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ミッドナイト・フォーチュンテラー  作者: 藍内 射尾
春風の滑走路

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春嵐の前奏曲:歌い手と魔女の同行

春嵐(しゅんらん)の前奏曲:歌い手と魔女の同行


 藤崎家の夕食は、いつも少しだけ賑やかだ。

 父さんが運んできた大皿の湯気の向こうで、僕は今日公園で出会ったサックスの少年の話を、ポツリポツリと口にしていた。

 「――って言うことがあったんだ」

 「確かにあそこの高校は最近力入れてるみたいね。顧問の先生も異動されたと聞いたし。公立は転勤あるからね」

 母さんの彩が、サラダを口に運びながら事も無げに言う。

 「母さん、他の高校の事情にも詳しいんだね……」

 「音楽のことだけよ。それよりそんなこと言ってたら、私も久しぶりに行きたくなっちゃったわ。晶、今夜は一緒に行くわよ」

 「えぇっ……。保護者同伴……」

 「何よ。私じゃ不満ってこと? お母さんとたまにはデートしなさいよ」

 「より気が滅入る……」

 僕は思わず天を仰いだ。母さんの「行きたい」は絶対だ。元ストリートミュージシャンの血が騒ぎ出すと、もう誰にも止められない。

 「私が不安ならユカリを呼んであげるわよ」

 「えぇ!!」

 占いの師匠、紫さんまで。僕は自分の運命が、急激に騒がしい方向へ舵を切ったのを確信した。


 夜の光が丘へと続く並木道。

 トランクのキャスターがアスファルトを叩く音に、二人の女性の華やかな笑い声が重なる。

 「あら蓮ちゃんそれ新作? 今度見せてね! ……翔くんお久しぶり。なんか男前になったじゃない!」

 「母さん色んな人から声かけられるね」

 すれ違うパフォーマーや若者たちが、次々に母さんに会釈していく。その様子は、まるで凱旋パレードのようだ。

 「あぁ、彩は昔から人たらしだからな」

 隣を歩く紫さんが、面白そうに目を細めて言った。

 母さんが「愛されキャラ」の象徴なら、紫さんはストリートの「守護神」に近い。

 彼女は占いの師匠だが、その実、何でもこなす多才な人だ。

 スケボーを滑らす翔の横で軽々とボードを操り、マジックの練習に励む蓮の手元からカードを掠め取ったかと思えば、数回の試行で蓮を超える鮮やかな手捌きを見せつけて絶望させる。

 ひとたび界隈でゴタゴタが起きれば、誰よりも速く現場に駆けつけ、理不尽な輩を拳一つで黙らせる。

 そんな彼女の異名は紫煙(パープルヘイズ)

 伝説のギタリストでもスタンド使いでもなく、かつて彼女が吐き出していた、夜の霧を紫に染めるほどの猛烈な煙草の煙に由来する。

 「酷い! 愛されキャラって言ってよ。ユカリなんて紫煙(パープルヘイズ)って言われて怖がられてたじゃない」

 「ちょっ! お前晶の前でそんなこと言うんじゃないわよ!」

 紫さんが珍しく声を荒らげる。普段の凛とした占い師の面影はどこへやら、二人のやり取りはまるで女子高生の放課後のようだった。

 「母さんの活動については聞いてたけど……。紫さんも、その頃から一緒だったんだね」

 「ええ。彩が歌って、私がその傍らで石を振っていたの。彼女の歌声は、迷っている人を引き寄せる磁石のような力があったわ。私はただ、集まった人たちの背中を少しだけ押す係。今の君と、少し似ているかもしれないわね」

 紫さんの言葉に、母さんは少し照れくさそうに夜空を見上げた。

 かつての滑走路。かつての歌声。

 僕が今、こうしてトランクを引いている道の先には、僕の知らない二人の記憶が幾層にも積み重なっている。


 「さてと。今日のお店はこの辺かしら?」

 公園の中央、いつもの定位置に辿り着く。

 「そうだね、今夜は水道の近く空いててよかった」

 僕はトランクを止め、琥珀色のLEDを点灯させた。

 夜の帳が、ゆっくりと僕たちの周りに降りてくる。

 「彩、あそこにいるの真司さんじゃないかしら? まだこの辺りで活動していたのね」

 紫さんが、暗がりに立つ一人の男性を指差した。

 「あら本当? 挨拶してこなきゃ」

 母さんが軽やかな足取りで彼の方へ向かっていく。

 その男性――真司さんは、何かに耐えるように肩を窄め、動かないまま夜の空気をじっと見つめていた。

 どうやら今夜の一客目(ゲスト)は、僕よりも先に「かつての仲間」が見つけてくれたらしい。



 「あら本当? 挨拶してこなきゃ」

 母さんが軽やかな足取りで、暗がりに立つ男性の方へ向かっていく。

 僕はトランクの準備をしながら、その背中を追った。


 そこにいたのは、岳牙真司さん。

 かつて母さんとこの公園で何度もセッションを重ね、プロとしてCDも出している有名なサックスプレイヤーだ。

 けれど、今夜の彼は、まるで自分の楽器の重さに耐えかねているかのように、深く肩を窄めていた。


 「あぁ彩くん、紫くんもいるのか、お久しぶり。……あちらの少年は息子さん? たまに見かけるよ。……そうだったんだね。占い、ね……。普段は気にも留めない方だけど」

 真司さんの声は、掠れたリードのように低く、どこか湿り気を帯びていた。


 隣で紫さんが、自分のルーンの袋に指をかけた。

 昔馴染みの窮地を放っておけないのだろう。けれど、彼女はすぐにその手を止め、僕の方を見た。

 「……私じゃ近すぎるわね。主観が入る。晶、あなたがやりなさい」

 紫さんの瞳が、師匠のそれに変わる。

 僕は頷き、トランクの天板に一枚の黒い布を広げた。


 今夜の空気は、春の嵐を予感させるような、妙な重苦しさがある。

 僕はトランクの引き出しから、使い込まれたタロットの束を取り出した。


 「……真司さん。母さんから聞いたことがあります。昔、ここで二人がセッションすると、公園中が沸き立って、おひねりの小銭で飲みに行ったって」

 僕はカードをシャッフルし、三枚のカードを等間隔に並べた。

 「今は、その音が鳴らないんですね。いや、出そうと思えば出せるんだろうけど……自分で自分の音を『こんなもんじゃない』って、ぶった切ってしまっている。そんな感じがします」


 一枚目のカードをめくる。

 そこに描かれていたのは、雷に打たれて崩れ落ちる(ザ・タワー)の逆位置だ。


 「見てください、このカード。(ザ・タワー)が逆さまになっています。昔の派手な崩壊は、もう終わったんです。それなのに、真司さんはまだ『かつての形』を保とうとして、必死に瓦礫を握りしめている。だから肩がそんなに固くなっているんですよ」


 二枚目、現在の場所に現れたのは、木から逆さまに吊るされた吊られた男(ザ・ハングドマン)


 「で、今はこれ。足首を縛られて身動きが取れない吊られた男(ザ・ハングドマン)。血が頭に上って苦しいし、世界が全部歪んで見える。……でも、これって悪いことじゃないんです。逆さまに吊るされて初めて見える景色がありますから」


 僕は少しだけトランクの琥珀色の灯を強めた。

 「吹くのをやめろ、とは言いません。ただ、真司さん。一回だけサックスを置いて、夜の公園を『聴く』側になってみるのも、いいかもしれませんよ。風の音、誰かの足音、遠くの電車の響き。……自分を鳴らすのを一度やめて、世界が鳴っている音を、この逆さまの視点で聴いてみるんです」


 最後にめくった三枚目のカード。

 深い青の中に、幾多の光が降り注ぐ(ザ・スター)


 「この(ザ・スター)は、夜が一番暗い時間にしか見えない光です。今はまだ、真司さんの目には届かないかもしれません。でも、この停滞の先には、ちゃんと新しいインスピレーションが待っています。……私、待っていますよ。いつかまた、母さんの歌に合わせて唸るサックスを、ここで聴かせていただけるのを」


 真司さんは、並べられたカードをじっと見つめていた。

 震える指先が、(ザ・スター)のカードの縁を、確かめるようにそっとなぞる。


 僕はその間に、トランクのボイラーから立ち昇る蒸気を見つめ、豆を挽き始めた。

 今夜の一杯は、『エチオピア イルガチェフェ』。


 「……これ、飲んでみてください。少し独特かもしれません」

 僕は紙コップを差し出した。

 「華やかなジャスミンの香りの後に、深い苦味が残ります。派手な始まりじゃないけれど、静かに身体に沁みてくるタイプです。……真司さんの『今』に似ていますね。最初は違和感があるかもしれないけれど、飲み終わる頃には、夜の冷えが少しずつ溶けているはずですから」


 真司さんはゆっくりとカップを受け取り、その香りを深く吸い込んだ。

 春の夜風が、トランクから漏れる琥珀色の光を揺らしている。


 真司さんは何も言わず、ただ熱いコーヒーを喉に流し込んだ。

 その一口が、凍りついた彼の内側を、ゆっくりと、けれど確実に浸食していくのが見えた気がした。


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