27.見えない傷
今回と次回は、やや重い内容を含みます。
暴力を示唆する描写やつらい展開がありますので、苦手な方はご注意ください。
ロイはエドガーと一緒に、西部エリアの図書館に来ていた。
「どうだ、ここの図書館。結構本の種類あるだろう?」
「本当だね」
高い本棚を見上げながら、ロイは目を輝かせた。
静かな空気。紙の匂い。整然と並ぶ本の背表紙。
どこを見ても心が落ち着く。
(よし、この本を読もうかな)
ロイが一冊の本に手を伸ばした、その時だった。
同じ本に伸びてきた誰かの手と、指先が触れ合う。
「あっ、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ」
顔を上げると、一人の女性が立っていた。
やわらかな雰囲気の人だった。どうやら同じ本を取ろうとしていたらしい。
「お先にどうぞ」
女性はそう言って、本を差し出した。
「いえ、大丈夫です。他の本を選びますから」
「ロイ、本は決めたか?」
エドガーが後ろから声をかける。
「まだだよ」
「君はロイ君って言うの? あなたたち、本は好き?」
「いやあ、俺は普通かな。基本シャーロック・ホームズ以外、あんまり読まないから」
「僕は好きです。大好きです」
「私もよ。よかったら、お互いおすすめの本を紹介し合わない?」
「え?」
ロイは一瞬驚いた。
けれど、思えばこういう形で誰かと本の話をすることは今まであまりなかった。
知らない本に出会えるかもしれない。そう思うと胸が少し弾んだ。
「喜んで!」
「私はロロリアよ。よろしくね」
こうしてロイとロロリアは、休みの日に図書館で会うようになった。
⸻
「わあ、この本、すごくいい話ですね」
「そうでしょ? 私も読んで感動したわ」
窓から差し込む光の中で、二人は小さな声で感想を言い合う。
時々、エドガーもいっしょに加わって、三人で本の話をすることもあった。
そんなある日、ロイはロロリアの手に貼られた絆創膏に気づいた。
「あの……その手の絆創膏は?」
「ああ、何でもないのよ。ちょっと転んで擦りむいただけ」
「……そうですか」
ロイはそれ以上聞かなかった。
本人がそう言うのなら、きっと大したことではないのだろう。そう思った。
「そういえば今日はお友達いないの?」
「エドガーは家業の手伝いがあるみたいです」
「そうなの」
ロロリアは微笑んだ。
けれどその笑顔は、どこか少し疲れて見えた。
⸻
別の日。
図書館を出た帰り道、強い風が吹いた。
ロロリアの前髪がふわりと上がり、おでこに薄いあざが見えた。
「あっ……ロロリアさん、そのあざは」
「何でもないのよ。よそ見してたら壁にぶつけちゃってね。私っておっちょこちょいだから」
「……」
明るく言うその声に、不自然さはなかった。
けれどロイの胸には、かすかな違和感が残った。
⸻
それから数日後。
「この本、返そうと思ってたんですけど――」
ロロリアが本を差し出そうとした時、手を滑らせた。
床に落ちた本を拾おうとした彼女の袖口がずれて、手首の赤みが見えた。
ロイは思わず目を留める。
「あ……」
「どうしたの?」
「いえ、その……」
ロロリアは素早く袖を直し、何事もなかったように笑った。
「最近ちょっと不器用で困っちゃうわ」
「……」
その笑顔を見て、ロイはまた言葉を飲み込んだ。
⸻
また別の日。
図書館の静かな一角で、ロロリアが棚から本を取ろうとした時だった。
近くで誰かが本を落とし、大きな音が響く。
その瞬間、ロロリアの肩がびくりと震えた。
まるで怯えるように、息を呑む。
「ロロリアさん?」
「……え?」
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。ちょっと驚いただけ」
そう言って笑うが、声が少し震えていた。
さらに、その日ロロリアが高い棚の本を取ろうとして腕を伸ばした時、袖がずれて、薄くなった古い痣が見えた。
ロイは息を止める。
(こんなに傷や痣ができるものなのか……?)
⸻
「ねえ、ロイ君は本を読んでる時、何を考えてる?」
ある日、ロロリアが静かに尋ねた。
「うーん……登場人物の気持ちですね」
ロイは少し考えてから答えた。
「そっか……私はね、本を読んでいる間は嫌なこととか辛いこととか忘れることができるの」
ロロリアは本を胸に抱いて、窓の外を見た。
「まるでその本の中に入ったみたいな気がして、とても幸せになれるの」
一度言葉を切ってから、ロロリアはかすかに笑う。
「本の中にいる間だけは、何も怖くないの」
ロイははっとした。
けれど、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。
「……ロロリアさん?」
「ふふ、変なこと言っちゃった。ごめんね」
そう言って笑う横顔が、ひどく寂しそうに見えた。
⸻
しかし日を追うごとに、ロロリアの体には傷や痣が増えていった。
手の絆創膏。額のあざ。手首の赤み。腕の古い痣。新しい擦り傷。
見るたびにどこか傷ついている。
そして、とある日の帰り道。
ロイはついに立ち止まった。
「あの、ロロリアさん。本当に大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「でも、傷が……」
「言ったでしょ? 私、ドジなの。こんなこと日常茶飯事だから、もう慣れてるの。……だから痛くないよ」
笑ってそう言った。
だがその笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
(いくらドジでも、こんなに傷や痣が増えるものなのだろうか)
ロイの胸に不安が広がる。
「じゃあ私、こっちだから」
「ロロリアさん、また明日も会いませんか? いつもの図書館で、また一緒に本を読みましょう」
「うん」
ロロリアは小さく頷いた。
⸻
次の日――。
「ロイ君、不思議の国のアリスを知ってる?」
「もちろん知ってます。名作ですよね」
「私ね、本を読んでいると嫌なことも辛いことも忘れることができるの。特にこの本は、私の心の支えになってるの」
ロロリアは『不思議の国のアリス』の表紙をそっと撫でた。
そして少しだけうつむいて、震える声で言った。
「ロイ君、ありがとね。話し相手になってくれて」
「ロロリアさん……本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
そう言ってロロリアは笑った。
その笑顔が、妙に頭から離れなかった。
「また明日」
背を向けて帰っていくその姿を、ロイはしばらく見送っていた。
⸻
その夜――。
ロイはベッドに腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げていた。
(ロロリアさん……本当に大丈夫なのかな)
怪我のことだけじゃない。
何か、もっと別の事情がある気がした。
けれど――。
(でも、聞かない方がいいのかもしれない)
(どれだけ仲良くなっても、僕は他人だ)
(言いたくないことを無理に聞くのは優しさじゃない)
(本当に困っていたら、自分から話してくれるはずだ)
(……僕の考えすぎかもしれない)
そうやって自分を納得させようとする。
だが胸の奥の違和感だけは、どうしても消えなかった。
⸻
翌日――。
ロイはいつものように本屋で手伝いをしていた。
棚を整え、返却された本を並べ直しながら、昨日のことを思い出す。
(『不思議の国のアリス』、今度はあの場面について話してみようかな)
(また明日、って言ってたし)
その時、スマホが鳴った。
画面には、ハワード警部の名前が表示されていた。
嫌な予感がした。
「もしもし」
「ロイ君か? ハワードだ」
「ハワード警部、どうされました?」
「突然だが、ロロリアという女性を知っているか?」
「知ってますけど……」
「今朝、自宅マンションの下で遺体で見つかった」
「えっ……!!」
ロイの手から、本が滑り落ちた。
(ロロリアさんが……死んだ?)
昨日まで笑っていた人が。
昨日まで本の話をしていた人が。
「また明日」と言って帰っていった人が。
もう、どこにもいない。
衝撃的な事実に、ロイは息を呑んだ。




