12.万年筆の招待状
ある日の夜。
ロイは自分の部屋で、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいた。
元学生ラスコーリニコフが、強欲で冷酷な高利貸しの老婆を「社会の害悪だから」「一人の悪人を殺せば多くの人を救える」といった理屈で殺してしまう話だ。
「母と妹を助けようとして殺したのに、善良な妹まで巻き添えにしてしまう。罪を犯したあと、精神が崩れて追い詰められていく……。面白さは“自分から逃げ切れるか”ってところだ」
ロイは紅茶をひと口飲み、静かに呟く。
「――正しい目的があれば、悪をしていいのか。実に考えさせられる」
そのとき、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、眼鏡をかけた“年配に見える男”が立っていた。
髪は白い。だが背筋がまっすぐで、立ち姿だけ見れば年齢が掴めない。
「こんばんは。夜分遅くに失礼します。私はスミスと申します。レスリー様の執事をしている者です」
「あの……どんなご用事でしょうか」
(レスリー?聞いたことないな)
「心当たりがないという顔をなさっていますね。無理もありません。レスリー様は、あなたのお父上――チャールズ・ホーキンスさんの元同僚です。幼かったあなたが知らないのも仕方ありません」
「父の元同僚……」
「今回あなたを訪ねたのは、レスリー様からあなたに渡したい物があるので、家に招待したいとのことです」
「あの……ここに来る時に渡せばよかったのでは?」
「レスリー様は、あなたとお家でゆっくり話がしたいそうです」
「渡したい物とは何でしょう?」
スミスは一瞬だけ間を置いた。
まるで“その反応”を測るように。
「万年筆です。チャールズさんの」
「万年筆……」
(そういえば親父は特注の万年筆を持っていたはず……それのことか?でも何でレスリーさんが?)
「来ていただけますか?」
(父のことを知るチャンスだ。それに、万年筆が気になる)
「行きます」
「それは良かった。では明日の午後にお迎えに来ます。同行者を連れてきて構わないそうですよ」
そう言ってスミスは帰って行った。
ドアが閉まり、ロイは小さく首をかしげる。
「あの人……年配に見えたのに、歩き方が若々しかったな」
不思議に思いながら、ロイは部屋へ戻った。
⸻
翌日。
迎えの車が来て、ロイはルイーザと一緒に乗った。同行者OKとのことだったので誘ったのだ。スティーブ兄さんにも声をかけたが忙しいらしい。
「今から行くのは、ロイのお父さんの元同僚なのよね?」
ルイーザが尋ねる。
「そうみたい。でも僕は知らない人なんだよね」
(親父が死んだのは五年前。当時九歳の僕が知らなくて当然かもしれない)
その時、スミスがバックミラー越しにロイを見た。
“視線が合う”というより、“見透かされる”感覚がした。
「あの……何か?」
ロイが言うと、
「いえ……何も」
スミスは再び前を見た。
⸻
家に着く。
「どうぞお上がりください」
スミスに案内され、居間に入る。
中年の男性が二人いた。
一人は眼鏡をかけ、姿勢が固い。
もう一人は体格が良く、態度も大きい。
(眼鏡の人=真面目で神経質そう。もう一人=強気で声が大きいタイプだ)
眼鏡の男性が驚いた顔でこちらを見る。
「君たちは……」
(驚いてる?僕たちを知ってるのか?)
必死に思い出そうとすると、もう一人の男性が言った。
「まあ座りなよ」
「では失礼します」
ルイーザと一緒にソファに座る。
「ごめんなさいね……主人は書斎からもうすぐ戻ってくると思うから、もう少し待ってていただけますか?」
中年の女性が言う。
(この人が奥さんか……)
「いえいえ奥さん。僕たちは大丈夫ですよ。ねぇラルクさん?」
体格の良い男性が、眼鏡の男性を見た。
「ええ……」
眼鏡の男性――ラルクが短く答える。
「ねぇ君たちは姉弟かい?小さい坊やは小学生かな?」
体格の良い男性が言う。
グサッ。
『姉弟』『小さい坊や』『小学生』という単語がロイの胸を抉る。
「いえ私たちは――」
ルイーザが言いかけると、
「ケインさん、二人とも中学生ですよ」
奥から別の女性――セシルが言った。
(セシル=この家の手伝いの人、落ち着いて周囲を見てる)
「えっ?」
ロイが驚く。
「そうなのかい?それはすまなかったね」
ケインが謝る。
(ラルクさんは僕たちが中学生だと“迷いなく”言った。……前に会ったことがある?)
隣を見るとルイーザも驚いていた。
(それにしても、僕が小さいからって姉弟扱いは最悪だ……)
ロイの精神的ダメージは大きい。
そんな時、足音が聞こえてきた。
「待たせてしまってすまない」
恰幅のいい男性が来た。
(この人がレスリーさんかな……)
「レスリーさん、また足の調子が悪いんだ。診てくれないかな」
ケインが言う。
「ああいいとも。コービンさんは?」
レスリーがラルクを見る。
「私は電話で話した“例の件”について」
「ああ……」
(例の件?)
「それはちょっとロフトを探さないといけないな。何しろ何年も前のことだから」
奥さんが紅茶とお菓子を持ってきてくれた。
「そこにいる少年と少女は?」
レスリーが尋ねる。
「ロイ・ホーキンスです」
「ルイーザ・フェアチャイルドです」
「本日はお招きいただきありがとうございます。父の万年筆を持っているとのことなので受け取りに来ました」
「来てくれて嬉しいよ。万年筆も確かロフトにあったはずだ。少し待ってくれるかい?」
「分かりました」
「あなた、そろそろお薬の時間ですよ」
奥さんが言う。
「ああそうだな。用意してくれ」
(薬……持病があるのか)
ドタドタと足音がしてドアが開いた。
「父さん。外に遊びに行ってくる」
レスリーの息子らしい男の子が言って出て行く。
「まったく慌ただしい奴め。お客がいるというのに」
「あの……そろそろ例のやつを持ってきてくれませんか?」
ラルクが静かに言った。
「ああそうだったな。今から探してくるよ」
(えー。薬は飲まなくていいのか?)
ロイは心の中で突っ込む。
「じゃあ俺はタバコを吸いに行ってこよう」
ケインが言う。
「私はお手洗いに」
ラルクが立つ。
「私は台所で奥さんのお手伝いをしてくるね」
ルイーザが言う。
「うん分かった」
居間にはロイとスミスの二人になる。
(執事なのに、奥さんに任せっきりだ。レスリーさんを手伝えばいいのに……)
(それに、ずっと見られてる気がする)
しばらくしてラルクが帰ってくる。
ルイーザと奥さんも居間に来た。
「あなた、薬ですよ。……あら?いないの?」
奥さんが言う。
「レスリー様ならロフトへ行かれました」
スミスが淡々と言った。
「あらもう……薬の時間だって言ったのに」
ケインがタバコから帰ってきた。
「さっき様子を見たけどまだロフトにいたよ。いったい何を探しているんだ?」
ラルクは黙っている。
(よっぽど言えないことなのか)
一時間ほど時間が経つ。
(レスリーさん遅いな)
「ねぇロイ。いくら何でも遅くない?」
ルイーザが言う。
「様子を見に行こう」
ロイとルイーザが立ち上がる。
ロフトに行くと奥さんがいた。
「あなた、大丈夫?」
返事がない。
「奥さんどうしたんですか?」
ロイが言う。
「薬を飲んでいないから呼びに来たんだけど……ハシゴがなくて登れないの」
「え?」
ロイとルイーザが驚く。
ロイは天井のハッチを見上げた。
(出入口はここだけだ。窓は見当たらない。点検口も……無い)
「登ったんだからハシゴがあるはずよね」
ロイはすぐ判断する。
「奥さん、別の脚立か踏み台はありますか?」
「ガレージにあると思うわ」
「分かりました。僕が取りに行ってきます」
(急げ。呼んでも返事がないなら危険な状態かもしれない)
ガレージに着くと、木製のハシゴが雑に捨てられていた。
(え?ロフトのハシゴだ。……でも今は後回しだ)
脚立を持って家へ戻る。
「おいどうした?」
ケインが言う。
「何かあったのですか?」
ラルクが言う。
ロイは答えず脚立を上り、中を確認する。
そこには倒れていたレスリーがいた。
ロイが駆け寄り脈を確認する。
そして静かに下に降りた。
みんなの視線が集まる中、ロイは首を横に振る。
奥さんは血相を変えて中に入る。
ラルクが青ざめた顔で呟いた。
「……まさか、心臓発作で……?」
「あなた、あなた……!」
ロイは息を整え、言った。
「ルイーザ、救急車を呼んで。それから警察も」
「分かったわ」
「おい、何で警察も呼ぶんだよ?レスリーさんは何で亡くなったんだ?」
ケインが詰め寄る。
ロイは周囲を見回し、現場で“見た事実”を言葉にする。
「まず、ハッチが閉まっていた。中からは助けを呼ぶ声も聞こえなかった」
「それに、ロフト下にあるはずのハシゴがガレージに捨てられていた」
「――事故なら、ハシゴが“外に片付けられる”理由がない」
そしてロイは、もう一つだけ付け加えた。
「それから……レスリーさんの手の周り、埃が不自然に乱れていました。
誰かが触ったみたいに」
ロイは無意識にスミスを探し、見つける。
(この人……主人が亡くなったのに平然としている。慌てる素振りがない。
……この人は一体?)
「僕が考える限り、これは事件性がある」




