その駅は、婚約破棄された不幸な令嬢を招き食らう
なんちゃってヴィクトリアンな世界です。
ヴェロニカは、こぼれる涙を手でぬぐった。
それでも涙は次々にあふれ、ヴェロニカの頬を濡らす。
「ウェッド様……、どうして……」
裕福な商人の娘であるヴェロニカは、いわゆるアッパーミドルクラスの令嬢として、大切に育てられた。
婚約者であるウェッド・ハースターも同じように裕福な商人の令息で、子どものころからよく顔を合わせていた。
ヴェロニカが12歳の時に婚約し、6年。
5歳年上のウェッドも大学を卒業し、そろそろ結婚かとお互いの両親も話していたところだ。
ヴェロニカも、大商人の妻としてふさわしくなるため、勉強も、ピアノも、社交も一生懸命学んできた。
いますぐにウェッドと結婚しても、新妻として彼を支えられる自負があった。
明るい金の髪と快活な笑みが印象的なウェッドは、幼いヴェロニカの初恋の人だった。
子どものころの5歳差は、大きい。
親に決められた婚約者をほんの子どもにしか見えなかっただろうに、たまに会うウェッドは、口下手だった幼いヴェロニカの話を、いつも楽しそうに聞いてくれた。
彼に会えるのは、彼がパブリックスクールや大学の長い休みで実家に帰ってきているときだけ。
それでも幼いヴェロニカが、未来の旦那様の格好の良さや優しさにときめき、彼の隣にたっても恥ずかしくないレディになるため、努力してきた。
いつか彼を支えられる妻になるために、苦手な社交にも力を入れ、それなりの地位を築いてきたのに。
今日、ウェッドに自宅に招かれた。
最近は彼が忙しいらしく、デートの約束もなかなかできなかったから、ヴェロニカは喜んでお気に入りのドレスを着て、彼の家にいった。
なのに、真剣な顔のウェッドに言われたのは。
「頼む。婚約を破棄してくれ。……他に、好きな女がいるんだ」
苦し気に、ウェッドは言った。
そのかたわらには、はかなげな美しい女が寄り添っていた。
女のことを、ヴェロニカは知っていた。
アイリーン・ガボール。
ウェッドの妹であるアリスの家庭教師だ。
ヴェロニカは、信じられない気持ちでウェッドを見た。
憧れの旦那様が、見知らぬ人のように見えた。
ヴェロニカとウェッドの婚約は、ただの婚約ではない。
お互いの実家である商店の契約でもあるのだ。
そしてこの契約は、互いに利があってする対等なものだった。
一方の勝手な言い分で破棄などすれば、彼の家の商店は大きな損害を出す。
直接ヴェロニカの実家に支払わねばならない慰謝料・違約金も莫大だろうが、それ以上に損なわれるのは信頼。
商人にとって、命と金と並ぶほど大切なものだ。
そして、失った信頼を取り戻すのは容易ではない。
アイリーンは、確か田舎の教会の牧師の娘だったはず。
と、ヴェロニカは、以前アリスから聞いたことを思い出す。
あまり裕福な家ではなく、二人の姉に持参金を持たせたため、アイリーンは結婚もできないのだと。
ケンブリッジで神学を学んだ父親は、幼いころからアイリーンに結婚はあきらめろと教え、そのぶん彼女に教養を与えた。
歴史も、絵画も、フランス語も、確かに彼女の腕はよかった。
だから、若くて美人なのにも関わらず、アリスの家庭教師にもなれたのだ。
家庭教師は、アッパーミドルクラスの娘がつけるほとんど唯一の職だ。
けれど同じ階級の独身の女性を家に住まわせるのだから、たいていの女主人は若くて美しい娘は雇わない。
ウェッドの父親は、妻以外の女性の存在に気づいているのか怪しいほど妻を溺愛していたし、ウェッドも去年までほとんど家にいなかったから、ウェッドの母は腕がよいならとアイリーンを雇ったのだろう。
それが、このような大惨事を招いてしまったのだ。
「本気ですの……?この方は、いくら同じ階級の出身とはいえ、わたしたちとは全く違う生活をされているかたですのよ?」
アイリーンを愛人としたいというのなら、耐えがたいことではあったが、理解できないことではなかった。
なのに、ウェッドは自身の家に大損害を与えることなど明らかなのに、ヴェロニカと婚約破棄し、アイリーンと結婚したいという。
それは、ヴェロニカにとっては、当たり前に尋ねるべきことだった。
だが、それはウェッドを怒らせた。
それまで、自分が勝手な申し出をするのだと殊勝に頭を下げていたウェッドは、立ち上がってヴェロニカを恫喝した。
「……そんなことはわかっている!そうやって、君がアイリーンをいじめていたことも。楽しかったか?アイリーンのような美しく教養ある女性が、自ら働いて生きていかねばならないという不遇をあざ笑うのは!もうすぐ自分がこの家の女主人となるのだ、不興をかいたくなければ黙っていろと言って、アイリーンに暴力をふるったり、ドレスを破いたりしたことは!」
「な…、なんですか、それ」
生まれて初めて男性に怒鳴りつけられたヴェロニカは、恐怖に震えながら、それでもまったく心あたりのない言いがかりに、声をあげた。
「わたしは、そんなこと絶対にしていません!」
だが、ウェッドは「とぼけるな!」とヴェロニカを怒鳴った。
「時折、君が訪ねてきた後で、アイリーンが泣いているのに気づいたんだ。初め、アイリーンは君を恐れて、俺にも本当のことを話してくれなかった。けれど、俺が彼女を絶対に守るからと言って初めて、君のしたことを教えてくれたんだぞ!」
「でも、わたしはほんとうにそんなことをしていないんです!……アイリーンさん、あなた、なぜそんな嘘をおつきになるの!?」
「……いい加減にしてください!ヴェロニカお姉さま!」
ヴェロニカはうろたえながら、明らかに嘘をついているアイリーンに大声で尋ねた。
アイリーンは怯えたように、ウェッドの腕にすがりつき、彼の背に隠れる。
その様子にヴェロニカがなお怒鳴りつけようとしたとき、応接室のドアがノックもなく開いた。
入ってきたのは、ウェッドの妹のアリスだった。
ふわふわした巻き毛の、砂糖菓子のようにかわいい少女だ。
ヴェロニカとは年齢も近く、彼女を義姉として迎えることが楽しみだ、そういってくれていたのに。
今は、アイリーンをかばうように、ヴェロニカの前にたちふさがって、ヴェロニカをにらみつける。
「わたしも、先生にお姉さまからいじめられているってきいて、初めは信じられませんでした。お姉さまはそんなこと、しないって。でも、お兄様は明らかに先生に惹かれていたし、お姉さまは、お兄様が好きだった。お兄様に愛されている先生に嫉妬して、お姉さまが破いたドレスも、わたし見せてもらいました。お兄様が先生に貸したハンカチをインクで汚されたのも。お兄様が先生にプレゼントした本を破かれたのも」
「アリス。あなたまで、なにを言うの?わたしはそんなこと、していない!」
「これ以上、嘘をつかないでください。わたし、あなたのこと好きだった。家族になるのを楽しみにしていた。お兄様が先生に恋をしてしまったのは申し訳なく思うけど、お兄様はまだその時は恋は心に秘めて、あなたと結婚して、あなたを大切にするつもりだったのよ!だけど、あなたが先生にそんな嫌がらせをするから、自分が先生を守らなくちゃって思い詰めて、こんなことになったんじゃない!」
アリスの目には、ヴェロニカに対する憎しみさえ宿っていた。
彼女は、ウェッドがヴェロニカと婚約破棄すれば、この後、自分たちがどんな災難を浴びるのか知っていたのだろう。
けれど、ヴェロニカになにが言えただろう。
「わたし、わたし……、ほんとうになにもしていない!」
思い出すと、また涙があふれてきた。
ヴェロニカは手でそれをぬぐいながら、ふと、ハンカチがないことに気づいた。
(え……、ここは、どこ?わたしはなぜ、こんなところにいるの?)
急に正気付いたヴェロニカは、自分がなぜか駅にいることに気づいた。
先ごろ国中に張り巡らされた鉄道は、いまや国の動脈として、運輸のかなめである。
この国が急速に発展したのは、すべてこの鉄道のおかげだといっても過言ではない。
ヴェロニカも商人の娘として、勉強のためにときどき駅を訪れるし、プライベートな旅行のために列車に乗ることもある。
けれどそんな時は、家族や付き添いのメイドが一緒に決まっている。
ヴェロニカのような育ちの娘が、ひとりで出歩くことなどまずない。
(いつのまにか、ずいぶん暗くなっている…。それに、この駅はどこの駅なのかしら。見たことのない駅だわ。なんだかずいぶん寂しい駅ね)
駅には、数名の上品な格好の令嬢たちがいた。
2、3人ずつ固まっているから、あるいは令嬢と付き添いの侍女なのかもしれないが。
だから多少は恐ろしさが薄れているとはいえ、見知らぬ駅にたったひとりということは、とても心細い。
この駅は小さな駅らしく、建物はない。
ただ乗り降りするプラットフォームと屋根とベンチがあるばかりで、物売りや荷物持ちの少年ひとり見当たらなかった。
(待って……。ほんとうに、ここはどこなの?わたしは、どうやってここまで来たの?)
ハースター家の応接室を泣きながら走り出たことは覚えている。
でも、館を出たことさえ記憶になかった。
ショックで動転して、ここまで走ってきたのだろうか。
けれど、いくらヴェロニカが急に飛び出したとはいえ、付き添いとして一緒にあの場にいたメイドや、ハースター家まで送ってきた御者たちが、ヴェロニカを追わないはずはない。
そして彼らに追いかけられたヴェロニカが、誰にも捕まらずに見知らぬ駅まで来られるはずはなかった。
そのことに気づいて、ヴェロニカの背筋に冷たいものが走った。
恐怖に身を震わせながら、周囲を見回す。
すると、先ほどまでそれぞれに歓談していた令嬢たちが、こちらをじっと見ているではないか。
(怖い。でも、落ち着かなくちゃ。なんだかわからないけれど、危険な状況にいるみたい。でも冷静になれば、切り抜けることはできるはずよ。今まで、どれだけぞっとする状況に出会ってきたと思っているのよ!)
ヴェロニカは、わけのわからない恐怖を、意思の力でねじふせようとした。
父に連れられて見てきた商談の場や、母に連れられて化かしあった社交の場では、一瞬の判断で危機に陥ることなどしょっちゅうだった。
やわらかい笑顔の下で、とんでもない不良債権をつかまされそうになったこともあれば、なにげない言葉を誘導されて、伯爵夫人の不興を買いかけたこともある。
そんな危機的状況を乗り越えてきた自分なら、なにかこの場をしのげるはずだ、と。
だがその瞬間。
「ヴェロニカ!」
大きな男の手が、ヴェロニカの手をとった。
「ウェッド……、あなた、どうしてここにいるの?」
それは、先ほどヴェロニカに婚約破棄を告げたウェッドだった。
ウェッドは、必死で走ってきたのだろう、いつもきれいに撫でつけている髪を乱し、はぁはぁと息を切らせながら、ヴェロニカを抱きしめた。
「ごめん!俺が馬鹿だった!……あの時、ヴェロニカがしてないと訴えていた言葉が、どうしても嘘だとは思えなくて、アイリーンを問い詰めたんだ。そしたら、あの女が自白したよ。ヴェロニカがしたといった嫌がらせは、すべて君を貶め、俺に婚約破棄させるための狂言だったって!」
「……そう」
ヴェロニカは、困惑した。
先ほどはヴェロニカの言い分をまったく聞こうともしなかったウェッドが、こんなに急に意見を変えるなんて。
けれど、ヴェロニカはほんとうにアイリーンに嫌がらせなどしていない。
だから、真実をウェッドが知ることも、自分をだましたアイリーンを捨てることも、当たり前のことではないのか……?
ヴェロニカを抱きしめるウェッドの体が熱い。
襟元のタイも緩められ、ジャケットもどこかに脱いできたのだろう。
シャツごしのウェッドの体はすこし汗ばんでいて、それはヴェロニカを追いかけてきてくれたからなのだ。
ヴェロニカは、ふっと笑った。
さっきまでの絶望的な気分が、嘘のように晴れる。
そうだ。
正式な婚約者で、彼の妻になるべく努力し、愛してきた自分が、身分違いの女に婚約者を取られるなんて、あってはならない。
したたかな女に罠にかけられ、婚約者やその妹に、いつわりの罪を糾弾されるなど、あってはならないのだ。
「許してくれるのか……?」
ウェッドは、懇願するようにヴェロニカを見る。
その目に映るヴェロニカは、以前のような少女ではなく、彼に愛されるにふさわしいひとりの女なのだ。
「仕方ないから、許してあげます」
ほんとうは、まだ胸が痛む。
慕っていた婚約者が、他の女を愛していると言ったこと、自分との婚約を破棄したこと、その女のいいなりになって、自分をいつわりの罪で糾弾したことは、ヴェロニカの心に血を流した。
けれど、ここは鷹揚なところを見せるべきだろう。
結婚生活は長いのだ。
この件で、彼に強い立場を得るのも悪くない。
ウェッドは嬉しそうに笑い、ヴェロニカに手を差し伸べた。
ヴェロニカは、その手を嫣然と笑ってとり、
-----------------------------ぐしゃ
悲鳴をあげる間もなかった。
ウェッドだとヴェロニカが思った「もの」は、ヴェロニカの手をひき、線路へと歩ませた。
それは、ウェッドではなかった。
それは、人間ですらなかった。
ヴェロニカを死に招くためにつくられた、ただの影だったのだ。
大きな音を立てて駅に近づいてきていた蒸気機関車に、ヴェロニカは最期まで気づかなかった。
蒸気機関車も、ひとりの令嬢をひいたことに気づかなかった。
駅にいたレディたちは、それを静かに見ていた。
そして、にこやかに笑みを交わした。
またひとり、彼女たちの仲間が増えたのだ。
今日命を落とした令嬢が、彼女たちの「仲間」になるまで、49日かかる。
その日が楽しみだ。
微笑みあって、レディたちは姿を消した。
また、正当な婚約者に、理不尽に婚約破棄された令嬢がこの駅に誘いこまれるまで。
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「お聞きになりまして?カッターソン商会の令嬢が亡くなったこと」
「ええ。おかわいそうに。自殺だったのでしょう?それは罪深いことですけど、幼いころから慕ってきた婚約者に捨てられたんですもの。女として、気持ちはわかってしまいますわ」
「ねぇ。しかも婚約者であるハースター商会の令息は、妹の家庭教師と恋仲だったそうですわよ!カッターソン商会の令嬢に婚約破棄を告げるときも、家庭教師を同伴させていたのですって!」
「なんてこと……!常識がないのにもほどがありますわ」
「おまけに彼の妹まで、家庭教師の肩を持ったとか。ひどい話ですわよね」
「ええ。パソン侯爵家やラルラ伯爵家がハースター商会の出入りを禁じたと聞いたときは驚きましたけど……。それじゃぁ、仕方がないことですわよね」
「グラニキ伯爵家でも、出入り禁止にしたそうですわよ。あそこの奥様は、カッターソン商会の令嬢がお気に入りでしたから」
「バルセナ男爵家や、エガス子爵家も、同じくですって。まぁまともな家なら、そのような非常識な子供がいる商会とは付き合いませんわよね。ハースター商会の絹は素敵でしたけど、なりかわりたい商人は世界中にいくらでもいるんですもの」
「その家庭教師も、いたたまれなかったんでしょうね。実家に帰ろうとしたんですって。残念ながら、途中で暴漢に襲われて、亡くなったそうですけど」
「まぁ、怖い。……誰に雇われた暴漢なのか、気になりますわね。せめてハースター商会が手配したのでしたら、あの商会もつぶれることはないかもしれませんが」
「でも、その令息は放逐され、妹も田舎の老人に援助とひきかえに嫁がされたそうですわよ。どちらにしても、あの家の人間が継ぐことはないでしょう」
「愚かな子供を持って、少しお気の毒なようですわ。でも、それが親の責任なのかしら」
「うちの子どもたちはだいじょうぶだと信じたいけれど、すこし怖いですわよね」
「だけど」
「大きな声では言えませんけど、すこし感謝もしていますの。わたくしの夫も、最近お気に入りの女優がいたみたいですけど、すっかり彼女とは遠ざかったみたいなんですもの」
「わたくしの夫もですわ。うちなんて、メイドに手を出していたみたいなんです。すこし似ているでしょう?同じような災厄が降りかからないようにと、あわててメイドに暇をやっていましたわ」
「わたくしの母が若いころにも、同じようなことがあったのですって。だから母の世代の男性は、みんな愛妻家が多いとか。……その時も、むかし似たような事件があったから不吉だといって、あの駅はとりこわそうといわれたそうですけど」
「……確かに、あの駅は不便な場所にありますわね。取り壊して別の場所にという意見が出るのも仕方ありませんわ。……でも。痛ましい事件があったからこそ、彼女たちの思い出を忍んで、あの駅は残してあげるほうがいいのではないかしら」
「そうですわよね。わたくし、夫にお願いしますわ」
「あら心強い。鉄道株を多く持っていらっしゃるあなたの旦那様なら、影響は大きいでしょう。わたくしも、旦那様にお願いするわ。……女優の件をほのめかしながら」
「それなら、わたくしもお願いしてみようかしら。メイドの名前をだしながら」
その駅は、何度も若い女性の自殺事件が起きた駅だった。
首都からそう遠くないのに、まわりには何もない田舎としかいいようのない不便な場所にあり、その駅を取り壊し、もっと利便性の高い場所に駅を移そうという話が出ても、必ず反対する人間が現れ、取り壊されずに長い年月残っていた。
世の中が驚くほどはやく発展する中、蒸気機関車が廃止され、その路線が廃止されるその日まで、ずっとそこにあった。
「仲間」を待つ、少女たちとともに。