第四十五夜|Balkan (Dissonant) Polyphony
author:権兵衛
ムスタファ・ステファノフスキの乗った騾馬車は、目的地であるトポルニツァ村の牛乳屋に着く2時間半前に――つまり自宅を出て4分後に、自ら掘り進めた家禽用水路に車輪を取られ、2回転半して牧草地の上で横倒しになった。
ムスタファは最初の1回転目で危険を察知し、御者台の前を行く吾が輓獣の首っ玉に縋りついた。いや、少なくともそうありたいと彼は強く希っていた。
しかしながら、結果はそれと著しく相違していた。まず、目指す騾馬の首はムスタファの想像した4倍以上遠くにあった。次に、大きく傾いた馭者台からは、望んだ方角に跳躍するのは困難だった。そして最後に、彼は持病の坐骨神経痛のために、すぐに立ち上がることはできなかった。
結果として彼は、御者台の左右から生えている轅に縋りついた姿勢のまま、荷台とともに2回転半して、牧草地の上で横倒しになったのであった。
その頃には、すでに轅の先に騾馬は繋がれていなかった。彼は――この場合の彼とは親愛なる騾馬氏の謂いであるが――主人であるムスタファ・ステファノフスキほど荷車にも、轅にも未練はなかったと見える。
結果的に、轅にしがみついたのはムスタファ・ステファノフスキにとって良い選択肢であった。あのまま御者台に座したまま2回転半した上で牧草地に横倒しになり、なお息災でいるためには、彼の肉体の七割以上が鉄、或は真鍮などの卑金属類で組成されている必要があると思われた。
「……」
人は一般に、脳髄に強い衝撃を受けると一時的にその前後の記憶を失ってしまうというが、わがムスタファ氏の身の上にも同様の現象が起きていた。即ち、彼は改めて轅にしがみついている状態の自分を見出だすと、一体この身に何が起きているのか考えてみることにした。
「……燕麦の粥だ」
彼の脳裏に、徐々に今朝の食卓の光景がが蘇ってくる。
牛乳の蓄えが底をついていたせいで、女房に牛乳無しの燕麦粥を出されたムスタファは、無言のままゆっくりと椅子から立ち上がった。
動きが緩慢であったのは、ひとえに坐骨神経痛のためであったのだが、あえて手を添え椅子を引くという動作をしなかったのには歴とした理由があった。
──やがて、不快な音を立てて椅子が後ろ様に倒れる。
この音こそ、いまの自らの心の裡を表すのに相応しい。ムスタファは内心ひそかに北叟笑んだ。
併しながら、彼の女房であるダニエラも負けてはいなかった──ただし、この鞘当てを描出する前に、まずはムスタファの偏屈と癇癪に対抗しうる器量の持ち主との謳い文句つきでステファノフスキ家に持ち込まれた、ひとつの縁談について説明しておかねばなるまい。
***
かつてムスタファの父アフメトは、吾が息子が四十を超えても徒らに牛を追い暮らし、天涯孤独の牧童に甘んずるのは宜しくないと考えた。従って先述の縁談の提案が持ち出されるや、彼は即日にして吾が息子のために勝手に祝言を挙げてしまったのである。
ムスタファは父の一存で勝手にダニエラを配偶されたことよりも、むしろ自らの所有する牛5頭を知らぬ間に売却されたことについて大いに憤った。
ムスタファは不満を腹に抱え込んだままその日の昼間をやり過ごし、いよいよ夕方から始まった婚礼の最中、満を持して椅子から──丁度、先ほどと同じ所作をもってして──立ち上がった。
まず彼は名指しで父の横暴を告発し、それから彼の独断と専横によって齎されたこの婚姻の無効を強く主張した。
息子の長広舌が終わると、次に父のアフメトが立ち上がった。息子の胆汁質を知悉していた父は、不快な音を立てて倒れる椅子を物ともせず、息子が今の今まで孤独癖に陥ることなくなお独り身で居られた理由について、自らの見解を披露した。
──すでに読者諸兄もお判りのことと思うが敢えて云おう。それは同時に彼が息子ムスタファの所有せる牛五頭を悉く売却した理由をも兼ねていた。
わずかの沈黙ののち、ムスタファは父に踊りかかった。アフメトも当然、予め息子からの攻撃のための確りと備えをしてあった。組伏せられた父は返す刀に左手いっぱいに捧げ持てるマスタードをたっぷりと息子の顔に塗りつけた。当然それは覿面に効果を発揮し、ムスタファは断末魔もかくやと絶叫しつつ所狭しと転げ回り、それきり諍いの手を止めてしまった。
父アフメトのたった一つの誤算は、この諍いが水平方向にではなく、垂直方向に展開していたことであった。息子に先手を打って仕掛けたとき、彼のマスタードは当然地球の引力によって大きく見開かれた彼自身の目の中にも入って行った。
尤も、大きく見開かれた目は引力の作用と寸毫も関係しない。それはひとえにステファノフスキ家に連綿と受け継がれた癇癪持ちという血統のなせる業であったろう。
意外にも事態はあっけなく収拾した。
人生の檜舞台をかかる乱痴気騒ぎにまで貶めた二人の下手人に水をかけたのは、ほかでもなく花嫁のダニエラであった。
尚、これは決して比喩ではない。
彼女は正真正銘、蔵出しの白葡萄酒を冷やしていた大樽入りの氷を、手ずから二人に浴びせかけたのである。
ムスタファは心臓が止まりかけ、アフメトに至ってはそれから半日のあいだ実際に心臓が止まった。
会場は当然色めき立ったが、ダニエラは落ち着き払って義父と二、三の言葉を交わし、それから立ち上がって彼の容態はあくまでも酩酊によるもので当人も大いに反省している、願わくば暫し頭を冷やしたいので得心の行くまでこのまま氷の中に漬かっていたい、そう仰るのですと宣言した。
間近で一部始終、彼女の一人芝居を目撃したムスタファは、一転してこの婚姻を受け入れることを内心、固く決意した。
驚くべきは、晴れてムスタファの女房となり、同時に義父殺し未遂の被疑者たるべきダニエラの弁明であった。彼女はこの事案についていかなる人物から難詰を受けても一貫して「責はあくまでも婚礼の破壊者たるアフメト父子に帰すべきである」との主張を曲げなかった。それは二十年経た今も同じであった。
***
そういった間柄であるから、牛乳無しの燕麦に不快感を呈したムスタファの顔面にダニエラが雄鶏を投げつけた今朝の経緯についても、改めて言を重ねて注釈する必要はなかろう。
自らの不甲斐無さが祟って牧童の仕事を放棄せざるを得なかった以上、牛乳が払底したことについて貴方からいかなる指弾をも受ける謂れはない、せいぜい雄鶏をしてそれを出さしむべきか否か試みよ、とまあ、そのような含意であった。
ムスタファはそこまで思い出すと、あとは自身がいかなる理路を経て今こうして騾馬なしの轅にしがみついているのか、おのずと明らかであった。
彼の坐骨は結婚以来、移動に次ぐ移動の楽隊生活によって凡そ恢復の見込みが立たぬほど傷んで了っていた。にも拘らず、不思議なことにその四肢を轅に巻き付け、こうして取り縋っている限りは落下する虞はないようだった。
昔取った杵柄とはいえ、四十余年のあいだ牧童として野辺を歩き回った脚力、それと二十年来楽団の一員として葬列に加わり、または婚礼に招かれ、ただ只管に提琴を弾く生活によって程よくしなやかに鍛えられた腕力とが、もしかしたら仰向けに保たれたままの彼の身体に奇跡的な均衡を齎すのかも知れなかった。
やがて彼はひとつの結論に辿りついた。すなわち、自分がいま縋り付いているのは決してガレー船の帆桁や聖サヴァ教会の側廊を支える飛梁といった類のものではない。従っていまこの手を離したところで落下するのは精々1サージェンかそこらであろう。まず両脚をゆっくり離し、そのあと両掌の力を抜けばすっかり元通り、他の村人たちと同じようにまた地上を歩き回ることができる。
ひと呼吸措いて、彼はまた思った。
「併し、坐骨をも考慮せねばなるまい」
まず両掌をゆっくり離し、そのあと両脚の力を抜くべきだろうか。
ムスタファ・ステファノフスキは轅を握る手に、改めて力を込めた。
***
「どうも違うぞ」
先刻まで辺りを憚っていた首長アバズ・ビシュマニの声音は、すでに普段の大きさに戻っていた。
夜更けも夜更け。立て続けに鳴り響く銃声に驚いたアバズは、彼の助役であるイブライムを伴って馬を駆り出したはいいが、やがて集落を取り巻く空気のそのあまりの平穏に、露軍および土軍、その何れよりの侵略についても、可能性は薄いものと判断せざるをえなかった。
――何とならば、馬の嘶きすらも聞かれない。ならば斥候か?否それならば何故抑々の初めにに銃声が鳴る?
「では、ほかに心当たりが?」
傍らに駒を進めた助役が、恐る恐る首長の顔を覗き込んだ。
応える代わり、首長は手綱を一杯に引く。暗闇の先には当然、横倒しになった荷台と、相変わらず轅にぶら下がったままの馭者の姿があった。
***
「そんな格好で、疲れはしないか」
首長の問いに、珍しく神妙な態度でムスタファは静かに首を振るばかり。
そのように問われても、実際のところ彼には取り立ててあげつらうべき苦痛は感ぜられないのだった。彼はすっかり更けた夜の空を仰ぎながら、助けを呼ぶために慣らした号砲を懐にしまい込んだ。
──事故の前後の記憶を取り戻すにつれ、自分の不運をかこつよりも先に、この横木の正体が帆桁でもなく飛梁でもなく、地表からほんの1サージェン足らずの高さにある轅に過ぎぬと知り、己は改めて生きていることの有難さ、また同時に神のご加護を感じたよ。
ムスタファの述懐を聞いたイブライムは、笑いを押し殺しつつも提案した。
「成程。それでは脚が先か、手が先か。己が心得ある者共を募って来よう間、神妙にそこで待っておれ」
程無く、そこへ招かれ来た「骨接ぎ師範」と名乗る男の主導によって、まずはムスタファは右手を離し、次いで左足と互い違いに轅の束縛を解いていった。
物見高い村人たちにとっては、癇癪持ちのムスタファが世にも珍しい姿態で轅にぶら下がったまま、気味が悪いほど大人しくしているのを見物するのは大に愉快なことであった。事あるごとに彼の、あるいは彼の一族の奇行に振り回されてきた村人にとって、それはささやかながら意趣返しと呼ぶに相応しい椿事であった。
やがて師範の導きにより、殊更の痛みも伴うことなくムスタファの五体は地上に降り立った。
彼の周囲からは自然と心ばかりの拍手と、小さな歓呼が上がった。
かくして牛乳を贖う能わず、あまつさえ騾馬も荷車も失ったムスタファ、さは云え命あっての物種よと、意気揚々と女房の待つ自宅へと戻って行った。
幸いにも彼は、あの朝斯くも多くの村人に取り囲まれつつも、誰一人彼が地上に降りんとするを扶けなかったことに、何ら疑念を抱くことなく生涯を畢えた。
それは時としてその癇癪によって周りを大いに混乱せしめつつも、あくまでも一人の漂泊民として懸命に生涯を全うした彼への、神からのささやかな加護と考えることはできないだろうか?
終




