17.赤い印
「いくら私が案内したからって、敵に背中を見せるなんて――殺してくれと言っているようなものよ」
耳元で、エンジェルが囁いた。
頬の横に押し当てられていた冷たい金属が、わずかに角度を変える。
引き金にかかる指の気配。
(まずい)
ロイは喉を鳴らした。息が浅い。
足音も、叫び声も、ここでは意味がない。――立ち入り禁止区域だ。
(時間を稼げ)
その瞬間だった。
銃口が、すっと離れた。
「……なーんてね」
エンジェルが軽く笑う。
けれど、笑い声は乾いていた。
銃は下げられていない。ロイの頬に残った金属の冷たさが、まだ消えない。
「ちょっと脅しただけよ。あなたには“身をもって”我々の恐ろしさを知ってもらいたかったの」
「……え?」
ロイは息の仕方を忘れた。心臓だけが暴れている。
「いい? これは警告よ。“赤”はあなたのすぐ近くにいる。とても厄介で、大きい存在。あなたは嫌でも関与することになるわ。あなたのお父さん――リチャードが関わっているから」
「“赤”って……何だ?」
「それは自分で解き明かしなさい。あなたなら――真実を暴いてくれると信じてる」
ロイは唇を噛む。
「……エンジェル。組織の一員でありながら、なぜ僕に――」
「裏口から出て。早く」
エンジェルが指差す。
「またはぐらかすつもりか」
「勘違いしないで。どれだけ情報を与えようと、私が“敵”であることに変わりはない。決して気を許さないこと。……じゃないと」
一瞬だけ、瞳が細くなる。
「本当に死ぬわよ」
その時――通路の奥から、軽薄な声が近づいてきた。
「おーい、エンジェルー。終わったぞー。そっちの見張りはどうだ?」
若い男がこちらへ歩いてくる。
「ほら、早く」
エンジェルの声が低くなる。
ロイは頷くしかなかった。
息を呑み、裏口へ駆け出す。
⸻
ロイの背中が闇に溶けたのを確認すると、エンジェルは目を伏せた。
(アーサー王。あなたが、希望の光になって)
「おいエンジェル。さっき誰かと話してなかったか?」
「いいえ。私一人よ。気のせいじゃない?」
男は肩をすくめる。
「なー、さっきジジイが死ぬところ見たか? 人って死ぬ時、あっけないよなー」
ケラケラ笑いながら、馴れ馴れしくエンジェルの肩に手を置いた。
「……触らないで」
バシッ、と乾いた音。
エンジェルが手を払いのける。
そして、触れられた肩口を、汚れを払うみたいに指先で一度だけ拭った。
「ハッハッハッ。冷たいなー。でも相変わらず怒った顔も美人だなー」
「黙りなさい。悪魔〈サタン〉」
苛立ちを隠しもせず、エンジェルが言い捨てる。
「なあ。“あいつ”は?」
「車で待機しているわ。あなたが殺し損ねたら、いつでも呼べるように」
「俺って信用されてねーんだなー」
サタンは軽薄な笑みを浮かべる。
エンジェルは視線だけで突き刺した。
「さっきの発砲音なんだけどさー」
「分かっているわ。今日は客が少ないし、館内アナウンスで誤魔化しておく。館長がいなくなったこの美術館は、どうせ潰れるでしょうけど。……騒ぎになってニュースにならないよう、念のためにね」
「さすがだな。まー潰れなくても、組織に関わった痕跡を消すために燃やすつもりだったし」
サタンはふっと笑い、何かに気づいたように目を細めた。
「でもさー、子ネズミ一匹逃すと……いくらお前でも、最高幹部が黙ってないと思うぜ?」
「フフッ。私がそんなヘマするわけないじゃない。私は忠誠を誓っているのよ?」
「そうか。なら良かった。すべては――」
「REDのために」
二人の声が、重なった。
⸻
その頃ロイは、裏口から飛び出し、息を切らして走っていた。
靴底が石畳を叩く。
肺が痛い。吐く息が白くほどける。
(……何なんだ、あいつら)
視界が揺れる。背中に、まだ銃口の感覚が残っている。
(落ち着け。まず――生き延びるんだ。)
建物の角を曲がった瞬間、視界の端に停車中の車が映った。
――車内に、男がいる。
指先に、**赤い紙片(十字架マーク)**が挟まっていた
ロイは息を呑んだ。
(……目が、赤い)
血のように濃い赤だ。
男が、こちらを見た。
(まずい。目が合った)
ロイは反射的に速度を上げた。
足音が早くなる。呼吸が乱れる。視界の端で、街灯が流れていく。
角を曲がり、路地へ飛び込んで視界を切る。
それでも――背中の皮膚だけが、見られていると告げ続けた。
(親父は……あんな危険な奴らと関わっていたのか)
答えはない。
5年前に親父は死んでいる。
ふと、エンジェルの言葉が脳裏に蘇る。
『あなたなら真実を暴いてくれると信じてる』
「……やってやるさ」
声は小さくても、芯は硬い。
ロイは角を曲がりながら、さっき見えた赤い紙片を思い出す。
十字架の印。ーー覚えておこう
赤い影は、すぐ近くにいる。
――なら、追いつくまでだ。
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次回は一転して、**花屋で“なくしもの探し”**の回になります。
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