第三十七夜|TUBTHUMPING
author:権兵衛
「――あれ」
嫌な予感を感じつつ声を出した。やっぱ、寝過ごした。
酔った頭で途切れがちな記憶をたどる。たぶんここは浦和美園駅。南北線の終点だ。
王子で飲み会があって、呑み過ぎたせいかバンドメンバーと言い合いになって、気がついたら0時を回ってて。で、南北線に乗ったんだ。
それから赤羽岩淵で降りてアパートに帰るつもりだったのを、寝過ごして……しかもこれ、終電だった。たしか。ちくしょう。
――で。どうする。
言葉には出さず、今度は時間軸を先へ進める。
終電を乗り過ごしたということは、すでに赤羽岩淵までの列車はない。アパートまで歩くには遠すぎる。
バス?この時間に?じゃあタクシー?マジか。俺フリーター(©リクルート)だぞ。
俺のような間抜けを神聖なる車両から排除するために、駅員さんがやって来た。どういう含意でか知らんが、声に妙な抑揚がついてる。
「終点ですよ~。降りてください」
はいはい、わかってますよ。降りますよ。
俺はここで降りるつもりであって、決して酔って寝過ごしたわけじゃないんですよ。というそぶりを力一杯見せつけつつ俺は車両から降りた。
でも駅員さんは全然こっち見てなかった。見ろし。
***
ちょっと意識がぶっ飛んで、気がついたら外だった。
――どこだ、ここ。
いや、浦和美園だろ。どう考えても。俺は脳内でセルフツッコミした。
ここで降りるつもりだったという自己暗示に、酔った頭はすっかり騙されていた。
今思えば、すでにここでスイッチは入ってたんだ。
別にオカルティックな趣味はないけど、来たこともない街をどこかに向かって歩いている俺自身に、何だか俺はわくわくした。まあ、もう初夏だ。どっかで力尽きても、朝まで生きているんじゃないか。
見回すと、けっこう酒蔵が多い。水がいいんだろうか。まあ今は酒、間に合ってますけどね。
「一級河川 綾瀬川」と書かれた看板を見上げる。土手があって、その先には川。あれ?
土手に誰か、いる。
不思議なことに――その時は酔ってたから何とも思わなかったけど――それがおっさんで、ストロング缶をちびちびやりつつ、ローソンのビニール袋の中からイカゲソを食っていることが俺にはわかった。
「こんちは」
人見知りのはずの俺が、酒の勢いを借りておっさんに近づき、声をかける。酔った俺は酩酊という被膜一枚隔てて、あけすけに振舞うことができるのだ。
おっさんはゆっくりと俺を見上げたまま、もそもそとイカゲソを咀嚼し続けていた。
「……」
だがしかし、おっさんはそのまま視線を前方に戻し、イカゲソを咀嚼し続けた。俺はイカゲソに敗北したのだった。
おっさんは、俺に警戒心を抱いてるだろうか。そんなどうでもいいことを考えつつ、俺も目の前の一級河川に視線を向けた。
***
王子でバンドメンバーと飲んだ時、たぶん俺は焦ってたんだろうな。セットリストが決まらないまま、普段呑まない蒸留酒をロックで三杯……あれ。そういえば目の前にボトルがあったような。誰だそんなの頼んだ奴は。……あ俺か。
二~三分だったか、二~三時間だったか、全然覚えてない。とにかく、俺はおっさんに話しかけられるまで、酔ってるとき特有のどうでもいい思考の奔流に身を任せた。
「ここ座りな」
やがておっさんは傍らの草地をぽんと叩き、俺に示した。
俺はここらあたりで、おっさんが生きた人間じゃないような気がしはじめていた。だって、土手を越えもしないうちから、このおっさんを認識できたのだ。それを思い出すと、何だか怖くなってきた。
俺はおっさんに促されるまま土手を降り、傍らに座った。
「終電に乗ったら、寝ちゃいましてね」俺は腰を下ろしながら、聞かれもしないのに言い訳した。「赤羽岩淵で降りるはずだったんですけど」
おっさんは、そんな俺に何か言うでもなく、ひたすらイカゲソを咀嚼し、たまにストロング缶をちびりとやった。
「赤羽岩淵ってのは、あれか」しばらく後、おっさんは口を動かさず言った。それはいわゆる脳直てやつだった。「荒川のある」
「そうっすね」俺は特に違和感もなく抱かず、ふつうに返答した。「荒川を渡る前ですね」
「このストロング缶ってのは、いいな」おっさんはこっちに500ml缶を示して笑った。「すぐ酔えるな」
「あんましいい評判聞かないっすけどね」俺はすげなく言い返した。「とにかく酔いが早くて、酒癖が悪くなるって」
確かこのとき初めておっさんの正面顔を視認したような気もするんだが、俺はその前からこのおっさんの顔が人間のものとは似ても似つかないことを知っていた。なんでか知らないけど。
「ふーん……」
俺のツッコミが効いたのかわからないが、おっさんは口元に手を当てて、唸った。いや、そんなに真剣に受け止められても困るんだが。
「いや、そんなに真剣に受け止められても困るんですけど」俺は思ったまま言った。「気持ちよく酔えるなら、いい酒じゃないすか」
「その通り」おっさんは急に自信ありげにそう言って、力強く頷いた。
何だ、この会話。
***
「お父さん」俺は使ったことのない二人称で、おっさんを呼んでいた。「なんで、出てきたんです」
「んー?」一歩踏み込んだ俺の問いに驚くでもなく、怒るでもなく、おっさんは至極のんびり応えた。
それきり、おっさんは黙った。
それはつまり、俺の問いかけがそんなに的はずれなものではなかったってことだ。
おっさんは答えたくないのだろう、ローソンのビニール袋に手を伸ばし、再びもそもそとイカゲソを咀嚼し始めた。俺は少し調子づいて、さらに踏み込んだ。
「ここらへんの……神様なんですかね」
返事なし。おっさんはイカゲソをもそもそと咀嚼し続けた。
「俺、べつに見えるとか、そういう体質じゃないんですけど」
返事なし。もそもそ。
「まあ酔ってるから、普段と違う回路がつながっちゃうとか、あるかも」
ここらへんから、俺の頭の中に水が流れ始めていた。最初は目の前を流れる川のイメージかと思っていたが、それはみるみる水勢と水嵩を増していった。
言ってみれば、体験したわけでもないのに突然洪水に呑み込まれた記憶がフラッシュバックするような、そんな感じだった。どう表現すればいいのかわからないけど、とにかく、地中深く流れる、大量の水。それを目や耳ではなく、五感の外側で知覚していた。
目の前を流れる、河。
水の流れといえば、人々はたいていこういうものをイメージするだろう。
しかし、それの何千、何万倍もの水が地中を流れていることをイメージできる者は少ない。
そんな人々の使う言葉で、どうやって我々と語り合おうというのか。どうやって我々を理解しようというのか。
膨大な水の流れの中に、そんな問いが含まれているような気がして、俺はふと顔を挙げた。
おっさんは、そんな俺を見てニヤッと笑った。めちゃくちゃ楽しそうに。
――ああ、やっぱりあんたの仕業か。
イメージの中でおっさんに投げかけたはずの言葉は、さらに勢いを増した水に瞬く間に押し流された。
「――ぷっ」
俺は可笑しくなって、少し噴き出した。
そのあとも何かやりとりしたような気がするけど、覚えてない。
というか、それを思い出しても意味がないような気がする。あの夜のやりとりの中で、あの膨大な水のイメージ以外におっさんが伝えたいことがあったようには思えないのだ。
言葉では、表せないもの。
もしかしたら、曲作りに行き詰って、ふと屋外に出たはずみに思いつく、結構いい感じのメロディ。あれに一番近いものかもしれない。
音楽をやる人ならこの感じ、わかってくれるんじゃないだろうか。
***
朝。
気づくと俺は、すでに浦和美園駅まで戻ってきていた。
いや、実際に綾瀬川まで行ったのか、そもそも怪しかったけど。
「まあいいか、どっちでも」
俺はつぶやいて、頭に浮かんだセットリスト案をバンドメンバーに伝えるため、尻ポケットから端末を取り出した。
終




