第四十二夜|An encounter & A farewell
author:夜いるか。
春、胎動する春。
一九九九年は僕にとって決定的な年だった。その年、初めてまともに彼女と呼べる相手ができ、そして死んだ。中学からの幼なじみはクスリをやって収監され、父親に末期の癌が見つかった。
大学に入って二年が経ったある春の日のことだ。僕は休講になった講義のことを考えながら生協で文庫本を漁っていた。当時の僕はだいたい本を読むか、小銭稼ぎの家庭教師をするか、あるいはケンジと飲み明かして永遠とも思える時間を消費していた。大きなトラブルはないが同時に刺激もない、業務用冷凍庫のような日々だ。
「これ、どっちがいいと思う?」
見知らぬ声に脈絡もなく話しかけられて、僕は思わず手に持っていた本を取りこぼす。目の前の女性とは一度演習のクラスが同じだったくらいで、そのほかに交流はない。出欠の時に呼ばれる名前くらいは知っていたけれどキャンパスで会っても会釈をすることはないし、まともに会話を交わした記憶すらなかった。
彼女はまず左を向き、続いて右を向いた。小さな白いハンドバッグが遠心力で振れる。両耳のピアスが違っていたから、どちらがいいかということを聞いているらしいと理解した時、すでに彼女は話し出していた。
「今日、合コンでさ」
どうして僕に聞くのかという疑問を押さえつけて、提示されたピアスを観察する。一つはアンタレスのような赤い石が付いたもので、もう一つは馬の尾のように長かった。正直どちらでもよかったけれど、直感に頼った返事をする。足元の敦煌では瓜州が燃えていた。
「そう! ありがとう。じゃあ」
それだけ言って彼女は生協を出ていった。後を追う必要は感じられなかったし、これ以上話す内容もなかったから僕は本をもとの位置に戻して次の講義が行われる教室へ戻った。一度落としてしまった本を買うべきかについてしばらく悩んだけれど、これはどちらかというと彼女の責任だろう。あまり余裕がない学生として余計な出費をしたくはなかった。
教授は人がまばらな教室でひとしきり倫理学の歴史について語ったあと、満足気に手についたチョークの粉を叩き落とした。講義の内容は駿馬のように僕の耳を通り抜け、どこかへと消えていく。瞼の裏に残ったピアスの赤色が、燃え盛る瓜州の光景と重なった。
次に彼女と会ったのは大学の最寄り駅近くの喫茶店で、昼過ぎだった。この店はわかりにくい立地ゆえにちょっとした穴場で料理も安かった。二人掛けの机の奥に座って本を開く。人の気配を感じたから店員が注文を取りにやってきたのかと思ったが、影は僕の前で静止している。顔を上げると、あの時の女性が正面の椅子に座ろうとしていた。
「久しぶりかな。あれ、この前会ったのいつだっけ?」
傘を忘れたときに限って遭う大雨のように遠慮がないなと思った。僕だって拒絶しているわけではないのだから彼女を批難することができない。窓から差し込む日差しのまぶしさが印象的な、五月のことだ。
「どうだったの、合コン?」と僕は言った。傍から見れば少し動揺しているように見えたかもしれない。
「すぐに抜けてきちゃった。面白くなくてさ。男も女もみんな、自慢話ばっかり」
合コンはそういうものだろうと思ったけれど、黙っていた。思考は煙草の煙のように消えていく。きっと喫茶店の天井にはいろいろなものが溜まっているだろう。たとえばそう、口にすることができなかった僕らの想いとか。
ようやく店員がオーダーを取りに来て会話が一度中断する。会話として成り立っていたことの方が不思議だった。
「それで?」と彼女が言う。腹を指圧して腹痛の原因を探る医者のような言い方だった。
「君から話し出したんじゃなかったっけ」
「そうだったかな。なら、私のこと知ってる? 例えば名前とか」
これは本来なら一月前の生協でなされるべき会話だった。順序が大きく組み変わっているなと思った。僕は頷く。彼女は無反応だった。
「今から暇?」
再び僕は頷く。首振り人形の気持ちが少しだけわかる気がした。この後開講されるはずの講義は頭からすっかり抜け落ちていた。僕を操る誰かがロケットペンシルの芯を組み替えたようだ。
「ならちょっとだけ付き合ってよ」
「いいけど、どこに?」
「決まっていない。なんとなく、歩きましょ」
昼食を早々に切り上げて僕ら二人は歩きだした。日はまだ高く、穏やかな午後だ。今日は家庭教師の予定もないし、ケンジは中学の終わりから付き合っている彼女とデートしている最中だった。現在のところ、僕を必要としている人間は誰もいない。そう、よくわからない女性を除いては。
「わたし、二十一歳で死ぬの」
唐突に彼女が言った。田舎道にある踏切のような潔さだ。死という聞きなれない単語に頭の方が後から追いつく。いくつか想像をめぐらすが、答えはどこにも現れない。隠されているのか、元より存在していないのか。
「二十一歳って、あと何か月ある?」
「ちょうど七か月。今年の終わり」
「よくわからないな」
「そう、よくわからない。私にも、ミチル君にも」
とにかく、と彼女は言った。
「死ぬことになっている」
「誰が決めたの?」
「神様か、私が」
大きな差だなと思った。月と太陽の違いみたいだ。
「どうしてそんな話を僕にするわけ? 僕と君はあまり親しくないような気がするけど」
だって、と彼女は続ける。
「合コンでいえる話じゃなさそうだし……」
僕になら言えるという理由は依然はっきりとしない。気づかない間に一駅分を歩いていた。背中がじわりと温かくなる。風はまだ心地よかったが、大気のどこかに夏を隠していた。
夏、冷気を帯びた夏。
それから何度かの邂逅があって、僕らはより親密な間柄になった。ありていに言えば付き合うということだったけれど、なにぶん彼女は数か月後に死んでしまうらしい。春の終わり以降、この話題について話したことはなかったし、こちらから切り出すこともなかった。だから真意についてはわからない。世の中には明らかにしない方がいいことだってあるだろう。ひっくり返さない方がいい石があることを、田舎生まれの人間なら身に染みて知っているはずだ。
七月の頭だった。いよいよ夏の本番に入ろうとしている。扇風機が不規則に振動している。中古の冷蔵庫のがなり声にはすっかり慣れていたけれど、今日は妙に気になった。
その日、僕は初めて彼女と交わった。ケンジからいくつか話を聞いていたのとは正反対で、それは極めてスムーズなものだった。牛乳と珈琲の交わりに似ていると思った。相性がいいのかもしれない。もしくは相手が慣れているのか、そのどちらかだろう。
彼女は背を向けて僕の隣に横たわっている。ひどく汗をかいていた。僕だって同じだ。この命があと三か月足らずで失われてしまうとは思えなかった。悲しいということではなく、ただ信じられない。人類が宇宙に行くのだと百年前の人が理解できなかったのと同じだ。僕らのほとんどは自分たちの命が当面の間は続いていくものだと思っている。社会だってそういう風に設計されているはずだ。
「良かったわ、とても」
「僕もだよ。何か飲む?」
「水。いや、麦茶の方がいいかな」
僕は台所まで這って行って、冷蔵庫を開ける。冷気が一瞬にして体を包み込む。人工的で不愉快な冷たさだった。霊安室の中に似ているのかもしれない。彼女の話がいよいよ気になるけれど、僕にとってそれは明らかにパンドラの箱だった。付き合っている範囲では彼女が深刻な病を抱えているわけではなさそうだし、何かに追われているとか困っている素振りも見せなかった。これはしかし、僕に対する態度であって、実はとんでもないことを抱えているのかもしれない。いずれにせよ問いただす勇気はなかった。
彼女の実家は北国らしい。しばらく帰っていないとは言っていたが、下宿先のアパートにはよく段ボール箱が届いていたから家族とは良好な関係性なのだろうと推測できた。彼女の生活は死と本質的に程遠く、お金を入れていない双眼鏡のように両者の結びつきを見つけることはできなかった。
父が救急車で運ばれ、そして肝臓に癌が発見されたのはその翌日だった。ステージはかなり進んでいるようで、僕は思いがけない帰省をすることになった。どこかの木陰に隠れていた死が急に現れて僕は思わず立ち止まってしまう。
足元が揺れて、立っていられなくなる。どうしたら良いのかわからなくなる。
僕は北国のどこまでも続く道路で車を飛ばしている。隣には彼女が乗っている。道は何十メートルか先で急に陥没していて、振り向くと隣には誰もいなかった。そういう夢を見た。夏の暑さと相まった不快感で、僕はしばらくの間眠れなくなった。それからわずかひと月で、高度経済成長期を駆け抜けた父はあっけなく死んだ。サラリーマンとして僕を含めた四人の家族を支えてきた男性は陽炎のように家族の前から姿を消したのだ。葬儀で見た遺体は病気などまるで感じさせないくらい整えられていたが、どれだけ見栄えを良くしたところで到底生きているようには見えなかった。もし魂というものがあるとするならば、完全に抜けてしまっていたといえる。人間というよりは人形か、そうでなければ工場で永遠に部品を作り続ける機械に似ていた。
それからしばらくの間、僕はこの話を誰にもしなかった。彼女にも、そして最近別れたというケンジにも。彼女にはやがて話したけれど、ケンジについては最後までその機会が与えられなかった。改めて考えるとケンジのことについて僕はあまりよく知らなかった。同じ中学、高校を出て、やはり同じ大学に入学した。僕の地元からこの大学へ進む人は少なかったから、必然的に僕らは助け合った。仲良くなったのはその頃からで、幼なじみといっても地元にいた時は顔見知り程度の間柄だったのだ。高校時代、さびれた街で時おりデートしている姿を見かけることがあった。もちろん声はかけなかった。
ケンジの彼女は僕らと違う高校を出て、選んだ大学も違ったけれど、大学に入ってから何度か三人で話したことがある。素直でおとなしい女の子という印象を持った。違う意味で人形に似ているなと思った。
彼がどうして破局に至ったのか、理由はまったく定かではない。なぜならその破局を知った時、彼はすでに僕の手の届かないところにいたからだ。ケンジは麻薬をやって捕まった。水が高いところから低いところに向かって流れるようにとても単純な理屈だ。別れてから手を出したのか、手を出したから別れたのか、それとも二人でやっていたのか、本当のところはわからない。知りたいとも思わないし、問い詰めるつもりもなかった。軽蔑するわけではないが、こちらから関与するべき理由も見当たらない。風の噂によるとケンジは初犯ということだったから、起訴はされないかもしれない。ケンジとは梅雨の終わりから会っていなかった。今から考えればそれが予兆だったのだろう。ここにきて突然、僕の平穏だった日常が変わっていく。電源の入った機械のように歯車が動き出す。父親の死とケンジの事件は僕の人生にとってどのような意味を持っているのだろう。
僕はいったい、どこへ行くのか。
「ミチル君ってさ、時々怖い顔をするよね」
彼女が言った。夏の終わりだった。今年最後の蝉が鳴いている。その日も恋人としてのある種のイニシエーションを済ました後で、二人とも気だるく布団に寝転がっていた。そうこうしているうちに太陽は傾いて、昼間に比べれば暑さもいくらか和らいでいる。焼け焦げたアスファルトの匂いがした。
大学が夏休みの間、僕らは帰省しなかった。二人の間にこれといった相談があったわけではない。僕について言えば、最近は父のことで頻繁に帰省していたし、決して安くはない交通費のことも考えるとわざわざ夏休みにまで帰省する必要性は感じられなかった。大学生にもなって蜜蜂のように巣に戻る必要はないだろう。
彼女の方はというと、なんとなく、ここにいたいということだった。彼女が両親と不仲ではないということは、やはりいくつかの証拠品、例えば母親からの絵葉書、祖父母からの贈り物でわかっていたから、家族関係について心配をしているわけではない。彼女の実家には二つ下の妹と三つ下の弟がいて、妹の方は今年が受験の年らしい。もしかすると何らかの配慮があるのかもしれない。下に兄弟がいない僕にはわからないことだ。改めて考えてみれば、元より僕と彼女の家族には何の関係もなく、帰省するかしないかについて議論をする義理もない。
一九九九年というのはミレニアムを来年に控えてどこか社会全体がそわそわとしている年だった。突然慌ただしくなった僕の生活もようやく少しばかりの落ち着きを取り戻しつつあった。世間の方にもことさら大きな事件は起きていない。いったん氷山のように現れた死の影は夏の終わりと共にどこかへと消えたようとしている。
そう思っていた。振り返ってみれば油断していたとも評価できる。
「聞いてる?」と彼女は僕の顔を覗き込んだ。
「ごめん、考え事してた」
「ケンジ君のこと? それともお父さんの?」
「うん、どっちも。いや、どっちでもないのかも。ごめん」
ふうん、と彼女は言った。
「それで、何の話だっけ?」
「インターネットって知ってる? うちの先生が言うにはさ、これからの十何年かで人々が常にインターネットでつながるようになるらしいんだって」
急に飛び出した具体的な話によって漂うような思考から引き離される。もちろんインターネットという言葉について知らないわけではないし、何年か前の大きな地震の時にはずいぶん話題になっていた。人々がつながるということに関しては実際に街中で携帯電話のセールスをよく目にしたし、使っている知人もいる。ただ、世界中の人々が手にするようになるとは思えなかった。今のところその必要性は感じられない。
「常につながる、って?」
「言葉通りの意味。朝から晩まで。もしかしらた寝てる時も」
「何の意味があるの、それ?」
「知らないわ。だってその頃、私はいないんだもの。私とは関係のない話」
生暖かい、不吉な風が吹いた。寒気。開けてはならない扉に手をかけてしまったかのような恐怖感。先ほどまでの快楽、そして安寧はどこかへ飛び去って、僕は否応なく彼女との対話に入らざるを得なかった。
恐る恐る、僕は尋ねる。言葉は泥水のようにゆっくりとしていただろう。届いたことが奇跡だった。
「…………どういう意味?」
「だから言葉通りの意味だって。最初に言わなかったっけ。私の話」
「その……今年の年末に死ぬって話?」
「そう。冗談だと思った?」
「だって、死ぬって言ったって……今の君にどこか悪いところがあるとは思えないしーー」
彼女は僕の肩に手を絡ませて言葉を遮った。鼓動がはっきりと聞こえる。肌の温もりが伝わる。晩夏の夕暮れに、どうして僕らは死について話し合っているのだろう。この部屋だけが世界から切り取られて、どこか別の次元に吹き飛ばされたかのような気分になる。日が落ちてなお、蝉の声が聞こえる。蝉は僕らとは違う時間を生きているから近いうちに死ぬだろう。なのに彼女はまるで蝉のように、命のスケールについて語っている。
「例えば、貴方が金貸しからお金を借りる。やがて期日が来る。どうする?」
突然のたとえ話に僕は戸惑った。どうにか共通点を見出そうと頭を必死に回転させる。すでに先ほどの穏やかな時間とは大きく隔たってしまった。同時にもう二度と戻ることはできないと僕の一部は気付いていた。ケンジや父親のことと同じで、時間は可逆ではない。僕は気づかぬ間に何か大きなものを失ってしまったのだと気付いた。そして今この瞬間にも失い続けている。どうしようもないことだった。言葉を探すけれど、濃い霧に阻まれてしまう。
「その期日が今年の終わり。だから返さなくてはならないでしょう?」
「確かに君の言うことは正しい。でもそれはお金の話で、命とは別だろう?」
「いいえ、同じこと。全ては、」大きな流れの中、と彼女は言った。僕を拘束していた腕は逆に大きく開かれている。艶やかな髪の毛の先から胸元に落ちていく汗が目に留まった。
「貴方を悲しませてしまうことは本当に申し訳ないのだけど、これは避けられない流れなの。ごめんね」
僕は何も言えなくなった。付き合い始めてから今この瞬間まで、僕は間違いなく彼女のことが好きだったが、急に自信が持てなくなった。目の前にいる女性は誰なのだろう。ほんの少し前まで激しく髪を振り乱していた人物とは別人だとしか思えなかった。
「君は……誰?」
「私はツグミ。あなたの彼女で、今年の終わりに死ぬツグミ。じゃ、また会いましょ」
それだけ言うと彼女はハンドバックを持って出て行った。鈍い音をたててアパートの扉が閉まる。部屋の中に訪れた不気味な静寂に耐え切れず、僕は流行りのカセットテープをかける。バラード調のリズムがどこか虚しく響いた。急に現実が信じられなくなる。僕はどこにいて、何をしているのか。汗で湿気った布団の上に寝転がっている僕は何者なのか。ツグミは、実在しているのだろか。
僕は、長い夢を見ているのか。
秋、流れゆく秋。
大学は後期へと推移し、キャンパスを歩く人々にも長袖が多くなった。今は秋の入り口で、街全体にどこか物悲しい風が吹いている。銀杏がわずかに色を変え始めていた。夏の終わりに致命的な別れ方をしてからしばらく、ツグミから連絡は来なかった。だからといって僕の方からしきりに誘うということもしない。
昔からあまり執着しない性格だった。恋人同士にだってプライベートは当然存在するし、束縛しあうような関係はいずれ破綻するだろう。けれど彼女に言わせればそういう状況もあと数ヶ月で終わってしまう。僕だって、大きな流れという得体のしれないやつが恋敵になるなんて思っていない。
あの夏の終わりを最後にもう会うことはないのかもしれないという恐れが自分のどこにもなかったかというと嘘になる。心のどこかでは、もう振られたのだと思っていた。つまり彼女は死ぬわけでもなんでもなくて、今年の終わりまでが恋人としての試用期間だったというわけだ。その頃の僕は十分に破局を覚悟していたし、だからといって誰か別の相手を探すことも億劫だったから、他の誰とも関係を持っていない。寂しいということはなかった。人生という視点に立てばツグミのいない生活を送ってきた時間の方がはるかに長い。元の自分に戻るだけだ。
そんな折、僕とツグミはいつもの喫茶店で会うことになった。彼女の誘いはいつも唐突で、ある日ポストに彼女からの手紙が入っていたのだ。客観的にみればあまりにも自分勝手な誘い方だったが、同時に嬉しく感じてしまう自分がいた。馬鹿げているなと思う。けれど、仕方ないのだとも。大人になるとは、何かを許容できるようになるということだろう。大人になりたいと願ったことはないのだけれど。
「来てくれないかと思った。あれで終わりかなって」
ツグミの髪は少し伸び、やはり秋の装いをしていた。耳元にはかつて僕が勧めた方のピアスをしている。いつか見た燃え盛る城塞の業火が目の前に浮かぶ。
実際にはミルクティから湯気が立ち昇っていた。ツグミと出会った今年の春は遥か彼方に過ぎ去っている。
「納得したわけじゃないし、君の言っていることはよくわからない。けれど僕らが別れる理由にはならないと思うんだ」
「昔付き合っていた男とはそれで別れたんだけどなぁ」
詳しく話を聞くと、合コンに誘われたのは彼氏と別れてしばらく経った頃だということらしい。彼女はやはりあと一年で死ぬと伝え、相手は当然ながらツグミの言い分を理解できなかった。僕だって理解できているわけではない。これは受け入れるか、受け入れないかの問題ではないと思うのだ。ある意味では彼女が以前付き合っていた男性の方が常識的だといえるだろう。人間には警戒心があったからこれほどまでに繁栄することができたのだと人類学の教授が言っていた。つまり、腐った食物を避け、危険な動物から身を隠す。いずれも警戒心がなければできないことだ。彼女に関して言えば、普通ではないし、どちらかというと随分おかしなことを一貫して言っている。怪しげな宗教という線は消えていた。下宿先にもその手のものは一切なかったし、周囲に関係性をほのめかす人物もいなかった。もちろん、僕はツグミのすべてを知っているわけではない。唯一知っているのは、僕の彼女としての側面だけだ。例えば家族の前ではまったく異なった一面を見せているのかもしれないけれど、やはりそれは僕となんの関係もないことだった。人間は常に同一な存在でなく、状況に応じて自己を使い分けるのだと、教授は後の講義で言っていた。
「お願いがあるの。聞いてくれる?」
僕は頷いた。それ以外の選択肢は与えられていないようだ。また自分が操り人形になったかのような錯覚。いや、錯覚ではないかもしれない。見上げれば透明な糸と、それを操る手が見えるかもしれない。
「見守っていてほしいの。最後まで、私がいなくなるその時まで。すごく、自分勝手だと思うけれど、ミチルにしか頼めないことなの。お願い」
いつになく彼女の表情には憂いが見受けられた。夏の終わり、マンションの扉を閉めた時の強さはどこへ行ってしまったのだろうか。
彼女はいったい何人存在しているのか。
目の前にいるツグミは何号機だろうか。
そんなことを考えてしまう。僕は、今すぐに決断しなければならない。つまり、彼女にどこまでついていくのかということについて。常識的に考えれば、得体の知れない相手とは別れるべきだろう。けれど、その選択はできないようになっていた。
世の中にはどうしても押せないボタンが存在する。
冬、再生の冬。
一九九九年は前年に引き続いて暖冬で、今は十二月の終わりだった。世間は来るべきクリスマスに向けて装いを派手にしつつある。馬鹿げたことだ。どうせ、終わってしまえばすぐにお正月だなんて言い出すのに。
学校行事のためにキャンセルされがちだった家庭教師にも賑わいが戻ってきていたが、僕はまったく、それどころではなかった。ツグミが宣言した期限は着実に迫っている。だからといって僕にできることは何もない。彼女とは秋の終わりに会ったのが最後だった。
それ以来、手紙を何度か送りあった。過去の実績から考えればなかなかの頻度だと評価できる。手紙の内容はどれも穏やかで、日々の出来事や綺麗だと思ったもの、講義の感想などが書かれている。丁寧な筆致には嵐の前の静けさすらも見受けられなかった。時には写真が同封されていることもあった。紅葉、キャンパス内の古びた石碑、どこかの鳥居、ほんとうにとりとめのないものだ。そこに死の影はまるでなく、もっとも大きな流れに還るということが本当に死なのかすら、いまだに判断できていない。
僕はといえば部屋の寒さから逃れるように布団に潜り込んで本を読んでいる。
でも本当はツグミから逃れたいのかもしれない。
仏陀の言葉が手元で踊る。彼は言う。林の中の象のように孤独であれ、鍛冶工が銀の汚れを除くように清貧であれ、そうすれば生死の彼岸に至るだろうと。
生死の彼岸。そこまで彼女を追いかけていくことはできるだろうか。
僕は茫洋とした海の上を一隻の小舟で漂っている気分になる。
周囲に島はなく、船には僕のほかに誰もいない。
幸い食料は多く残っているけれど、船には目的地がまるでなかった。
ただ、流されている。人生だって同じようなものかもしれない。
彼女を含めればたった一年間で三人が僕の前を通り過ぎていった。これからの人生ではいったい何人が僕の元を去るだろうか。
呼び鈴が鳴る。セールスかNHKの集金だろうと思ってドアを開けると、ツグミが立っていた。手にはいつものハンドバッグを持っていない。分厚いコートを着ていたが、その手は冷たかった。室内に招き入れ、慌ててお茶を入れる。僕らは低いテーブルを挟んで向かい合った。部屋の中は相変わらず寒く、日が落ちればもっとひどくなるだろう。
久しぶりね、と彼女はいつもの調子で言った。
両耳には僕がいつか勧めた方のピアスをしている。ツグミはおもむろにそれを外して床に置いた。
彼女は何も言わない。
僕も黙っている。
それが合図ということなのだろう。つまり、彼女はもうすぐ大きな流れの中に還っていくのだ。目を背けてきた時が唐突に訪れる。いや、きっとそう感じているのは僕だけだ。彼女はずっと前から警告していたし、覚悟も決まっていたに違いない。秋口に見せた憂いは消え去っていた。
「また会えるだろうか?」
「もちろん」
そう、彼女は言い切った。死ということに対する怯えは一切伺えない。お茶を一口含んで、白い息を念入りに吐き出す。魂が抜け出たかのように思えた。それならば、すぐにかき集めなければならない。人はどこに宿るのか。この身体か、それともどこか別の場所か。
「大いなる流れの中に還るということは、存在が消えるということではないの。私はいつまでもミチルの彼女だし、いえ、だからと言ってミチルが私のことをいつまでも彼女だと思う必要はないのだけれど、会おうと思えばきっと会えるわ。どこかの路地裏で、遠くの駅で、南十字星の丘で、銀河の彼方で」
この運命は、僕がピアスの選択を行った時から決まっていたのだと、今この瞬間に理解した。それはまったくの天啓だった。
ピアスは冷え切った床の上で真っ赤に燃えている。
魂の発露。
命の輝き。
「もう、行っちゃうんだね。どう……言えばいいんだろう。ごめん、なにも、」
「ううん。さようなら、ありがとう」
僕は、それ以上何も言えなかった。彼女につられて僕も立ち上がる。僕らはアパートの玄関口まで手をつないで歩いた。冷たい手だ。二人の温度はそうやって平衡する。
ここでいいわ、と彼女は言った。それは丁寧な拒絶で、僕には従う以外の選択肢が与えられていない。思い返せばいつだってそうだった。
彼女は振り返らず去っていく。
大きな流れに還っていく。
姿が見えなくなるまで、いや見えなくなっても、ただその場に立ち尽くしていた。やるべきことは見当たらないし、自分に何かができるとも思えなかった。追いかけることはできただろう。けれどその行為がまったくもって無駄なことだと知っていた。彼女の腕をつかんだって同じことだ。多分、翌日には跡形もなく消えている。
大きな流れというものが何を意味するのか最後までわからなかったけれど、わからないからこそ大きな流れなのだと理解できた。
それは、一切の光を反射しない流れだ。
夜の川のように、深さも、濃さもわからないけれど、確実に実在している。
彼女はその流れのなかに還っていった。
ふと、涙がこぼれる。
悲しいとか悔しいとか無力だという感情ではなかった。
彼女が還っていくことは自然の摂理だと思えたし、それに対して何か意見をするということもない。けれど涙はいつまでも止まらなかった。
僕は確かにただその瞬間、その空間、その時間に存在していた。
何者でもなく、ただミチルとして。
ツグミの彼女として。
その冬はじめての雪が降った。
街が白む。




