共に音を紡いでいた戦友への、彼女なりの親愛の情だったのかもしれない。
「彩、それは失礼でしょ。スランプにならない人間なんていないわ。自認するかどうかは別としてね」
紫さんが呆れたように母さんを嗜める。
「私から見たら、ユカリだってスランプとは無縁に見えるわ。何かスランプを抜けるコツでもあるの?」
母さんが問いかけると、紫さんは夜の闇をじっと見つめ、静かに答えた。
「原因が無形のものなら、目先を変えるかしら。同じものばかり見ていると、どうしても目が曇るから」
「……形のあるものなら?」
僕が横から尋ねると、紫さんは口角をわずかに上げ、意外な一言を放った。
「サックスで殴り飛ばす?」
「師匠……。レジェンドギタリストじゃないんだから」
僕は思わず頭を押さえた。この師匠は、時々占術よりも物理的な解決法を優先しようとする。
「いいや。多少は風通しを良くして、既成概念なんてぶち壊した方が、視界が広がるってものよ」
紫さんは平然と言ってのけ、それから真司さんの横顔に視線を投げた。
「ふむ……師匠、ね。真司さん。目先を変えると言うのなら、ちょうど良い『案件』があるんだけど……?」
母さんの言葉に、僕も思い当たる節があった。
先日出会った、あのサックス少年。
技術はまだ拙いけれど、何かに必死に手を伸ばそうとしていたあの音。
今の真司さんに必要なのは、かつての自分のように「ただ無心に音を追いかける存在」と向き合うことなんじゃないか。
「……私に、誰かを教えろと言うのかい?」
真司さんが、自嘲気味に笑う。
「教えるんじゃないわよ、真司さん。ただ、今のあなたの視界に入っていない音を、隣で鳴らしてもらうだけ。ね、晶、あの子に声をかけておいてくれる?」
母さんの悪戯っぽい微笑みに、僕は深く頷いた。
◇
数日後の放課後。
光が丘公園の片隅、まだ少し冷たい春の夕暮れの中に、二つのサックスの音が重なっていた。
一つは、迷いながらも真っ直ぐに突き抜ける、青い音。
もう一つは、それを受け止め、包み込み、時に厳しく導く、深く柔らかな音。
「……違う、そこはもっと息を吐ききれ。音を置くんだ」
真司さんの厳しい声が飛ぶ。
少年のサックスが、それに応えるように再び鳴り響いた。
トランクの影からその様子を見ていた母さんが、満足げに目を細める。
「良いコンビになりそうね。……あの真司さんが、あんなに熱くなるなんて」
「吊られた男が、地上に降りたってことかな」
僕は、琥珀色のライトの下でルーンの袋に触れた。
音は、一人で鳴らすものじゃない。
誰かの音を聴き、自分の音を預ける。
そうして生まれる新しい流れが、凍りついた季節を溶かしていくのだと、二人の共鳴が教えてくれているようだった。
◇
数日後の放課後。
光が丘公園の片隅、まだ少し冷たい春の夕暮れの中に、二つのサックスの音が重なっていた。
一つは、迷いながらも真っ直ぐに突き抜ける、青い音。
一つは、それを受け止め、包み込み、時に厳しく導く、深く柔らかな音。
真司さんが少年に寄り添い、再び自分の呼吸を取り戻していく。
僕は少し離れた場所で、師匠――紫さんと共にその調べを聴いていた。
トランクから立ち昇る蒸気が、夕闇に白く溶けていく。
「……師匠。師匠はなんで、僕を弟子にとってくれたんですか?」
ふと気になっていたことを口にしてみる。
紫さんは、遠くで響くセッションに耳を傾けながら、素っ気なく答えた。
「ストリートでたむろってる連中は、良い奴ばかりでしょ?」
「え? はい……」
「そういう奴らは、先輩風を吹かせたいものなのよ」
「えぇ……」
思わず肩透かしを食らって声を上げると、横から楽しそうな笑い声が割り込んできた。
「晶、違うわよ。ユカリは私に気を使ってるの。お父さんと結婚した私を、いつまでも相方面して拘束するのは忍びないってね」
「なっ!? 彩、あんた余計なことを!」
紫さんの頬が微かに赤らむ。
「それに、誰か一緒にいないと自分がやらかした時におさめてくれる人がいないから、心配なのよ。可愛いでしょ?」
「あーやー!」
紫さんが声を荒らげ、逃げるように走り出した母さんを追いかける。
夜の公園を追いかけ合う二人の姿は、伝説の歌い手や魔女というより、ただの仲の良い幼馴染だった。
やがて息を切らして戻ってきた紫さんが、肩を揺らしながら僕を見た。
「はぁ、はぁ……。彩のことは、話半分でいいわ」
「たまには、師匠っぽいことしたらどうです?」
僕が苦笑しながら言うと、紫さんは呼吸を整え、いたずらっぽく片目を瞑った。
「よし、わかったわ。じゃあ今度、私の職場に案内するわよ。いつも一緒にいる優子ちゃんだっけ? 一緒に連れてきていいから」
師匠の職場。
光が丘の夜しか知らない僕にとって、それはまだ見ぬ「魔女の隠れ家」のように思えた。
サックスの音が、春の風に乗ってどこまでも高く昇っていく。
トランクを引く僕の足取りは、前よりも少しだけ軽くなっていた。




