28.ロイの信念
今回は前話に続き、暴力・自殺に関わる重い描写を含みます。
読まれる際はご注意ください。
仲の良かった女性の悲報に、ロイは驚きを隠せなかった。
急いで身支度を整える。
「おい、ロイ。どこへ行くんだ?」
「ごめんなさい、ジェームズさん。少し出かけてきます」
そう言うなり、ロイは店を飛び出した。
ハワード警部に教えてもらった住所を頼りに、ロロリアの自宅へ向かう。
マンションの前には規制線が張られ、空気は重く沈んでいた。
部屋の前にはハワード警部が立っている。
「警部、教えてください。ロロリアさんは何故亡くなったのですか」
「まだ断定はできないが、我々は自殺の可能性が高いと見ている。日記が見つかってね。そこにロイという名前が出てきた。同じ本好きだと書いてあったから、君のことかもしれないと思って連絡したんだ」
「……そう、だったんですね」
ロイは部屋の中を見回した。
床には割れた食器が散らばり、本棚から落ちた本が無造作に広がっている。
テーブルの上には日記が開いたまま置かれ、ベランダから入る冷たい風がページをかすかに揺らしていた。
(ロロリアさんが何故死ななければならなかったのか……僕が必ず読み解いてみせる)
まず、玄関と窓の施錠状態を見る。
壊された跡も、無理やり侵入した痕跡もない。
(第三者が侵入した形跡は薄い……)
次にベランダを見る。
手すりのそばには倒れた椅子。足元には踏み台代わりに使ったような痕。
その時、捜査員がやって来た。
「警部、被害者の夫が到着しました」
背の高い男が部屋に入ってきた。
険しい顔で周囲を見回し、苛立ったように言う。
「おい、妻が死んだって聞いたけど、自殺なのか? 何があったんだ?」
「落ち着いてください。まず、お名前を」
「ああ、俺はマイクだ。ロロリアの夫で、会社員をしている」
「昨日の夜は何時に帰宅しましたか?」
「十九時だ」
「その後は?」
「一時間くらいして飲みに出た」
「奥さんと口論は?」
「……少しだけだ」
「理由は?」
「仕事でストレスがたまっててな。ちょっと八つ当たりしただけだよ」
ロイはその言葉にひっかかった。
“ちょっと”という軽い言い方が、妙に耳に残る。
「警部さん、遺書はありますか?」
「ああ。日記の後ろに挟まっていた」
そこには短く、こう書かれていた。
――ごめんなさい。私はもう生きていく自信がない。
「……警部。ロロリアさんの日記を見せてもらえますか。それで何かわかるかもしれません」
「ああ、わかった」
ロイはページをめくる。
○月×日
今日はロイ君とエドガー君に会った。二人とも中学生で、可愛らしい男の子。ロイ君は私と同じで本が好き。
でも夜になると、あの人がいるから憂鬱だ。
次のページ。
今日もロイ君に会った。同じ本好きだから会話が弾む。
そして今日も、あの人に暴力を振るわれた。
両親はいないし、いったい誰に相談したらいいんだろう。
さらに次のページ。
また怒鳴られた。
今日も腕をつかまれた。
家に帰るのが怖い。
ページをめくるたび、日常のことに紛れるように苦しみが書かれていた。
そして最後のページには、こうあった。
――もう我慢の限界。鳥になって空を飛びたい気分。
ロイは静かに日記を閉じた。
脳裏に、図書館で見た絆創膏や痣がよみがえる。
「警部。僕はロロリアさんに会うたび、傷や痣が増えていることに気づいていました」
「何だって?」
「手の絆創膏、額のあざ、手首の赤み、腕の痣……最初は偶然かと思いました。でも違ったんです。この日記を見ればわかります。ロロリアさんは、日常的に暴力を受けていた可能性が高いです」
マイクが眉をひそめる。
「待てよ。勝手なことを言うな。物が散らかってるのは俺が帰った時からだ」
「口論はしたが、手は出していない。あざなんて知らない」
「では、この日記は何なんですか?」
ロイはまっすぐマイクを見た。
「“今日もあの人に暴力を振るわれた”とはっきり書かれています」
「そんなの、俺のことだって決まったわけじゃ――」
「ロロリアさんが“あの人”と書いた相手が誰なのか、あなたは本当に心当たりがないんですか」
マイクは言葉に詰まる。
「それに、さっきあなたは自分で言いましたよね。ストレスで八つ当たりをしたと」
「それは……口で言っただけだ」
「本当にそれだけですか?」
ロイの声は静かだった。だが、怒りが滲んでいた。
「ロロリアさんは、会うたびに傷が増えていました。偶然で片づけられるものじゃありません」
ハワード警部も厳しい目を向ける。
「マイクさん。本当のことを話してください」
「……」
「奥さんに暴力を振るっていたんですか」
重い沈黙の後、マイクは俯いた。
「……ああ」
「認めるんですね」
「少しぐらいなら平気だと思ってたんだ。やりすぎたとは思ったけど……でも、あいつ何も言わなかったし……」
その言葉を聞いた瞬間、ロイの胸に怒りが込み上げた。
「何も言わなかったんじゃない。言えなかったんです」
「……」
「ロロリアさんは、体だけじゃなく心にも深い傷を負っていた。心の傷は目には見えません。でも時には、体の傷よりもずっと深く人を追い詰めるんです」
冷たい風が吹き込み、開いた日記のページがめくれた。
「第三者が侵入した形跡は薄い。遺書と日記の内容から見ても、ロロリアさんが自ら飛び降りた可能性は高い」
ロイはゆっくりと言った。
「でも、その原因を作ったのはあなたです」
「……」
「自分がしたことを、絶対に忘れないでください」
部屋の空気は重く沈んだままだった。
⸻
夕方の帰り道。
「おーい、ロイ!」
振り向くと、エドガーが息を切らして走ってきた。
「ハワード警部から聞いたぞ。お前、参考人として呼ばれたんだってな。しかも亡くなったの、図書館で会ったあの人なんだろ?」
「……うん」
「すぐ来れなくて悪かった。連絡をもらったのが遅くてさ。急いで駆けつけたんだ」
エドガーはロイの顔を見て、気遣うように言う。
「その……大丈夫か?」
「……」
「お前のせいじゃない」
ロイは足を止めた。
「違う」
「え?」
「僕は気づいてた」
「ロイ……」
「傷も、痣も、苦しそうな顔も見てた。それなのに、“大丈夫”って言葉を信じてしまった」
「でもお前は――」
「どれだけ仲良くなっても他人だって、自分に言い訳してたんだ。聞きたくないことを無理に聞くのは優しさじゃないって。困っていたら自分から話すはずだって。……僕の考えすぎかもしれないって」
ロイは強く拳を握った。
「でも違った。ロロリアさんは、ちゃんと助けを求めてたのかもしれない。僕が気づけなかっただけだ」
「……」
「僕がもっと親身に話を聞いていたら、救えたかもしれないのに」
エドガーは何も言えなかった。
「じゃあ、僕はこっちだから」
「……ああ。気をつけて帰れよ」
⸻
家に帰ると、ロイは倒れるようにベッドに横になった。
そして深く、ため息をつく。
目を閉じても、ロロリアの笑顔が浮かぶ。
「大丈夫」と笑っていた声。
「また明日」と言って帰っていった背中。
「本の中にいる間だけは、何も怖くないの」と言った、あの寂しそうな横顔。
そのどれもが頭から離れない。
ロイは眠りにつくまで、ずっとロロリアのことを考えていた。
⸻
後日――警察からロロリアの日記が遺品として渡された。
ロイは静かにページをめくる。
夫の暴力のこと。
図書館で会ったこと。
エドガーと三人で本の話をしたこと。
そして、ロイと話している時間が楽しかったこと。
最後に、自殺した日の日記があった。
そこには、たった一言だけ記されていた。
――ありがとう
誰に向けた言葉なのかはわからない。
けれど、その一言はロイの胸に深く突き刺さった。
(僕は、彼女の傷や痣に気づいていた)
(それなのに、踏み込まなかった)
(もっと親身に話を聞いていたら、彼女を救えたかもしれないのに)
後悔してもしきれなかった。
ロロリアの笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
ロイはそっと日記を閉じ、立ち上がる。
「……もう、彼女のような悲劇を生んではいけない」
「ロロリアさん、あなたのことは一生忘れません」
「せめて僕の手の届く範囲では、誰も死なせはしない」
その決意は、まだ幼い少年の胸には重すぎるほどだった。
それでもロイは、この日確かに心に刻んだ。
全てを救うことはできない。
それでも、手を伸ばせば救えたかもしれない命があった。
その事実を、ロイは一生忘れない。
28話を読んでくださりありがとうございました。
今回の出来事は、ロイの心に深く刻まれるものになったと思います。
次回はデータセンター周辺の公開エリアを舞台に、ハイジャック事件が起こります。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




