春風の滑走路
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第二章:春風の滑走路
三月の光が丘は、まだ冬の骸と春の産声が混在している。
期末テスト最終日の解放感は、物理的な軽さとなって校舎を満たしていた。午前放課を知らせるチャイムと共に、生徒たちは弾丸のように校門から飛び出していく。 その奔流から少し外れた場所で、僕は大きく息を吐いた。
「……眩しいな」
空が高い。 冬の間、鉛色に垂れ込めていた雲はどこかへ消え、磨いたガラスのような青空が広がっている。
桜の蕾はまだ硬く、枝先は茶色のままだが、日差しの強さだけは既に春のそれだ。
進級は確定した。四月からは二年生。教室の階が一つ上がり、そこから見える景色も少しは変わるのだろうか。
そんな感傷に浸る間もなく、隣でパンの袋を開ける音がした。
「んー! 終わった終わった!
ねえ晶、今日はお客さん来るかな? まだ明るいけど」
優子が購買で買ったデニッシュを齧りながら、上機嫌で問いかけてくる。 まだ日は高い。普段なら「夜の住人」を待つ時間ではないが、今日は短縮授業だ。春の陽気に誘われて、公園にはすでに多くの人が溢れている。
「春は、誰もが少しだけ浮足立ってるからね。……こういう時は、夜よりも昼の方が迷子は多いかもしれない」
僕は公園のベンチの脇、少し開けた芝生のエリアにトランクを下ろした。 いつもの深い闇の中ではなく、柔らかな午後の日差しの下で広げる店は、どこか自分のものではないような違和感がある。
けれど、この明るさこそが、今の時期には必要なのかもしれない。
今日の豆は「コロンビア・スプレモ」。
クセがなく、マイルドで飲みやすい。春の不安定な気候で揺らぐ体調には、尖った個性よりも、この「中庸」なバランスが心地よいはずだ 。
お湯を沸かし始めたその時、芝生を踏む足音が近づいてきた。
「あの……ここ、占いやってるって噂の……」
声を掛けてきたのは、一組の男女だった。
年齢は二十代半ばだろうか。男性は薄手のニット、女性はトレンチコート。二人とも社会人のようだが、その表情には新生活への期待よりも、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「やってますよ。……どうぞ、掛けてください」
僕が椅子を勧めると、二人は顔を見合わせ、少し躊躇いながらも腰を下ろした。 女性の方が、意を決したように口を開く。
「私たち、付き合って一年になるんです。それで、この春から一緒に住もうって話になってるんですけど……」
「物件が、決まらなくて」
男性が言葉を引き継ぐ。
「彼女は『広いキッチンが絶対』って言うし、僕は『通勤時間を優先したい』って揉めてて。いくつか候補はあるんですけど、決め手に欠けるというか……本当に今、一緒になっていいのかも分からなくなってきて」
「ちょっと、それどういう意味?」
女性の声が尖る。 ああ、これが「春の毒」だ。 新しい生活への期待が大きすぎるあまり、現実との摩擦熱で心がオーバーヒートしている。
僕は何も言わず、紙コップにコーヒーを注ぎ、二人の前に置いた。
「まずは、少し落ち着きましょう。……引っ越しは、人生の『植え替え』作業ですから。根っこが傷まないように、慎重になるのは当然です」
二人がコーヒーに口をつけ、ふう、と息を吐くのを見届けてから、僕はトランクの引き出しから道具を取り出した。
タロットでも、ルーンでもない。
取り出したのは、一枚の紙とペンだ。
「今日は『ジオマンシー』でいきましょう。大地の占い、とも呼ばれます。土地や方角、現実的な吉凶を見るのに適しています」
僕はペンを握り、紙の上に無作為に点を打っていく。
トン、トン、トン、トン。
リズミカルな音が、春風に舞う埃のように軽い二人の意識を、地面へと縫い留めていく。
偶数か、奇数か。 そこから導き出される十六種類のシンボルが、今の二人の状況を映し出す。
「……出ましたね」
紙の上に浮かび上がった図形を、ペン先でなぞる。
「まず、二人の現状を表すシンボル。これは結合。二つのものが一つになる、まさに同棲や結婚を意味する形です。相性は悪くない。お互いに『一緒になりたい』という気持ちの芯は通っています」
二人の表情が、ぱっと明るくなる。
しかし、僕はその隣にあるもう一つの図形を指した。
「ですが、問題の核心にこの形が出ています。牢獄。……囲い込み、制限、閉塞感を表すシンボルです」
「牢獄……?」
女性が不安そうに眉を寄せる。
「でも、出口はありますよ。……解決の鍵となる方角は、北西」
「北西……?」
「ええ。ここから地図を少し上へずらしたあたり。……県境を越えて、和光の方角でしょうか。この『牢獄』の相、つまり条件の行き詰まりを打破するには、少し視点を変える必要があります」
男性が慌ててスマホを取り出し、地図アプリを開く。
「和光市駅……か。確かにここなら始発が出るから、俺は座って通勤できるな」 「家賃はどう? 最近上がってるって聞くけど……」
女性が不安そうに覗き込むと、男性が画面をスクロールさせながら頷いた。
「いや、見て。都内の駅近だと手が出なかった広さの部屋が、ここなら予算内で見つかる。これなら、君の希望してた広いキッチンも確保できるよ」
「本当だ……! 『安さ』じゃなくて『広さ』を取るなら、このエリアが正解だったんだ」
二人の間に流れていた張り詰めた空気が、急速に解けていく。 「北西」という具体的な指針が、迷いという霧を晴らしたのだ。
「時期についても見ておきましょうか。……うん、この配置なら急ぐ必要はありません。四月の頭よりも、ゴールデンウィーク明けくらいの方が、いい物件に巡り合える運気が出ています」
「そっか……。じゃあ、焦って今月中に決めなくてもいいんだ」
女性が肩の力を抜き、残りのコーヒーを飲み干した。
その横顔は、来た時よりもずっと柔らかい。
二人は礼を言い、何度もお辞儀をして去っていった。その足取りは、もう春風に流されるような危うさはなかった。
「へぇー、紙に点を打つだけであんなことまで分かるんだ。すっご」
「点はただの記号だよ。……大事なのは、彼らが『自分たちで決めた檻』の外側に目を向けるきっかけを作ることだ」
僕は片付けをしながら、空を見上げた。
傾きかけた日が、長く伸びた僕たちの影を芝生に焼き付けている。
春は、誰もが新しい場所へ行こうとして、自分の居場所を見失う季節だ。
だからこそ、こうして地面に点を打ち、足元を確認する作業が必要なのかもしれない。
「さて、日が落ちてきた。……そろそろ、本番の時間かな」
西の空が茜色に染まり始める。
昼と夜の境界線が曖昧になるこの時間。
春風はまだ止みそうにないけれど、僕はこの場所で、もう少しだけ誰かの錨になろうと思う。




