16.取引の裏側
夕方。ロイはカフェの窓際で本を開き、ページをめくる手だけを動かしていた。
視線は文字を追っているのに、頭の中は別の場所にある。
(取引まで……あと三十分)
ため息が、紅茶の湯気に溶けた。
(天使〈エンジェル〉はいったい何がしたいんだ。父さんの手帳を渡して、組織の取引まで教えて……僕のことを“アーサー王”と呼ぶ)
確かに本名はロイ・アーサー・ホーキンス。
だからといって、そんな呼び方をする理由が分からない。
(父さんが関与しているかもしれない組織……。“見ろ”と言われた。なら、何かがあるはずだ)
罠の可能性は当然考えた。
けれど――本当に僕を消すつもりなら、正体を明かしたあの夜に終わっていたはずだ。
ロイは本を閉じ、席を立った。
(行くしかない。取引現場の、美術館へ)
⸻
カフェのすぐ近くにある美術館。
ロイは入口付近で足を止め、周囲を探るように視線を走らせた。
(取引はどこだ……? 裏口? それとも搬入口……)
キョロキョロしていると、職員らしい女性が近づいてきた。
整った笑顔のまま、丁寧に頭を下げる。
「お客様、お手洗いはこちらでございます」
「え?」
その瞬間、笑顔は崩れないのに――声だけが“冷たく”なった。
「あまり見回さない方がいいわ。周りに不審がられる。……アーサー王」
背筋がぞくりとした。
「その呼び方……まさか。エンジェルか?」
ロイが声を落とすと、女は小さく口角を上げた。
「そうよ。早くいらっしゃい。もうすぐ取引が始まる」
⸻
連れてこられた先は、ロープで仕切られた通路だった。
立ち入り禁止の札がぶら下がっている。
「待ってくれ。ここ、立ち入り禁止エリアじゃ――」
「大丈夫。“許可”は取ってあるから」
意味の分からない言葉が、やけに重く耳に残った。
次の瞬間――ロープの向こうの扉が、内側から開いたように小さく軋んだ。
誰もいないはずの奥で、鍵束の金属音が一度だけ鳴った気がした。
ロイは奥へ進み、角を曲がった。
「――あそこを見て」
曲がり角の先、薄暗い通路に二人の男がいる。
若い男と、中年の男。中年の方は美術館の館長に見えた。
「約束どおり、例の物を持ってきた。早く金をくれ」
館長が差し出したのは、小さな瓶――薬品のように見えた。
距離があり、ラベルまでは読めない。
「焦るなよ、館長。金はちゃんとある」
若い男がトランクを足元に置き、軽く蹴って館長の前へ滑らせた。
(取引相手が……館長?)
胸の奥が嫌な音を立てた。
「この美術館が潰れずにいられるのは、俺らのおかげだろ? 感謝してくれよ」
館長は喉を鳴らし、苛立ちと焦りを押し殺した声で言った。
「……このままだと、この美術館が――」
言い切る前に、館長がトランクの留め金に手をかけた――その時。
乾いた破裂音が、通路を裂いた。
――パンッ。
館長の額が跳ね、赤いものが壁に飛び散る。
館長は声を出す暇もなく、床に崩れ落ちた。
(……嘘だろ)
足元の感覚が消えた。
息が、吸えない。
指先が痺れて、身体が勝手に固まる。唾さえ、うまく飲み込めなかった。
若い男は平然とトランクを開けた。
中身は――空っぽ。
「ハッハッハッ。残念でしたー。金なんて持ってきてねーよ。……あっ、もう死んでるから聞こえないか」
笑いながら、死体を見下ろしている。
「はぁ……また証拠隠滅しなきゃいけねえから面倒だな」
若い男が身を翻した拍子に、胸ポケットから赤い紙片がひらりと覗いた。
赤い紙――そこには、小さな十字架のマークが刻まれている。
一瞬で隠れたのに、ロイの目には焼きついた。
(通報……いや、ここで動けば――)
背後に“気配”が滑り込んだ。
次の瞬間、ロイの頬の横に、冷たい金属が押し当てられる。
それが何かを理解するのに、時間はかからなかった。
「油断大敵よ」
耳元で、女が笑う。
不敵で、楽しそうで――怖い笑い方だった。
(……やはり、罠だったか)
ロイは息を殺し、視線だけを動かした。
その時、背後で――通路の扉が、静かに閉まった。
逃げ道が、音もなく消える。




