第四十九話|人間龍
author:権兵衛
「ここら一帯は、国有地だった。浅草公園といってね」参拝を終えた父はまるで見てきたかのように母と私に言った。「いわゆる浅草界隈、今で言う一丁目、二丁目全体が公園だった」
「お父さん、生まれてないでしょ」
私が茶々を入れると、父は得意そうに答えた。
「ああ、だいたい昔の本の受け売りだ」
「江戸川乱歩の怪奇ものにも、よく浅草公園は出てくる」父は観光案内というよりも、怪奇スポット巡りの口調になっていた。「ほれ、左に門があるだろ。この二天門にはいざり乞食に変装した人間豹が座り込んでいて、明智の追跡を逃れた」
「人間豹?」動物好きの私は、思わず反応した。
「そう」私が食いついたことに父は気をよくして、さらに続けた。「人間と豹のハイブリッドみたいな怪物と対決する話だ。乱歩は自作品の中でこの話を一番気に入ってたそうだ」
「気味悪!」
「バカ、その気味悪さが、いいんじゃないか」
「私は一生わかりたくないわ。その感覚……」
私は人面犬みたいな怪物を想像して、幻滅した。犬の身体をヒョウ柄に変更したところで、気味悪い事には変わりない。
二天門を出て食事をしようにも、丁度お昼の時間帯である。どこも観光客が長蛇の列をなしていた。
「やばい。どっか予約して来ればよかった……」
父は端末を見ながら焦り出した。
私はふと、さっきの怪物のことを思い出し、父に尋ねた。
「お父さん、さっきの人間豹。明智さんをまいたあとは、どっちに逃げたの?」
「ん?」
「時代は変わっても、人のいないエリアは変わらないかな、と思って」
「お、なかなか面白いな。その発想」
取り立てて理由があったわけじゃないけど、たまにはそういう行き当たりばったりも楽しいかも。ただ、そう思っただけ。
「明智は本堂へ向かったから、人間豹はおそらく……」
私たちは二天門を出て、隅田川の方へ向かった。目の前に伸びる東参道は、どことなく閑散としている。
「確かに、逃げるには、こっちか……」
端末を見ながら、父はうなった。心なしか観光客も少ない気がする。
「あ。うまそう」
馬道通りを渡り、左手。腹ペコの私は目ざとく建物のエントランスに「上野精養軒」の立て看板を見つけた。
有名老舗にも関わらず区民センターの8階という謎の立地。
そして一人千円そこらにも関わらず、料理はビックリするくらいの美味しさだった。ビーフシチューを、ハヤシライスを交換しては、私と母の女二人、とにかく盛り上がった。
「また食べにくるより、安上がりなんだから」
私と母は結託して、レジ横に陳列された精養軒冷凍セレクションを、大量に父に買ってもらった。
父によると、閑散と見えるエリアは区画上すでに浅草ではないという。
「ここは……花川戸二丁目だそうだ」父の指が端末上をすべる。「ここから隅田川まで、ずっとね」
二天門から河川敷まで伸びる東参道は、概して閑静な住宅街だった。
――すぐそばに浅草寺があるのに、すごいな。
100年近くも変わらなかったであろうこの静けさに、私は何だか恐ろしさを感じていた。
「へえ、姥が池。ちょっと気味悪いね」
端末から父が顔を挙げる。父の視線を追うと、公園の傍らには小さな人工池と小さな祠があった。
「そう?」
昔から私は、そういうものに対して全く感受性がない。ただ食後の散歩がてら、水辺に近寄りたい気持ちから、人工池に駆け寄った。
「昔ここらは荒れ地で、迷い込んだ旅人を取り殺す鬼婆が……」
「ちょっと、やめてよ」
親の手前、怖がってみせる。内心、一度くらいそういうの見てみたいなと思いつつ。
父は端末に視線を落として、旧跡の因縁を読み上げている。
「大丈夫、鬼婆も観音様のお慈悲で、改心して今は……」
「あれ」
父の足元のマンホールの蓋が、かすかに動いた。
***
幸い、蓋はもともと僅かにズレていて、父と私の二人がかりで取り去ることができた。
「……」
まず、目に飛び込んできたのは、角。しかも、ようやくマンホールから出るか出ないかのサイズ感だ。
連想したのは……そう、ディスカバリー・チャンネルの、確かサバンナ特集で見たやつだ。
「ガ……ゼル?」
でも、サバンナの生物が隅田川沿いにいるものだろうか。
「龍、じゃない?」
私の思考を先回りして……いや、さっきのサイトの続きだろうか。父が最も正解に近いと思われる発言をした。
確かに、形は似ていても、ガゼルの角はもっとずっと小さいはずだ。
「うぉっ、ほん」
角の持ち主は、私たちの会話の内容を知ってか知らずか、大きく咳払いをした。
「鬼婆が化身したのに、お爺さんの龍になるの?」
思案顔の父に、私は意見を述べた。さっきの咳払いは、どう考えても男性の、それもかなり歳のいった老翁のものだ。
マンホールからわずかに飛び出た角の先端が、たまに左右に揺れる。
「あ、かわいい」
「とにかく、出してやらなきゃ。男性でも、女性でもさ」
――出す、って言ってもなあ。
弱音を吐こうと、息を吸ったとき。
「アンタ達も、物好きねえ」遠巻きに見ていた母が言った。「飼うなら二人でちゃんと見てね」
「飼う……?」
「私そういうの、無理なんだから。爬虫類系、全般」
父によると、許容できないものの目には、どうやら相応の小物にしか見えないようだった。
「……まあ、逆かもしれないけど」
最後に父は、そう付け加えた。
逆でも対偶でも、私たちに見えることを、真実だと思うほかない。私は吐きかけた弱音を呑み込んで、再びマンホールを覗き込んだ。
「やっぱ、龍かな」
鹿の角、駱駝の頭。キメラである龍の特徴、そのままだ。そして後頭部から顎先にかけて、長い鬣が生えている。項は……ラーメンの丼や寺院建築などで見かける長いタイプのものではなく、限りなく人の形をしていた。要するにそれが原因で肩が引っかかり、外に出られないようだっだ。
「しかし、なぜマンホールの中から……」
父は池の畔の小さな祠を眺めながら、溜息をついた。
なるほど、出るならこういう建物のほうがお誂えむきだろう。
「アナ…クピナ、ウィン」
マンホールの中から声がする。私と父は顔を見合わせた。
……何語?
「ちょっとー、まだ?」
大通りから様子を伺っていた母が、待ちくたびれて声をかけてきた。
「ああー、もうちょっとかかるかも」
「ほんとに、物好きね。あんた達も」
「俺は文に付き合ってるだけさ」父は今さら、妙に気取ってみせた。
「あ、ひどい」私は思わず抗議した。
「おっかないけど、ちょっと見てみようかね」母は好奇心をくすぐられたのか、こちらへやって来た。「どんなお顔してるのかしら――」
笑いながらマンホールを覗き込んだ途端、母は停止した。
「ちょ……お母さん?」
しばらく、返答なし。
はじめは龍の様子を見てショックを受けたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「……されよ」
「え、何?」
「汝が身丈、見誤ったるはわが咎なれば……重ねてかしこみ申す」
「ちょ、ちょっと?」
母は出し抜けにマンホールの中に手を突っ込んで、龍の襟首を掴んでぐいっと引っ張り上げた。
「あ、出た」
唖然とする私の背後で、父の呑気な声が聞こえた。
「ほらもう、行くよー?」
今しがた起きたことなど何もなかったかのように、母は通りに向かって歩き出していた。
「え?え?ちょ、何?……?えええ?」
傍らには見上げるほど巨大な人物……いや、先ほどの龍が佇んでいる。
「……でか」
私は固唾を飲んで、龍を見上げた。
「イーカ……」
龍は困ったような顔をして私に何か言いかけたが、通じないと悟ったのか、それきり黙ってしまった。
「か、帰ろうか。とりあえず」
父はすっかり重荷が下りたような表情でそう言うと、母の後を追いかけて行ってしまった。
これ、私が見ろ、ってことだよね。状況から。
「……うへへ」
困ったままの表情を浮かべたままの龍に、私は無理やり作り笑いを浮かべて見せた。
***
精養軒の冷凍セレクションを口実に、私はとにかく急いで帰ろうと父母にせっついた。
何しろ、私の傍らには2メートルを優に超える龍がのしのし歩いているのだ。こんなのを同伴して、ゆっくり街歩きなんてできるはずもない。
「まだお昼過ぎよ?」このあと松屋で買い物でも、と思っていた母は特に不満の様子。「せっかくみんなで浅草来たのに……」
「だって、精養軒」私はここぞとばかり、殺し文句を切り出した。
「ドライアイス入ってるから、大丈夫だろう」と父。
「ぐ」一瞬で論破された私は、そのまま固まった。
父もこの巨体、見えてるはずなのに。なぜ母の肩を持つ。
「お父さん、まずいよ。だってこんなの連れてんだよ?」私は気を取り直して、声を潜めつつも再び攻勢に出た。
「大丈夫だって。さっき言ったろ?」
許容できないものの目には、それなりの小物にしか……確かそんなことを父は言ってた気がする。
腹を決めて、辺りを見回す。
まったくこちらに注意を向けない人もいれば、あんぐりと口をあけ、呆気に取られている人もいる。
ただし、どんなに見回しても騒ぎだしたり、あからさまな敵意を向けてくる人物は見当たらなかった。
「……それ、信用していいの?」
「ああ、俺の言うことはな」すでに私に背中を見せつつ、父は歩き出した。「だいたい昔の本の受け売りなんだ」
「ちょっと、待ってよ!」
追いかけて走る以外に、ほかにどんな選択肢があっただろう。
くそ、オカルトマニアめ。私は内心、父に悪態つきつき後を追った。
結局私は困った表情のままの龍爺さんを連れて、夕方まで母のウィンドウショッピングに付き合った。
まあ、正確には途中で心が折れて、龍爺さんと一緒にレジ外のベンチに腰かけて、二人してウィルキンソンを飲んでいたのだが。
相変わらず周囲の人々の反応は様々だった。こっちを見て笑ったり、手を振ったり。子供は概して無邪気なものである。
龍爺さんも子供のことは好きなのか、困ったような表情は一瞬で消えて、晴れやかな顔で笑い返したりしている。
また立地上、住職や神職と思しき人々ともけっこうな回数、出くわした。最初はぎょっとした顔でこちらに釘付けになるのだが、ふっと半眼微笑の涅槃顔になったり、口惜しそうに唇を噛みつつ足早に立ち去ったり。とにかく後半の行動が百人百様なのだった(まあ、百人もいたわけではないが)。
「はあ……」放心した私は、ぼんやり天井を見つめながら言った。「帰りたいね~」
爺さんはもはや話すことを諦めたように、苦笑して首を振るばかり。
「参った、なあ」
私はただボリボリと頭を掻いた。
その晩、精養軒のカレーをめちゃくちゃ旨そう食う龍爺さんがツボに入ってしまい、笑いすぎた私は過呼吸でぶっ倒れた。
ソファの上で目が覚めた時には、すでに深夜0時を回っていた。もちろん、精養軒セレクションはすべて爺さんの腹の中に納まっていた。
***
「……そういや昼から、何も食べてないわ……」
気づいたのは電気を消し、布団に入ってからだった。
早々にベッドの4/5を占めて寝息を立て始めた龍爺さんは、ちょっと押し返したくらいじゃ起きそうもない。
「くそ、もういいや」
諦めて、カーペットの上で布団にくるまった私は、明日からの生活を思い描いてみた。
「楽しいじゃない、どう考えても……」
それから私は寝入る直前まで布団に顔をうずめ、笑いを押し殺した。
終




