第三十九夜|帰郷
author:権兵衛
「粽は作ってくれるんだろう?」
電話の向こうで母は言った。
ファ・エンは大きく息を吸い、もう一度言った。
「うん、22日には戻るから。祭司、俺ができるから」
「――何だって?――く聞こ――いよ」
「とりあえず、もう切るから。母さんも、それまで元気で」
ファ・エンはそれだけ言うと電話を切った。20分くらい話したろうか。いつもよりは聞き取れたが、それでも「年末に帰郷する」くらいの用件しか伝えることができなかった。ノートに兵籍番号と終了時間を記入し通信室を出ると、彼は大きくため息をついた。
「どうだい。相変わらずか」
扉の外で順番待ちをしていたチー・クラーが笑う。
「まあ、いい方さ」
ファ・エンは返した。
この返答にはふたつ意味があった。ひとつめ。灶神の恩恵か、ふだんの電話にしてみれば家族の声もよく聞こえた。通信が中断し、架け直したのも5回だけだ。ふたつめ。チー・クラーは、たぶん今日も電話がつながらない。チー・クラーによると「故郷で鈴声は鳴っているらしいのだが、受話器を取ると地獄の窯が開いて、そこから火焔が噴き出てくる」ファ・エンは過去に何回か受話器に耳を当てたことがあるが、亡者の呻き声さえ聞こえなかったものの、故郷の肉親の声からは凡そ遠い、不気味な嵐のような音が延々と響いているだけだった。彼に比べれば、まだいい方だ。
酒保に寄って歯ブラシとは歯磨き粉を買う。
帳場に商品を差し出すと、店員のタム・ガープが雑誌から顔を挙げた。
「――あれ、帰るのかい」
「帰るよ。先週言ったろ」軍票を同郷の友人に渡しながらファ・エンは笑った。
「最近、200人くらいとこんな会話してるからさ。誰が帰るやらわかりゃしない」
営内で使う歯ブラシは、故郷で使いたくない。そう思うのはファ・エンだけではないようだった。帰郷を控えた兵士は、誰しも少ない手持ちを出し同じようなものを買い求めた。
「いつ」タム・ガープは釣りの軍票と、控えを差し出す。
「今週末だ。もう休暇も取った」
「そりゃ、おめでとう。先生にも、よろしく伝えてくれよ」
さすがに、このやりとりが200人の中へ埋没することはなかろう。ファ・エンは見知らぬ200人に多少の優越感を感じながら、善良なタム・ガープに向かって笑顔を見せた。
帰郷前の休暇は、いつでも心躍る愉しいものだ。平時に比べ門限も遅い。許可さえ出せば外泊だってできる。余程好き者ならば、今晩からでも街に繰り出すのだろう。幸いファ・エンはそちらの向きとは縁が浅く、軍医から皮肉を込めた訓戒を頂くようなこともなかった。否、これからないとも限らないが、そもそもそんな手合いは数多の働き口の中で、進んで陸軍などは選ぶまい。
ファ・エンの愉しさの最大の理由は、エング・ロー軍曹の受け持つ訓練を回避できたことだった。彼の訓練はさまざまだったが、最後は必ず革のベルトか銃床で殴られた。彼と仲の良い兵卒は少しは手心を加えられているようだったが、そもそも軍曹と仲良くなるなどということ自体、ファ・エンには悪夢のように思われた。
***
兵舎に戻ると、チー・クラーが寝床の上に横たわっていた。
恐らく、結果は聴くまでもないだろう。ファ・エンは慰め半分に異郷の同期に声をかけた。
「今日も、電話代が浮いたな」
「もう、家族の声も忘れちまったね」
チー・クラーの声は至って安穏としていた。
年末、帰るんだろう?ファ・エンは尋ねようとして、やめた。答えが否だった時の感情を用意していなかったから。
「廓でも行くか?」
しまった。言ってからファ・エンはそう思った。俺は何を言っているんだ?
主計の窓口に外泊願いを出す。
願書に荒々しい署名が施されたものが立ちどころに戻って来て、ファ・エンはそれを受け取った。休暇でないチー・クラーの願書が受理されるまでの片時、二人は主計の建物脇にある植え込みの傍らに座り込んだ。
「年末は、帰るのやめた」チー・クラーはぼそりと言った。
「そうか」ファ・エンは、予想より自然な相槌を打てたことに、内心喜んだ。
「……くそっ」チー・クラーは悪態をついた。
ファ・エンは些か対応に困ったが、チー・クラーの望む廓を選んでやるに如くはないと判断して、黙っていた。
「お前に愚痴るつもりは、ないんだけど」
しばらくして、チー・クラーはぽつぽつ話し始めた。
「どうせ帰っても、金の話ばっかりだし」
「兄上だっけか」ファ・エンは助け舟を出す。
「ああ」それに乗っかって、チー・クラーは言葉を継ぐ。「そいつを筆頭に、うちはバカばっかりだ」
それで、全部廓に使っちまおうってんだな?ファ・エンは頭に浮かんだ皮肉を、今回も思い浮かべるにとどめておいた。
***
この日、珍しくチー・クラーは置屋の店先で芸妓と長話をした。
普段なら瞬く間に自分のための芸妓を見立て、早々に奥の間に消える彼も、今日だけはどうしたことか、他愛のない四方山話から聞くに堪えない猥談まで、延々と芸妓相手に談笑を続けた。
元々それほど遊ぶ気のないファ・エンとしては、佳い気晴らしの時間であった。とはいえ、普段のチー・クラーとは余りにもかけ離れた行動に、些か不安も感じていた。この男、何か思うところでもあるのではないだろうか?
小用に立ったチー・クラーのあとを追いかけ、便所の扉の前でファ・エンは同期の背中に声をかけた。
「チー・クラー」
「ん?」
「お前、今日は買わないのかい」
「……どうするかな」
やはり、普段とは様子が違う。連れ立って繰り出すことは少ないにしても、チー・クラーと趣味を同じくする連中の話を聞く限り、今日の彼の行動はやはり不自然だ。
「いつもは見立てもそこそこに、すぐお二階だろうに」
「ん、まあな」
まんざらでもない表情である。ファ・エンはなんとなく肩透かしを食らった気になった。
「ま、どっちでもいいけどな。せいぜい、楽しもうぜ」
先に戻ったファ・エンに芸妓が尋ねる。
「何さ、厠に立ったと思ったら」
「俺はヤボ用さ。ちょっと連れが心配でね」
「そうよね、いつもは旦さん、すぐに奥へ行くのにね」
「やっぱり何か、あるのかな」
「さっきお話して、どうだったのさ」
「話しただけじゃ、何もなしさ」
「なら尚のこと。こっちは郭のことしか皆目──」
言われた途端、ファ・エンはその答えに思い至った。
「……あ、はっは」
「何さ、出し抜けに」
「いや、わかったよ。大方な」
「へえ、一体何」
「それはお前。言うも野暮ってやつさ」
使い慣れない色町言葉で、ファ・エンははぐらかした。
――チー・クラーには、いま金がない。金がないから、羽振りも悪い。
単純すぎると逆に見えなくなるものだと、ファ・エンは改めて実感した。そしてそれは芸妓に話すには、あまりにも不体裁なお噺だった。
「意地の悪い」
薄々、筋が読めたのだろう。勘の良い芸妓は、あくまでも社交的に嘆いてみせた。
果たして得意客であるチー・クラーは、かの勘の良い芸妓氏の計らいで幾許かの指値を提示されると、早速好みの芸妓を見立ててそそくさと奥の間へと引っ込んでいった。
「とんだ徒労だよ、バカバカしい」
店先に残されたファ・エンは座敷の上に脚を投げ出し、悪態をついた。
笑いながら、戻ってきた芸妓がファ・エンの傍らに腰を下ろす。
「よかったじゃないか、大事なくて」
「それもそうだ、けど」
おそらく縁起物のたぐいだろう、店先の欄間に何やら毳々しい飾りのついた竹細工が幾本か差し込まれているのを、ファ・エンはぼんやり見上げていた。
「にしても、好きな郭にも来られないほど、あいつ」
「おや。とんだ世話焼きだね」
柔らかではあるが、手痛い一言だった。ファ・エンは思わず起き上がって、居住まいを正した。
「なんだい、かしこまって」
「いや、大したもんだ。姐さん、只者じゃないね」
芸妓は大いに笑ったが、事実ファ・エンとしては故郷を出てこのかた最も身に染みた小言であった。
芸妓に背中を押され、その日ファ・エンは同期が降りて来ぬうちから帰営することにした。
──お連れにはよしなに、云っておくからさ。
その一言が決め手となった。ファ・エンは店を出ながら、必ずまた来ようと考えた。
当然、艶ごとが目的ではない。かの芸妓氏を名指しで談笑するまでだ。それでも世故に疎い彼にとっては、それは浮世の見聞を拡げるための重要な一歩であるかもしれなかった。
***
ラク・ア伍長と鉢合わせしたのは、その直後であった。
僅かではあるが、ファ・エンらのいた処よりは気品の感ぜられる佇まいの、隣接する郭。そこから言い逃れしようのない間合いで、伍長は出てきたのであった。
「あ、伍長」
「うわっ」
営内では比較的鷹揚な身ごなしのはずの伍長が、気の毒なほど取り乱している。
「ご、伍長もお休みで?」
あまりに慌てている先方の様子に、逆に不安になったファ・エンは自分から声をかけることにした。
「……」
返事がない。どうやら、あまり露見したくなかったらしい。
──それならば、どうしてこんなに人通りのある時分を選んで、よりによって正面玄関から出てくるんです。
半ば呆れたファ・エンは、その言葉を大きな溜め息に変えて吐き出した。
「その」
ゆっくりと歩き始めた伍長が、あからさまに言い訳めいた口調で切り出した。
そのゆったりした足取りが、不気味なくらい色街とは似つかわしくない。
「先に、だな。とある将校について、来たものでな」
頼むから、連れ立って歩いてくれるな。言外にそんな気迫を強く感じたファ・エンは、詮方無しに伍長の二、三歩あとをそぞろについて歩いた。
「将校殿や下士官殿は職掌上、茶屋にも来ましょうよ。殊更隠し立てすることでは」
「む、そうだな」
完全に墓穴を掘った伍長が次なる言い訳を考えるまでの間、縦列小隊は暫く無言のまま進んだ。
「あの、伍長」
「は、はい!」
なぜか伍長は敬語だった。
ファ・エンは軍袴のポケットに手を突っ込んで、太腿をきつく捻りながら、上申した。
「あの、自分。急用を思い出しました。こちらで失礼いたします」
「お、おう。気をつけて帰れよ」
足早にその場を離れたファ・エンは、裏路地の板塀に手をつき、嘔吐するような姿勢で大笑した。
***
土産は不要、と言われつつも、それ自体が社交辞令であることをファ・エンは知っていた。
帰郷の前日、京師で買い求めた物品は、そこそこの大きさの背嚢の大部分を占めていた。ために懐具合は寂しかったが、帰郷にあたり準備万端といった心持ちである。
今となっては、永年縁のなかった粽の手配だけが気がかりであった。同郷の者が幾許か営内には居るものの、氏族ごとにその調理法は大きく異なり、こればかりは帰郷してから改めて肉親を頼るほかなさそうだった。
「見送りに来る、ほどのことか?」
思い出せる限りの材料、そして手順をノートにまとめていたファ・エンは顔を挙げ、プラットフォームに立つチー・クラーに目を向けた。
年始になれば、すぐにまた訓練の日々の繰り返しだ。なんの名残惜しいことがあるだろうか。
「それが、それだけのことはあるんだよ」
その割には、なかなか口を割ろうとしない。おおかた、金にまつわる相談事だろう。それを発車間際に言い、言質にとるつもりと思われた。
「お前な、そういう駆け引きみたいなことは……」
同期を詰ろうと息を継いだとき、窓外の見送りがもう一人増えた。
「……伍長」
招かれざる客。これ以上この形容が相応しい人物がいるだろうか。思いつめた表情からして、彼の用件はおおよそ見当がついた。
平生から必要以上に厳格な伍長を、チー・クラーは大いに苦手としていたっけ。ファ・エンはそんなことを思い出していた。
チー・クラーは愕然とした様子で伍長を凝視し、じりじりと後ずさりを始める。
それを目で追う。ふと視線の先に、見知った顔が入り込んだ。
「タム・ガープ?」
ファ・エンの口から、自然に同胞の名が漏れる。軍属としての立場を考え、声をかけあぐねたのだろう。チー・クラーが身を引かなければ絶対に気づくことはなかったであろう、とんでもない遠い位置に彼は佇んでいた。ファ・エンはあくまでも内心でチー・クラーに感謝した。
タム・ガープは、手元に見覚えのある書類を持っていた。
過日、俺が故郷の思い人のために大いに下心を込めてタム・ガープに渡していた職業斡旋依頼。不況であえぐ京師に、幾分の好条件で働き口を見つけるには、陸軍酒保は知る人ぞ知る搦手であった。
それを、彼奴が持っている、ということは。
「おい、こっち来てくれ!」
上官殿の対面もあればこそ、否、そもそも直属でもないラク・ア氏に義理立てする謂れに於いてをや。ファ・エンは身を乗り出して同胞を呼びつけた。
驚いたのは、誰あろうチー・クラーである。直属でないにせよ、いやしくも厳格で鳴らしたラク・ア伍長殿に、あろうことかこの言い様。
勢い込んでファ・エンを諭そうにも、あまりに距離を空けすぎた。その隙に声を潜めて伍長は言う。
「いや、構わん。あの晩のことなのだが、よもや誰にも」
最も御身分の高い向きにして、この野暮用。ファ・エンは誇張なしに意識を失いかけた。
「いいです。誰にも言ってません。言いません。忘れてください」
「しかし、何か書付けがないことには」
「黙らっしゃい。自分は」大きく息を吸い込んで、ファ・エンは続けた。「おおおい、タム・ガープ。お前のそれ、よこせ!!」
異状を察知したタム・ガープ、もとよりそこから動こうともしない。
「おおい、チー・クラー!」ファ・エンは両者の途半ばに立ちすくむ同期の盟友に狙いを移す。「あのボンクラの書類、持って来い!!」
のちにチー・クラーの語るところによると、彼はファ・エンが完全に錯乱したと思っていた。何か特別に進行の早い、新種の脳梅のようなものに侵されて。
汽笛が鳴り、厳かに気筒が車輪を押し進める、重苦しい音が聞こえる。
「ば……馬鹿野郎っ」
灶神祭?知ったことか。粽なんか、一族郎党、誰が蒸しても同じことだ。
ラク・ア伍長が押しとどめなければ、ファ・エンは本当に車窓から飛び降りていただろう。
休暇明けまで、実に二週間。おそらく生涯もっとも帰営が待ち遠しい帰郷になるのだろう。
ファ・エンは大いなる遺恨を残して、心ならずも京師の駅を後にした。
終




