第四十一夜|曽我仇討
author:権兵衛
兄者の曰く、昼に訪うたときに大に軋んだという鴬張りの床。
ままよ、鳴らば鳴れと瞑しつつ御旅館の階梯に足を掛けるが先か、背後から――否、先刻まで月すら見えた夜空からは、卒然として降り出した沛雨が耳を轟かした。
「これは好い、箱根権現の加護と見ゆる」先を行く兄者は怖じず余に笑いかける。それで初めて余はこの雨音の我々に利するに気がついた。耳を聾する驟雨は、踏み鳴らす鴬張りの床音をも掻き消す催いである。足早に、併し確実に目指す臥所に向かって歩を進める。先程まで皓々たる月明りに照らされた宿所の間取りは、すっかり頭に這入っていた。
「では参る」
言う兄者の手が明障子に掛かる、それを見た余は空催いとは裏腹、永年心の裡に幾重にも立ち罩めたる黒雲の、忽ちにして霧消するのを感じていた。
明障子の音が鳴る気遣いもなし、素早く開けたその隙間から、僅かながらも戸外の明りが暗闇を照らす。その中に夜具と思しき盛り上がりが二、三。その何れが獲物かは判らぬ、斯くなる上は運否天賦の覚悟もて、人と見れば叩き斬るのみ。
兄者が先か、或いは余か。褥を剥ぐ手ももどかしく我々は佩ける刀を鞘から抜く。大柄の人影の、中に伏せると覚えた束の間、それは素早く動いて余の足元に置ける長物に縋りついた。
この背格好、身の熟し、到底も目当ての敵とは思われぬ。
そう覚えつつも迷いはなかった。人影が鞘に伸ばす手に、真っ向太刀を降り下ろす。
「あ――」
声にもならぬ声が臥所に響く。兄者のもとでも同様、男が斬られ苦悶する様子。而もそれは男の、聞き覚えのある声音であった。
「左衛門尉」
余は積年の仇敵の名を思い浮かべた。併し勝鬨を上げるには尚早い、今の吾が獲物に向かって二太刀目を浴びせんとて振り被る。
大柄の男は手練れと覚えた。何しろ弓手を肘から落とされつつも、なお馬手にて刀を構え、すでに薄暗い臥所の中央に立ち上がりつつあった。
──間に合わぬ。
一歩引き、正眼からもう一太刀浴びせば仕留められた。併し、相手も既に抜き身である。手負いとは言えこの身丈、そのまま闇を薙がれれば、必ず余の首を掻き斬る間合いと読めた。須臾の間である。踏み込んだまま八相に構え、袈裟を斬る。
「ぐ」
たしかに手応えはある。併し望んだものではない。手負いの弓手にさらに浅傷を負わせたのみ。
──明らかに悪手。
余は歯噛みした。熊に準えるまでもなく、二太刀目でなお深傷を与えず、徒らに相手を猛らせるのみ。余は一歩退いた。
覚醒した脳髄には、一丈先の兄者の太刀筋すら良く見えた。此方が大男に幾手か与えるうち、仇敵たる左衛門尉も兄者によって肩口を深く斬られた様子。最早彼奴も刀が上がらぬ為体、それに安堵したか兄者は此方にちらと目を呉れた。
「兄者、止めを」
余は咄嗟に喚いた。
何れ仇討ちの後は自尽せざるべからざる身、兄弟を庇って不意の返り討ちに遭うては、正に後生の一大事であった。狙うは仇敵、左衛門尉の首級のみ。
余は引きざま、逆袈裟を斬った。吾が黒鞘巻は今度こそ、狙った馬手に食い込んだ。
「──っ」
声にもならぬ大男の声。身をかがめ、ただ喘ぐに見えた、次ぎの刹那、余は出し抜け、後ろ様に倒れていた。血糊に脚を取られ僅かによろけた隙を突いたのは、他ならぬ大男である。
──一度ならで、二度までも。
余は大いにこの手練れの相手に恐怖した。諸手は既に地に墜ち、使い物にならぬ。ならば残るは徒手柔らのみ。そう覚悟を決めたか、もはや捨て身を擲って力任せに組伏せる。
馬手はまだ使い物になると見える。あろうことか大男、血塗れの手を伸ばし、組打ちの傍らに転がった吾が黒鞘巻をぐいと掴んだ。
「ぐぁ──」
大男が事切れたのは、それと同時であった。見上げれば相手の面貌には飛び出るほど見開かれたのみ炯々と輝き、やがてそれも徐々に光を失った。
「十郎」
大男の肩越しに兄者が余の名を呼ぶ。同時に懐にひやりと触れるは、大男を刺し貫いた兵庫鎖の切っ先である。
安堵の息をつく束の間、余は伏処に立つ兄者の異変に気づいた。否、兄者の手負いを知るのは、暫く後のことである。兄者の左手半丈、すぐ傍らには白拍子が、震える諸手には刀を捧げ持ち、今しも二太刀目を浴びせんと逆手に持ち直す最中であった。
「兄者」
大男の骸から起き出した余は取り落とした黒鞘巻を広い上げる暇もあらば、立ち上がりざまに繰り出す上手の蹴りで、捧げる手刀を打ち落とした。
「兄者」
駆け寄り、兄者が肩に負うた刀傷を検する闇の中。此方の一撃に気勢を殺がれたか、彼の白拍子は一歩、二歩と後退っては、報せに走る隙を伺う様子である。
「よい。それより」
荒い息の下で、兄者はなお足下に踞る左衛門尉の僅かな息を気にしていた。
「──う」
微かな声とともに仇敵の命が果てた感触を、余は引き抜いた黒鞘巻を通じて確かに感じた。
「父の、兄の敵。左衛門尉工藤祐経の首級」
疲労の果て、兄者が絞り出す如き声音で鬨を上げる。その時。
「おのれ。畏れ多くも、鎌倉殿の御宿所を侵すのみならで……」
馳せ参じた宿伺の輩は十人ばかり。酸鼻を極める伏処の有様を目の当たりにするや、言葉を失い立ち尽くした。
「十郎よ」振り向かいでも、兄者が肩を抑えうっそりと立ち上がるのが判る。「冥途の手土産じゃ。祐経めの郎党なればその首級、父上兄上もさぞや喜ばれよう」
言うが早いか、兄者は宿伺の者どもに向かって躍りかかる。まだ目も慣れぬ漆黒の寝屋の中から躍り出た兵庫鎖の一閃によって、最前線に立つ御家人が卒として血飛沫を上げ、どうと斃れた。色めき立った宿伺の輩、ざっと後方に飛び退きざま、抜き身となった。
「兄者」
手負いの兄を矢面に立たせ、無傷のままでは立つ瀬もない。余はそっと兄者の身頃に手を添えずいと進み出、敵方十名──否、残る九名の向こうを張った。
正眼に構える間合いもあらばこそ、雪崩を打って躍りかかる大段平を、箱根権現の別当より授かった黒鞘巻は目もあやな太刀筋で受け流す。勢い余った郎党が背中を見せるを好機と黒鞘巻、恰も余を差し置いて自らの意思もて敵を討つがごとく、袈裟に、返す刀で逆袈裟に、立ちどころに二名の郎党を斬り捨てた。
「十郎」
余を呼ぶ声に改めて面を上げれば、兄者の前に新たな獲物が二人、三人と折り重なる。それを合図に余と兄は背中を合わせ、互いの死角を相補って防御の構えをとった。
「えゝ――ッ」
奇声を上げて挑み来る真っ向唐竹を、水平に保った黒鞘巻は僅かに身を欠きつつも見事に防ぎきる。返す刀に余はその間合いに踏み込み、飛び上がっての渾身一蹴、相手の顔面へ呉れてやった。振り返らでも兄者の方は、郎党の振り上げた刀筋の下、がら空きとなった胴に兵庫鎖の見事な薙ぎ斬り、返す刀にてさらに一名の袈裟を徒上げ、今一度、真っ向正面から渠の脳天を打ち割った。
「それまで」
耳を聾して降りつのっていた雨も已み、気づけば庭先を、倒れ伏した祐経が郎党どもを月明りが仄暗く照らし始める。聞こえた声は鎌倉殿の宿所の方より、それに耳を欹てる兄者には覚えがある素振りである。
「あれなるは、鎌倉殿が寵臣、新田四郎忠常」荒い息の下、畏敬を込めて誦するように、兄者がその名を呼んだ。
「十郎」兄者は微笑を浮かべ言を継いだ。
「此度の巻狩りにおいては、忠常様は正面から、猪に組みかかり仕留めたという。手負いの身で片時、生き永らえるよりは、一層かの手にかかって身罷ろう」
兄者はそう言いざま、兵庫鎖を八相に構え、忠常目掛けて一散に駆け出した。
「兄者」
余は轍を踏むことが憚られた。否、兄者と倶に果てん希いを押し殺し、辛うじて余はそこへ踏みとどまった。
いざ、鎌倉殿の面前にて、此度の仇討の顛末を委細漏らさず申し開かん。
鞘当ての音を遠くに聞きつつ、余は己の使命を一層深く、肝に銘じた。
終




