第四十八夜|無題
author:もっ
これは四国のとある山村で、小学生時代のT君が実際に体験した話だそうです。
彼は毎年夏になると四国にある母方の実家へと帰省し、そこで夏休みを過ごしていました。
祖父母の家はローカル線とバスを乗り継いでようやく辿り着ける山間部で、川沿いの道でお遍路さんたちを相手にした食堂を構えて細々と生活しており、周囲にちらほらとある家も大体は民宿などを営んでいたそうです。
帰省中の間彼の寝泊まりする仏間には冷房もなく、開け放った窓からは絶えず川の音が聞こえてくるものだから慣れるまでは中々寝づらく、また窓の外に鬱蒼と広がる暗い森の景色がなんとも不気味に感じられて(その年は特に、彼が少し前に見た中世の日本の山が舞台のアニメ映画の事を思い出して、夜の森というものが不気味でたまらなかったそうです)、正直に言うと彼はこの家があまり好きではありませんでした。
とは言え食堂を営む祖父母の用意してくれる食事や、日中に近所の子どもたちと川遊びを行ったり、夜人通りのほとんどなくなった道路に集まって花火をしたりと、楽しみなことも多く、なんだかんだ帰省を楽しみにしていたそうです。
その日も彼は、近所の民宿の子たちとともに昼間から川遊びに向かっていました。家の裏手に竹林を持つA君宅の父親が、竹竿で作った簡単な釣り竿を人数分用意してくれたので、パンくずを餌にして川魚を釣ってみようという流れです。
食堂を営むT君の祖父母が魚が釣れたら調理してくれるということで、彼を含む子どもたちは張り切って釣り糸を垂らし、川の流れを目で追っていたそうです。
別に大物が釣れたりするようなことはありませんでしたが、それでも小魚などはかなり頻繁に釣れて午前中だけでもバケツの中には数匹の魚が泳いでいる状態でした。
「もっと、上の方で釣りしてみん?」
それもあって欲が出たのでしょう、一番年長で気の強かったN君がそう発言したのがことの発端でした。
公民館のスピーカーから昼を告げる音楽が遠く響いてくる中、それぞれの親が持たせてくれた弁当を食べているときの事です。
「いけんて。爺ちゃんが山ん中は『がごじ』が出る言うとった」
すぐに反対意見を言ったのは、N君の弟であるK君でした。ややガキ大将気質の兄と違い、弟のK君は大人の言いつけに逆らうことのない気弱で真面目な子だったそうです。
彼の口から出た『がごじ』というのは、この地域で親が子供を躾けるのによく使う、所謂『悪い子はアレに攫われるぞ』というよくある話のもので、T君を初めとしたその場の子どもたちでも本気で信じている人は誰もいません。K君も恐らくは兄を引き止めるための方便として口にしただけだったのでしょう。
ですが、この場ではそれが火に油を注ぐ結果となってしまいました。
「ほんなら、俺たちで見つけてみようやそれ」
おにぎりを頬張りながら、N君が言います。子どもたちで集まって気が大きくなっていることもあって、普段入らない山の奥へ行ってみたいという冒険心が止められなかったのでしょう。
T君はそれを積極的に支持こそしなかったのものの、内心ではN君の提案にわくわくとした気分を感じてしまいながら他の子どもたちの顔色を伺います。
「バレたらまたおとんに叩かれるよ?」
「バレなきゃいいんよ」
不安そうな顔をしたK君を除けば、他の子達も大体はT君と同じような様子でした。夏休みの真っ只中にちょっとした非日常の入り口を感じて、その好奇心を否定できる子供は少なかったのでしょう。
結局、みんなはお昼ごはんの弁当を食べ終わると、N君に引率されるような形で上流へと向けて川沿いを歩きだしていました。
真上から太陽に照らされた山中は、深夜に窓から見る不気味さは全く感じさせない穏やかで心地よい景色でした。
それなりの太さがあった川はやがていくつかの支流に分かれ、T君たちはその中でも一番細い沢を辿って山の奥へと進んでいきます。
頭上を飛ぶ野鳥を誰が先に見つけられるか競ったり、岩の下から顔を出すカニを拾い上げたり、透き通った水の中を泳ぐ小魚を指差したり、非常に楽しい時間でしたが、日が僅かに傾きかけた頃に細やかな冒険も行き止まりに辿り着いてしまいます。
「もう帰ろうよ」
沢は4メートルほどの小さな滝へと行き着いて、それを見上げながらK君がぼそりと呟きます。今思えば大した高さにも見えませんが、子供の背丈から見ればかなり圧巻だったそうです。
ひやりとした水飛沫が漂う心地の良さと、白く泡立つ美しい滝の光景は冒険の終着点としても申し分なく、T君を含む子どもたちもここで少し休んだら引き返そうという気分になっていました。
ですが、N君はまだ満足していなかったようでした。
「ここ、登れそうに見えんか?」
苔に包まれた岩肌を見上げながら、彼がそう言いました。ここまでの道のりがよほど楽しかったのか、他の子供達を見回しながらしきりにそう提案していたそうです。
ここまで歩き詰めで少し疲れていたというのはありつつも、N君の提案で楽しい思いができたということもあって、T君たちはやれやれという感情をいくらか懐きつつも、もう少しだけならと頷きます。
「ここの上見たら、帰ろうや」
N君がそう約束してくれたのもあって、K君も渋々と頷きました。そしてまずは言い出しっぺのN君が岩肌を登り始めます。
完全に切り立った崖ではなくやや傾斜があることや、取っ掛かりになるような凸凹が多いこともあって、体重の軽い子供なら苔で少し滑りやすくなっていることさえ気をつければそう苦労することもなく登れる様子でした。
N君が真っ先に天辺まで登り、他の子達へと手をふるのを見て、T君たちも一人ひとりと崖を登っていきます。
確かに登り始めてみれば案外大したことはないなと、T君もそう感じていました。
先に登った子たちから進んでいってしまう中、T君は最後まで反対していたK君のことが気になって、崖の上に立って最後の一人である彼が登ってくるのを待っていました。
兄に振り回されて苦労しがちなK君に、労いの言葉の一つでもかけて上げられればと思っていたそうです。
「もうちょい、もうちょい」
K君がもうすぐ天辺まで登ってこれる。T君はその様子を見守りながらそう声をかけ、軽く手を振りました。K君もちょっと嬉しそうにはにかみながら岩肌から左手を離して、小さく手を振ったそうです。
そしてそれが、今生の別れでした。
「あっ」
岩を掴む右手を苔で滑らせたK君の上げる甲高い声が聞こえて、小柄な体は4メートルの高さから滑落していました。
そのときの、何が起きたかもわかっていないようなきょとんとした顔が、T君は今も忘れられないそうです。
なにもない空中を、それでも何か掴めるものを探してK君の手が弄っていて、そんな動作を続けながらゆっくりと彼の体が落下してゆく。
そして無防備な後頭部を、沢から突き出した岩が待ち構えているかのように感じられたそうです。
――ぱかっ。
冷蔵庫の角で卵を割るみたいに、さっきまで笑って話し合っていた相手の頭が割れる様の一部始終を、T君は見ていました。
血と一緒にどろりとした灰色のの白子のようなものが溢れ出して、川の中に拡がっていきます。
悲鳴を上げることも、大声を上げて他の子たちを呼ぶこともできませんでした。目の前の自体を受け入れるには幼さ過ぎて、とにかく信じられないという思いばかりが胸中を満たしていました。
T君は何も考えられないまま、川に浮かぶ灰色の破片に小魚が群がってくるのを眺め、やがてK君の最後の声を聞いた子どもたちが集まってくるのが聞こえました。
「……」
記憶にあるのは隣から誰かの絶叫が聞こえたところまでで、その後気がついたときには祖父母の家で布団に寝かされていたそうです。
K君の最後の表情と、溢れ出した脳漿が小魚に啄まれている光景が頭から離れず、目を覚ましても布団の中で震えて泣くことしかできなかったそうです。
祖父母の用意してくれた食事も喉を通らず、大人たちからの質問に答えようにも声すら出ない。
K君の通夜に出ることすらもできず、彼は数日を仏間の布団の上で過ごし、やがて父親の運転する車で実家へと連れ帰ってもらったそうです。
しかし、父親からの慰めの言葉も、母親の包容も、彼を救うことはできませんでした。
心療内科に通院しカウンセラーと会話を重ねても鮮明に焼き付いたトラウマは彼を苦しめ続け、それまでの陽気な人柄が嘘のように暗く落ち込んだヒビを過ごすこととなりました。
そんな彼に訪れた転機が、18歳のときに親戚のお兄さんから半ば強制的に連れて行かれる形で訪れたインドでした。
柔らかな自然光に包まれた山の中の澄んだせせらぎとはまるで違う、あらゆる不浄を内包し淀んだガンジス川の光景は、千の言葉を重ねるよりも雄弁に彼へと示していたのです。
水葬された人の遺体と動物の死体とが、どちらもただの物体として濁りきった川を流れていく光景、そして誰もそれを気にしていない様子。
T君はその空気を肌で感じながら、両目から熱い涙が溢れ出してくるのを感じたそうです。彼がどんなに声を上げて泣いても、その声は雑踏の中に飲み込まれて消えていく。
その時こそ彼の中で、蒙が啓けたそうでした。
引きこもっていた彼は苦学しつつも大検を取得し、今では大学生となってインド哲学を専攻しているそうです。
T君はこの体験談を『どんなに苦しい出来事でも、いつしかそれも切り離せない自分の一部になっている。いつかそう思える日が来るんです』と締めくくっていました。
終




