迷える奏者
迷える奏者
日が落ちると、公園の色彩は一変する。
昼間の暖かさは嘘のように引き、湿った土の匂いを含んだ夜風が、木々の枝を大きく揺らした。
春風は、夜になっても止む気配がない。
僕はトランクのLEDパネルを夜間モードに切り替え、小さく息を吐いた。
「高校二年生になって、夜の風は少し柔らかくなった気がする。……でも、誰かの迷いは、春の風に煽られて、かえって大きくなってるのかもしれない」
僕の視線の先、街灯の頼りない明かりの下を、一つの影が近づいてくる。
制服姿の少年だ。
まだ糊の効いた、下ろしたてのブレザー。サイズが少し合っておらず、肩のあたりが不自然に浮いている。
何より目を引くのは、彼の背中にあるものだ。体格に見合わないほど巨大な、黒い楽器ケース。バリトンサックスだろうか。その重さが、彼の重心をぐらつかせている。
少年は僕の屋台の明かりを見つけると、縋るような目でこちらを凝視し、恐る恐る近づいてきた。
革靴がアスファルトを擦る音が、頼りなく響く。
「あの……ここ、占い……やってるって、聞いて……」
声は、風にかき消されそうなほど細かった。
新入生だ。新しい環境、新しい期待、そして恐らくは、それに押しつぶされそうな不安。
楽器ケースの重さが、彼の足取りを少しだけ傾けている。……今日は、大地に聞いてみるのがいいかもしれない。
僕は抽出を終えたサーバーを置き、藍色のフードを少しだけ持ち上げた。
「やってるよ。……でも、まずは温かいものでもどうかな。君のその手、随分と冷えてるみたいだから」
僕は紙コップを取り出し、蜂蜜を溶かしたホットミルクを注いだ。
コーヒーの苦味よりも、今はただ、幼い緊張を解く甘さが必要だと思ったからだ。トランクの琥珀色の光が、白い湯気の向こうで、少年の強張った表情をぼんやりと照らし出す。
「……ありがとうございます」
少年は両手でカップを包み込むように受け取ると、一口すすり、震える息を吐いた。
少年──水島響と名乗った彼は、蜂蜜入りのホットミルクを半分ほど飲むと、ようやく少し人心地ついたようだった。けれど、足元の巨大な黒いケースを見る目は、まだ怯えている。
「……中学までは、自信があったんです。でも、高校の部活はレベルが違いすぎて。先輩たちの音はすごく太くて、遠くまで届くのに、僕の音だけスカスカで……。今日も、自主練しようと思ってここまで来たんですけど、ケースを開けるのが怖くて」
典型的な「初期硬直」だ。高すぎる理想と、追いつかない現実。その狭間で身動きが取れなくなっている。
僕はトランクの引き出しを開け、祖父の遺品である真鍮のコインを三枚取り出した。古びているが、よく手入れされた鈍色の硬貨だ。
「響くん。僕はこのコインで占うけれど、これの素材、なんだか分かる?」
「え……五円玉と同じ、真鍮ですか?」
「そう。でもこれは五円玉と同じ真鍮、祖父の特注品なんだ。……君の楽器と同じ、ブラスだよ」
僕は三枚のコインを掌の中で軽く揺すった。
チャリ、チャリ、と硬質で、しかしどこか温かみのある音が鳴る。
「真鍮は面白い金属だ。叩いたり、息を吹き込んだりして振動を与えないと、ただの重たい塊でしかない。……でも、一度震えれば、どんな金属よりも響く」
僕はコインを高く放り上げた。街灯の光を反射して回転し、黒いベルベットのマットの上に落ちる。
裏、表、裏。それを四回繰り返し、四つのラインを作る。僕の手元に、一つの形が浮かび上がった。
「……出たね。今の君の状態を表すシンボルは『悲しみ』。地面に深く突き刺さるような形だ。重力に引かれて、沈み込んでいる。……まさに今の君だね。重たい楽器を背負って、自分の評価という穴の中にうずくまっている」
響の肩がビクリと跳ねる。図星を突かれた痛みだろう。だが、ジオマンシーはそこで終わりではない。
「でも、この先どう動くべきかを示す場所には、この形が出ている。『小吉』。今はまだ、どっしりと構えて完璧な音を出そうとしなくていい、という合図だ」
僕はミルクの残りを指さした。
「息を深く吸い込んで、全部吐き出す。ただそれだけの繰り返し。大きな音を出そうとするんじゃなく、まずは空気を震わせることだけを考えればいい」
そして、結果を表す場所に現れたのは、上向きの矢印のような形だった。
「最終結果は『喜び』。上昇する力だ。今は重たくても、振動さえ止めなければ、君の音は必ず軽くなって、空へ抜けていく」
響が、マットの上のコインと、自分の楽器ケースを交互に見つめる。その瞳に、少しだけ光が戻っていた。
「振動……」
「そう。……実はね、僕も夜の公園でこのトランクを開けるのが、最初は怖かったんだ。僕の言葉なんて誰にも届かないんじゃないか、ただの独りよがりなんじゃないかってね。……でも、こうして店を開けて、湯気を立てて、言葉を交わしていれば、たまにこうして君みたいな誰かと響き合える」
真鍮は、共鳴する金属だ。一人で鳴らすんじゃない。空間や、聴いてくれる誰かがいて初めて、楽器になる。
「……そっか。僕、一人で勝手に重くなってただけ、なんですね」
響は立ち上がると、楽器ケースのストラップを握り直した。その手つきは、来る時よりもいくらか力強い。
「やってみます。……完璧じゃなくていいから、まずは震わせてみます」
深く頭を下げ、響は公園の奥、練習ができるエリアへと歩き出した。
(……真鍮の響き、か。母さんなら、もっと上手いアドバイスができたかな)
ふと、遠くの闇から、プォォ……と、低く太い音が聞こえてきた。まだ頼りないけれど、確かな産声だ。
僕はその音に耳を澄ませ、静かに微笑んだ。春の風に、よく馴染む音だった。




