続・サヴァンになれずとも ~斎藤唯子の失敗と時田巧の回り道
『サヴァンになれずとも ~作業所の斎藤さん』(https://ncode.syosetu.com/n2771fr/)の続編です。
吐く息が白い。
田舎ではないが都会でもない凡庸な街並みを自転車で駆け抜けながら、雪でも降れば少しはロマンチックなのにと残念がる。
息の白さを面白がるのといい、まだまだ俺は子供の感性なんだなと思う。
馴染みの塾を通り過ぎる。今日は用がない。その先の駐輪場に自転車を停めた。
「さて……」
母が副所長をやっている障害者の為の作業所――正確に言えば就労継続支援B型事業所――を前にして、息を整える。
今日は高校が創立記念日ということで休みだった。それをいいことに母が作業所の手伝いをしてくれないかと頼んできた。納期の迫っている仕事があるとかかんとか言って……いつもは近所の偏差値の高い大学に進学すべく猛勉強を強いるのに、気分転換にと今度は労働を強いてくる。虫のいい話だ。けど嫌ではなかった。
なにしろ作業所に行けば、斎藤唯子に会えるもんな。
駐輪場にいつか見た緑色のママチャリが停めてあって、彼女が来ているのを確信した。
唯子は作業所の利用者の中ではおそらく最年少で、俺と同世代の女の子だ。女子ならクラスにもいるが、どうにもキャピキャピして苦手なんだよな。その点唯子は可憐で物静かで、でも好きな本のことになると雄弁で情熱的なところがかわいい。俺が惚れるのは当然のことで、急に告白して振られるのも妥当だった。ひとまずは友達ということで彼女との関係はスタートした。八月のことだ。
あの夏祭りの後、俺と唯子は主に携帯のチャットアプリでやりとりをしていた。でもくだらない日常会話を試みても返事を返してくれないのはすぐにわかった。それで彼女の勧めてくれた本を読んで感想を言えば、とんでもない長文で応答するのであった。作者の意図だとか作品の生まれた背景だとか、とにかく色々教えてくれた。俺にはよくわからない話も多々あったが唯子が喜んでいるのなら良かった。
しかし遊びに行く話をすれば、全然オーケーをくれないのが唯子だった。唯子の紹介を兼ねて学校の友達と一緒に、なんて誘えば絶対ノーである。都合が合わないとか、直球で無理の一言の時もあった。
一度だけ二人で映画を見に行こうと誘って、来てくれたことがあった。その映画は唯子が原作小説を読んでいて彼女も気になっていたからというのでちょうど良かった。それでちょっとはデートっぽいことを期待したが、全くロマンチックな展開などなかったんだなこれが。
映画を見終わるなり彼女は膨れっ面になって、いかに原作から改悪されていたかを俺に対し捲し立て、一通り言いたいことを言い終えたなら気まずくなってそのまま解散した。後でチャットの方で唯子は謝りまくったのだが、この件のせいで俺は彼女を誘いにくくなってしまった。
というか、それから唯子とは直接会ってない。気が付けばもう師走になってしまった。だから今日みたいな機会を俺は逃すわけにはいかない。
「おはようございます!」
作業所の扉を開けて俺は元気よく挨拶する。すると作業所の職員と何人かの年配の利用者は挨拶を返してくれた。キョロキョロと見渡して、端の方で縮こまっている一人の少女を見つける。
「おはよう、唯子」
「巧君……?」
相変わらず長い前髪で目線を隠すシャイな唯子は、一瞬意外そうに顔を上げたがすぐ俯く。口をもごもごさせるが続く言葉が出ない風だ。だから先に事情を説明する。
「たまたま今日学校休みでさ、母さんが作業所手伝えって」
「そう、なんだ……」
「久しぶりだけど元気そうで良かった」
「まぁ、その……」
思った通り言葉を濁し、唯子は会話を続けようとしなかった。そういうのは苦手なのが彼女の障害だとわかってはいるつもりだ。だが結論から言うと俺はまるでわかってなかった。彼女の表情を読み取ることまで出来ていなかった。
間もなく朝のミーティングが始まり、職員の梶井さんという人が仕事の振り分けなどを発表した。ついでに手伝いの俺の紹介もしてくれた。俺は二階に上がって唯子含む三人の利用者と石鹸台を包装する仕事を任されることになった。
まずピンク青黄色の三色の石鹸台を個包装し、それから職員が検品した後三色を一定の割合で重ねて細長い袋に入れて縛り、バーコードを貼る。俺の担当は青色の包装ということになった。
始めこそ個包装するのに手間取ったが、慣れてくれば子供の俺にでも出来る仕事だなと思った。余裕があるのか、二人の中年女性の利用者はおしゃべりをしながら仕事をこなしていた。一方で唯子は一人黙々と作業していた。ずっと彼女を見ているわけにもいかないのでチラチラとだが、表情はうかがい知れない。
誰かがCDを持ってきて作業中掛けている昭和歌謡が耳慣れなくてちょっと鬱陶しかったのを除けば、労働というにはぬるま湯だった。和気藹々とした雰囲気の中俺は真面目に仕事をやる唯子を観察し、感心した。
あっという間に昼休みが訪れ、俺達は一階に降りて各々食事を摂ったり休憩し始めた。狭い作業所内で人が溢れかえり活気に満ちている。ふと俺は疑問に思ったことを梶井さんに聞いた。
「そういや、なんで二階の仕事は俺らだけなんです? ここの全員でやれば早く終わるんじゃないですか?」
「巧君、出来ることは皆それぞれ違うから。上の仕事はちょっと難しくてね」
「そうなんすか」
誰でも出来そうな仕事だと思ったが、それは勘違いらしかった。軽度の知的障害を持っている人もいれば、唯子みたいにアスペルガーで鬱傾向なのを除けば普通の人と大差ない人もいる、ということだ。
唯子は仕事は問題なくやれているようだがとかくコミュニケーションは苦手で、作業所の中でも浮いている印象を受けた。今も昼飯を食べず、一人で壁にもたれかかって読書を始めている。
一旦俺は外に出て近くのコンビニでおにぎりなど買って、戻ってくるなり口にした。昼食をささっと済ませてなお重みを失わないレジ袋を持って、唯子の前に来て差し出した。
「唯子、これ。中に栄養ゼリーが入ってる。前にあまり食べられないって言ってたけどさ、ゼリーならいけるんじゃないか? 飯抜きで仕事もしんどいだろ」
唯子は顔を上げる。しかし期待とは違って首を横に振った。
「いい」
「遠慮するなって」
「私……憐れまれたくない! 気の毒だって、気を遣われたくないの」
「あっ、すまん。悪かったよ」
「今私……最低……」
唯子はわなわなと震えだし、本を閉じると脱兎のごとく作業所を飛び出していってしまった。
ああ、前にもこんなことがあったな。デジャブだ。また地雷を踏んじまったのか俺は。
仕方なく俺はゼリー飲料を自分で飲み干した。まもなく昼休みは終わり、もう唯子は戻ってこない――そう覚悟して二階に上がったら、後から彼女が階段を上ってきた。
唯子に掛ける言葉が見つからず、そのまま作業に戻った。相変わらず彼女は寡黙で、ただ古めかしい歌謡曲だけが流れている。
三時になって昼からの仕事も終わった。俺は段ボールに詰められた石鹸台の束を見てやりきった感を抱いた。もっとも作業自体は明日も明後日も続くのだろうが、それでも納期に間に合いそうじゃないか。自分がよく働いたという自負を共有しようと俺は唯子に声を掛けようとして――
「あれ、唯子は?」
気が付けば彼女はそそくさと一階に降りてしまったようだ。慌てて姿を探すが、一階に降りてももういない。帰ってしまったらしい。残念だ。
まぁいい。携帯のアプリで話すこともできるし、冬休みに入ればまた作業所にも行ける。会って話すのは難しくないだろう。
なにしろ俺達は友達同士なのだから。
――こう楽観視するのが自分の悪い癖だと、後で嫌でも思い知る。
その日を境に、斎藤唯子は作業所に来なくなった。
始めはちょっとした違和感だった。大学入試の勉強で忙しい合間を縫って以前唯子に勧められた本を読んで、その感想をチャットアプリで送ったところすぐ返事が来なかった。その時は夜中だったしタイミングが悪かろうと寝たのだが、朝起きても放置されたままだった。いや、向こうも忙しいかもしれないと数日待ったが、変化なし。そこで母にそれとなく彼女の様子を聞いてようやく知ったのだった。
音信不通。彼女は無断欠勤していて、作業所の方から電話しても出ないという。
「なんで、そんなこと教えてくれなかったのかよ! 大事じゃんか!」
「あんたに話したら勉強どころじゃなくなるでしょ。唯子ちゃんのことは母さんに任せて」
「心配になるに決まってるだろ、俺はその、唯子のことが……唯子は友達なんだから!」
思わず声を荒げてしまうが、母と言い争っても仕方なかった。問答の末、母は観念したか唯子の住所を教えてくれた。今日はもう遅いので明日行くことにした。
12月24日。街中浮足立つクリスマスイブ。こういう祭りの日なら遊びに行こうと誘うのも不自然ではないだろう。受験はさておき冬休みに入ったし、今日一日は唯子の為に使いたい。
雪でも降ればムードも高まるがただただ冷え込むだけの曇天だ。俺はどんよりとした足取りで唯子の住む小洒落たマンションの階段を上っていた。時刻は昼を過ぎて夕方の前、確実に家にいそうな時間帯を選んだ。それにしても胸騒ぎがする。勿論、いい方にではない。
とはいえ、予想よりも遥かに最悪だった。
俺は401の斎藤の表札がある扉の前に来て、チャイムを鳴らした。しかし返事がなければ変化もない。ここまできて居留守でもされたらかなわない。悪いとは思いつつちょっと乱暴にドアノブをガチャガチャやってみせようとした。すると鍵がかかっておらず扉が開いてしまった。
不用心な――俺は入るべきかどうか迷ったが、異様な空気に吸い込まれた。
「時田巧ですけど、唯子いるか……ん!?」
妙に煙くさくて嗅覚がことの異常さを感じ取っていた。なんだこれは、この臭いを嗅いではいけない、本能がそう訴える。何か、何かがおかしい。
廊下を左手に曲がったリビングには誰もいない。俺はひとまず人の家だというのに勝手にベランダの戸を開けた。澱んだ空気を追い出そうと。それから唯子を探す。彼女はリビングにはいない、いるとしたらたぶん自分の部屋だ。
廊下に戻って右手と奥に三つ扉があって二つは開放されていた。そこにも人はおらず唯子の両親の部屋と推測される。よし、なら最後に残った一つだ。俺は深呼吸した後ノックする。
「唯子、俺だよ巧だよ。今日はクリスマスイブだしパーっと遊ばないか? 外に出るもよし、家で過ごしたいならそれでもいいし。チキンでも買ってパーティーしようぜ」
返事はない。
「悪い、いきなりそんなの無理だよな。そうだ、この前勧められた本読んだけど、面白かった。本について話し合わないか」
返事はない。
「なぁ、入ってもいいか?」
返事はない。俺はいてもたってもいられずに突入した。
「唯子!」
本棚を除けば殺風景な部屋に布団が敷いてあって、その上で唯子は寝ていた。いや、倒れていた、といった方が正しいかもしれなかった。密室は一層煙くさく、それも当然で何故か七輪が彼女の傍に置いてあったのだ。七輪に収まるも収まりきらない大きさの炭を見て、想像しないはずはない。
練炭自殺。彼女は一酸化炭素中毒になっている。
「唯子、唯子、起きろ唯子!」
慌てて俺は彼女の肩を抱いて揺さぶった。七輪の火は消えているようだったが、唯子は起きない。信じられない! どうしてこんな、こんなことに。
なに、誰でもない唯子が言ってたじゃないか。二十歳になったら死ぬ。生きていても楽しいことなんてない、と――
だとしても、このまま唯子が死ぬなんて嫌だ。
「目を覚ませよ、覚ましてくれよ! まだ語り合えてないだろ、なぁ……唯子! 頼む唯子!」
大きく彼女を揺さぶる。やはり駄目だ。救急を呼んだ方がいいか――携帯を取り出して電話を掛けようとした時、声がした。
「巧、君……?」
「唯子!?」
唯子は目を覚まし俺の姿を見るなり、顔面蒼白になっていった。
「嘘でしょ……」
彼女は体を起こし、火の消えた七輪を見つめた。そして悟ったのだろう。彼女の自殺計画は失敗に終わったのを。
「私、吐きそう……」
唯子は部屋から飛び出して、トイレに入った。その間俺はぽかんとしていたが、ともかく彼女が助かったのを喜ぶとともに不安になった。よく見れば枕の傍に空になった錠剤の跡を見つけて、自殺を図る際睡眠剤を一気に飲んでしまったのだと気付いた。
ともかく唯子が心配で俺も部屋を出て廊下で待つ。するとトイレから彼女が出てきて、へたり込んだ。
「どうして、なんで、何をやっても上手くいかないの、私……」
「唯子……」
「巧君、なんで止めたの! なんで死なせてくれないの!」
「いや、俺は今来たばかりで、たまたまで、何もしてない」
馬鹿正直に言って唯子を困惑させる。自分自身アホだなと思いつつも言葉を続ける。
「でも唯子が生きていて嬉しいよ。なんでそうすぐ死のうとするんだよ、俺馬鹿だからわかんねぇけどさ……だから言ってくれよ。話を聞くことくらいならできるからな」
しかし唯子は黙りこくる。俺は目線を合わせるために座り込んだ。彼女の顔をよく見てみると、泣き腫らしたような跡がある。眉間に皺を寄せて、痛みを我慢するかのような、あるいは心底自己嫌悪に陥っているような、そんな表情だった。
「聞かせてくれ。そうすれば少しは楽になるかもよ。俺のことは案山子か何かだと思ってさ」
「言えない……」
彼女は目線を逸らし、俯く。
「わかるでしょ。私は何も上手く言葉にできない。それに本当につまらないし、私の勝手だし……」
「話せることからでいいよ。上手く喋ろうなんて思わなくていいんだ。ただ知りたいんだよ。唯子を苦しめるのは何だ?」
「知って、何になるの……」
「俺は子供だから何の力になれないかもしれない。ただ唯子の助けになりたいという気持ちは嘘なんかじゃない。だって俺達、友達だろ」
「でも……」
唯子は口籠る。俺は彼女の方から話しかけるのを待つことにした。
零れ落ちる涙を見られまいとしたか、さらに俯く唯子。だが止めどない涙を隠すことなど出来なくて、彼女は両手でごしごしと目元を拭う。
そうしてやっと落ち着いたのか、彼女は重い口を開いた。
「私、作業所に行くのが毎日辛くて……」
「辛かった? 作業所がか」
「いや、私が悪いの。作業所に通い続けても未来がないし、誰とも打ち解けられないし、それに……」
唯子は少し気恥ずかしそうに小声で言う。
「音楽が、うるさくて……」
俺はハッとした。ああ、あの少し耳障りな懐メロのことか。そのせいで眉間に皺を寄せながら仕事していたなんて、言われるまで気付けなかった。唯子はいつも前髪で隠しているから――
「あっああ、わかるよ。古臭いCDだろ。世代じゃないもんな」
「でもみんな良かれと思って、善意でやってて……私が我慢すればいいだけ。なのに堪え性がなくて、作業所に行かなくなって……」
「別に休むことは悪くないさ。行きたくなきゃ行かなくたって……」
「駄目なの!」
急に唯子は大声を出した。その後ごめんとすぐに謝ってから、言葉を続ける。
「作業所にすら行けない私なんて、本当に最悪で……生きてる価値なんてない。だから死ぬべきなんだって」
唯子の目の焦点が定まらなくなる。手の十本の指をしきりに動かして落ち着きがなかった。俺はそんな彼女の両手を握りしめた。すると少女は真っ直ぐ俺を見る。
「巧君……?」
「生きてる価値があるかどうかなんて、生きるのに関係なくないか。俺だってのらりくらりとここまで来たけど価値があるのかなんかわからない」
「違う! 巧君は違うよ!」
「違うなんて言いきれるほど唯子は俺のことがわかる?」
「それは……その……」
「誰にもわからない。俺だって唯子がわからないよ。けどさ、だからもっと知りたい。唯子のことが」
「なんで……わけがわからないよ。私のことを知ればみんな嫌いになる。なのになんで! 私なんか最低の女なのに!」
「俺はそうは思わない……前に言っただろ唯子。俺はお前が好きだ。たとえお前が自分自身を好きになれなくても、少なくても俺は好きだから。だから自分が最悪な人間だなんて思わなくていいんだよ」
しかし唯子は首を横にブンブン振った。
「私、怖い……」
「何が?」
「巧君の、優しさが……こんなに構う人、いないから……信じられないの。そんなところが最低で私」
「別に普通だよ。だから唯子も卑下なんかしなくたって」
「普通がわからない……本当に、人と上手く接することが出来ないから……」
唇をぎゅっと結ぶ唯子。彼女の抱えるハンディキャップがそうさせる。ハッキリ言って俺も彼女とどう接すればいいのか、正解なんてわからない。けど間違えたくない。
「そうそうすぐ上手くいくことなんてない。唯子のペースでいけばいいさ。それより今日はクリスマスイブだぜ。勝手にお邪魔して悪いけど、折角だしケーキでも買って食べないか。なっ」
気分転換が必要だ。そう思ったのだが唯子はぽかんとして俺の能天気さに付いていけていない感じだった。
でも言うより行動で示すべしと唯子の手を掴んだまま立ち上がる。けれど彼女は座り込んだまま合わせてくれない。その時だ。チャイムの音が鳴り響いたのは。
唯子はビクッとして恐れていた風だったので、代わりに俺が応対を試みる。するとさっきの俺みたいに向こうから勝手に扉を開けて入ってきた。その姿を目にし、俺は唖然とする。
屈強な男が三人いて、いずれも警官の格好をしていた。
「えっと、警察が何か用です?」
「通報があったので斎藤唯子さんを保護しにきた。君は誰かな?」
「時田巧……唯子の友達だけど」
「では署に同行してもらえるかい」
有無を言わさぬ圧を警官は発していた。この警官の脇にいた二人はすり抜けて中に入り、唯子を囲む。
唯子は肩を震わして長身の大人達を恐れていた。しかし観念したか逃げることもせず警官に付き従う。
そうして唯子と俺はパトカーに乗せられ、警察署に連れていかれた。
署に着いた後事情徴収は別々に行われ、俺は素直に唯子の家に行ったら彼女が自殺未遂をしていたことを話した。するとほどなくして母が来て、引き取られた。
俺は唯子の様子が気になったが警官達は会わせてくれなかった。ただ唯子がSNSにこれから自殺するという予告の書き込みをしていて、ネット友達が通報したらしいという話は聞くことが出来た。
それから、彼女は精神病院に送られるだろう、という話も。
俺は打ちのめされた気分で新年を迎えた。
一体俺に何が出来た。唯子の為になることは何も出来なかった。自殺を試みるまで追い詰められていたことに気付かず、間に合わず、結果として彼女が助かったのは運が良かったからだ。
重荷を背負う唯子に対し俺はあまりにも無力だった。そんな自分が嫌で、考えたくもなくて受験勉強に逃げ込もうとしても、結局は立ち止まって考えこまずにはいられない。けど自分の頭では答えが出せない。知識も経験も、あまりにも不足している。
どうすればいいんだろう。
チャットアプリで唯子とやりとりをかわすこともなくなった。どんなメッセージも未読のまま、それもそのはずあれから精神病院に入院してしまったからだ。それなら自殺もできないし安心だ、って思うほど能天気ではない、流石の俺でも。きっと辛いだろう、唯子は白い壁に閉ざされて植物のように生かされているんだ。最近は嫌な想像ばかりだ。
そんなことを母に言ったらかえって想像力不足だと言われた。医者や看護師が懸命に良くなるよう努力しているんだと。それを聞いて俺はハッと気が付いた。
そうだ、それだ。
早速ネットで調べてみる。「看護師 なり方」とかで検索する。すると暗闇の荒野にパッと灯りが付いて道が開けたような、そんな感覚があった。
正月休みに家族が揃っている時、俺は志望校を近所の大学から看護学校に変えたいという話を切り出した。
「駄目だ。もう一月なんだぞ。直前で進路を変えるなんて、上手くいくと思うか? 大学に行って社会人になってからもそっちの道は行けるだろ。まずは大学に行ってから思い直せ」
予想通り父が反対する。なにせ今まで俺のわがままを聞いてくれた試しがない。
「授業料だって高いだろ。どうするんだ、家にそんな余裕はないぞ」
「バイトとかするし……」
「いつもの思い付きで言ってるだけと違うか? 大体なんで急に看護学校なんだ」
「思い付きじゃねーし! 俺は真剣なんだよ今度ばかりは。人の為になる仕事がしたい。それも心の病とかで苦しむ人の支えになりたいんだ。なっ」
俺は母に目配せする。だが母は険しい表情で睨み返した。
「巧、本気で言ってる? 唯子ちゃんへの下心だけじゃないわよね?」
「なっ、唯子は関係ねぇだろ……いや大有りだわ。俺、あいつに対して何にも力になれなかった。それが悔しいんだよ。唯子だけじゃない、唯子みたいな全ての人を助けたい。そう簡単にいかないのは俺でもわかる。だから専門の学校で勉強したいんだよ。させてくれ! 頼む……」
「はぁ……」
母は溜息をつく。父は依然厳しい顔つきだ。
「その言葉に偽りはないわね?」
「あったりめーよ」
「わかったわ。巧、後は父さんと二人で話すから、先に自分の部屋に戻りなさい。どっちにしろ勉強はしなさい」
「ああ……頼むよ」
俺はその場を後にして自室に入るなり、父と母がどんな話をしているか聞き耳を立てようとした。だがあまり聞き取れない。落ち着かない。勉強はした方がいいのだが……
結局その日は本を読んだりしつつ早めに寝てしまった。
次の日、結果を母からそれとなく聞こうとしたが聞けなかった。昨日の話し合いなどなかったかのように振舞う。それを見て俺は落胆した。やはり駄目だったか。だが関係ない、もし勘当されても何としてでも看護学校に行くんだ、と気持ちを高めた。
ところが正月明けに一番近い地区の看護学校の資料がリビングの机に置いてあった。それを見て俺はきょとんとする。ふと母を見ればオーケーサインを手で作っていた。
それからすぐ俺は看護学校向けの勉強を始めた。学力試験はさておき厄介なのは小論文と面接対策だった。どうしても急ごしらえで上手くいくとは思えなかった。でもやれるだけのことはやった。
試験は二月に終わり、ほどなく結果が出た。
不合格だった。
「はぁ……」
吐く息が白い。三月に入ってもまだまだ冷え込む日々が続いていた。春は遠く、気分も浮かない。
浪人が決まって以来どうにもこうにも元気が出ない。仕方ない、俺が悪いんだ。でも今日ばかりは溜息をつくのもやめようと思う。
春休みに入ったのと同時に母から唯子が退院したと聞いた。だから俺は朝早く作業所に向かう。
駐輪場に自転車を停めるが、唯子が使っているママチャリは見当たらなかった。
作業所の中に入って俺は挨拶をする。おはようと返す利用者達。でも唯子はいない。もう来ないつもりなのか?
それから朝のミーティングの後作業が始まり、手持無沙汰なので俺も仕事の手伝いをする。いつぞやの古い歌謡曲を流す習慣はこの時にはなくなっていた。唯子が嫌がってたことを母に伝えると考え直すと言っていたからそのせいか。きっと嫌な気持ちになる人がいるならやめておく、というような配慮が必要だったんだ。
後は唯子が来るのを待つだけだった。
昼休みになり、俺は朝に買っていたおにぎりを平らげると英語の単語帳を読んで過ごすことにした。看護師になるために勉強は続けなければならない。それにこうして本を読んでいるのは人から気に掛けられなくて済むので気楽だった。だから唯子はいつも昼休みに読書していたのかな。
だが単語帳にも飽きて時計を見る。もうすぐ昼休みも終わる。このまま今日はおしまいだろうか……と思いきや、そっと作業所の扉が開いた。
「こん、にちは……」
前髪を伸ばした華奢な女の子が恐る恐る姿を現す――その消え入りそうな声は斎藤唯子に間違いなかった。
「あら斎藤さん、お久しぶり」
作業所の仲間達が口々に声を掛ける。俺も単語帳を畳んで言った。
「唯子、久しぶりだな。また会えて嬉しいよ」
「巧君……」
「おっと昼休みももうすぐ終わりだ。また後で話、いいか?」
「えっと……うん」
こうして唯子を加えて昼の作業が始まった。
今回は爪やすりを個包装する仕事で、さほど苦戦することなくできた。ブランクのあるはずの唯子も淡々とこなしていた。
そして三時過ぎると終わりということで、続々と利用者は帰っていく。その流れに唯子も乗っていたが、呼び止めた。すると彼女も昼休み前の約束を思い出したようだ。
「巧君、何の話? 私、上手く話せないかも……」
「いや、いいんだ。ちょっと聞いてくれるだけでいいんだ。俺さ、看護師目指して勉強してるんだよ」
「えっ?」
唯子は意外そうな顔をした。俺はなるべく軽い口調で話す。
「いやなんとなくそっちの道に行きたくてさー、でも急に志望校変えたから対策ちゃんとできなくて、落ちちまったよ。現在一浪中ってわけ」
「それは……大変だね……」
「まぁ別にいいんだ、しょうがないしさ。俺頭悪いのは。でも何が言いたいかっつっと、アレだ。色々勉強してるから、その……」
ちょっと気恥ずかして言い澱む。が結果的には伝える。
「唯子のことをもっとわかりたいから、俺頑張るよ」
「私の……為に?」
瞬間、火を噴きそうなくらいに唯子は顔を真っ赤にした。その後すぐ首をブンブン振って目線を逸らす。
「そんなのおかしいよ……私なんかの為に、巧君の人生を棒に振るなんて……私、最悪。また気を遣わせてる」
今にも逃げ出しそうな唯子の手を、俺は掴む。
「いや、たんに俺がやりたいからやってるだけだよ。信じてくれ唯子。むしろお前に感謝してる。唯子がいなければ目的もなく大学に行って、ただ社会の歯車として生きていくだけだった。遠回りかもしれないが、俺はこの道を行きたい」
「それは……立派だと思う……私なんかと違って。私には未来がない。どう生きていけばわからないよ」
「なら一緒に探そうぜ。そう簡単に見つかるもんじゃないけどさ、付き合うよ俺。しばらく暇だしな」
唯子はうるんだ瞳で俺をじっと見る。それから片手で涙を拭いつつ前髪を掻き分けた。
「うん。それなら……巧君を信じるよ」
俺はやっと唯子の顔をちゃんと見れた。本当にようやく、距離が縮まった気がした。