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デカメロン同人  作者: 権兵衛(管理人)
70/201

第三十五夜|シュラフタ

author:権兵衛

ようやく平原に出たとわかった瞬間、イツァーク・ゴルトベルクと妻のカタリーナは、九死に一生を得たと思った。

プラハを出るときに乗っていた馬車はカルパチア山麓の急峻な山道で脱輪し、そのまま馬はどこかに走り去った。

イツァークは小さくなっていく馬を見ながら、差し当たり積載していた衣服と金品の一切合切を身に着けて山越えすることをカタリーナに提案した。

何もかも現実離れしたその状況を前に、カタリーナは腹を抱えて笑った。ひとしきり笑ってしまうと、夫の気狂いじみた提案と、黒死病に支配されたプラハを交互に頭に思い浮かべて、渋々前者を選択した。山を越えてからでも、離婚はできると思ったのだ。

着込んだ衣服は財産であり、同時に初冬のカルパチア山脈を越えるための最適な防寒具でもあった。


この地域独特の牛車(ブィドロ)が枯草を積んで農道をやって来た。農夫は生きているのが不思議なほど老いていた。彼は奇妙な格好をしたユダヤ人夫婦を認めると、「そこで何してるのかな」と間の抜けた問いを発した。

「クラクフまで」イツァークは言おうとして、言葉を詰まらせた。プラハで自分たちを襲った災難――天災と人災、そのいずれも――がクラクフには無いなどと、誰が言いきれようか。

「とりあえず、食べ物いただけませんか。あの……」

お支払いはしますから。永い都市生活で慣れきったその台詞をイツァークは呑み込んだ。目の前の農夫に銀貨(グロシュ・プラスキ)を見せて、それがだいたい10デナリウスと等価であることを……否、その前に貨幣経済とはどのようなものであるのか理解してもらうまでに、彼は天寿を全うしてしまうと考えられた。

「うちに来るがいい」

農夫は事もなげに言い、牛に鞭をくれた。


道中、農夫がカタリーナに情事を迫ったため、取引は物別れに終わった。

いや、正確に言えば情事を迫られたカタリーナが農夫の手を振り払った途端、農夫は路傍に転がり落ち、そのまま動かなくなってしまったのである。この時ばかりは夫妻は、手を取り合って一目散に逃げた。


農道はいつしか森に入り込み、夜の闇と飢えが次第に夫妻を襲った。夜半を過ぎるころ、妻と比べて皮下脂肪の少ないイツァークがまず歩けなくなった。カタリーナは夫との別離よりもむしろ彼の着込んだ財産のみを案じたが、そのいずれを選んだとしても元手は同じであることに気づき、夫の身を案じることにした。

夫に肩を貸しつつ進んでも、二人の足はなかなか前に進まなかった。そのうちカタリーナも均衡(バランス)をなくして森の中に倒れた。


***


「おい」

頭を思い切りはたかれてイツァークは目覚めた。

飢えと疲れのためか、身動きもままならない。ただ幸い、着込んだ衣服のおかげで凍えてはいないようだった。

「何だお前らは」

残れる力を振り絞り、ようよう頭だけ上へ向ける。

声の主は二十代と思しき若い男だった。しかしイツァークから顔を離し狩猟用の弓を支えに立ち上がった彼は、雲突くような巨漢であった。

「あ……」

「ああ?俺の言葉、判んねえのか」

背後で妻が起き上がる気配がする。イツァークは昨晩の農夫の一件を思い出し、固く目を瞑った。

「あの、私たち」

「まあ誰でもいいけどよ」射手の男はイツァークより扱いやすいと見たのか、カタリーナを助け起こした。「猟の邪魔なんだよ、お前ら」

枯葉を踏む音が近づいてくる。

イツァーク抱き起されることを想定して(おもむ)ろに腕を挙げたが、それは期待外れだった。

「立て立て!寝るなら川の方へ行け」

男はイツァークの耳元で怒鳴った。


「全然イノシシが獲れねえと思ったよ」

夫妻が、特にイツァークの身動きがままならないことに気づいた男は、トウヒの倒木の上に腰かけ、苛立たし気に吐き捨てた。

イツァークは起き出したカタリーナに助け起こされ、空地(ポリャナ)の隅にうずくまった。

「奴らは嗅覚に敏感なんだ。そこへ昨夜からお前ら二人して……」

男はさも不満そうに不平を並べ始めたが、何となく手ごたえがないことに気づいたのだろう、急に言葉を切った。

「運ぶの、面倒だな……」

それだけ言うと、男は舌打ちして立ち上がった。


やがてどやどやと足音を立てて、男は馬と、幾分若い年格好の男を三人連れてきた。

「骨、折れてるんじゃねえのか」

「これ、馬の上に載せるのか?」

「全員で載せりゃ何とかなるだろう。さっさとやれ」

射手の男の方が身分が高いことは、やりとりを聞いていておのずと感ぜられた。

「というか……服が邪魔だな」

射手の男はつぶやいた。

イツァークは昨夜の農夫の件をはじめ、旅人を襲うであろう様々な危険について咄嗟に考えた。男なら安全だなどと、誰に言いきれるだろう。

必死の抵抗も空しく、イツァークは男四人に外套を含むすべての上着を脱がされた。

ただ幸いにして、男たちに追剥ぎの、ましてや暴行の意図はないようだった。

暴れるイツァークをなだめすかすうちに、射手の男はその意味に気づいたのだろう、残りの作業は配下の者に任せ、馬の傍らにマントを敷くと、その上で気が済むまで延々と笑い転げた。


***


彼の(やしき)は意外にも整然としており、イツァーク夫妻はそこに賓客として迎えられた。

その日の晩には、取り上げられた衣服は夫妻の手元に戻ってきていた。

「……?」

イツァークが違和感を感じて外套に顔を近づけると、それは強烈な酒精(スピリット)の匂いを放っていた。

「……呑んだくれ共が」

それが、結果的に自身と妻の命を守ったことに気づかぬまま、イツァークは天を仰いで悪態をついた。


射手の男はブロスニワフと名乗った。彼の言によれば、あろうことか彼の身分は貴族であった。

イツァークは耳を疑って、五度まで聞き返した。ブロスニワフはその度に悪びれもせず、自らを貴族だと名乗った。


──騎馬での狩猟、配下の者、マント。


確かに、それだけ聞けば貴族に思えなくもない。

それにしても、こんな百姓じみた貴族があるものだろうか。言葉からの想像と現実とのあまりの隔たりに、イツァークは失笑せざるを得なかった。

無論、ブロニスワフの体面を保つため、彼の視線の届かぬ範囲でそれをする必要があったにしても。


***


ブロニスワフは、イツァークの持つ財産に興味を持った。

無論それを欲してのことではない。先述の銀貨(グロシュ・プラスキ)を彼に示したところ、それを卓の上に置き飽かず眺めた。

彼は自身の領土にそれがいまだ流通しておらず、それが故に自身の領民が穀物商たちの搾取の対象となっていることに、薄々勘づき始めたようであった。


「議会にかけあってみては」

どちらかというと自分が穀物商人の側であるという事実は隠しつつ、イツァークはそう提案してみた。

「お国の近代化のためには、貨幣経済は必須です」

「我が国は、銀を産しない」

ブロニスワフは溜息混じりに、イツァークの言葉を退けた。

「と云って、他国から買うほどの財力もないのさ。みっともない話だがな」

「しかし、銅や錫を購う財力なら、あるでしょう」

「……?」

ブロニスワフは顔を挙げ、イツァークを見た。

イツァークは、ブロニスワフを顔を昵と見返し、ゆっくりと応えた。

「銅貨に、銀貨と鋳出せば、銀貨になるのです」妻から手切れ金として譲り受けた燻し銀の腕輪を相手に示し、イツァークは己の言葉に力を込めた。「皆さん、まだ貨幣の力を見くびっておいでだ」

「意地悪せず、単刀直入にたのむ」ブロニスワフは、一息にイツァークに詰め寄った。「先日の無礼については、ほれこの通り」

(いや)、駆け引きをするつもりは、毛頭ございません」


イツァークは嘘をついていた。

この時、彼の脳裏には駆け引き以外のものはなかったのである。

尤も、それはブロニスワフに対する駆け引きではない。

新しい祖国をめぐる、彼自身の行く末を賭けた駆け引きであった。

勝算は、確実にあった。何しろ、自らが(かつ)て推し進めた鋳貨政策の粋を、ここで再演すれば佳いのだから。


寸刻の(のち)

「さて、お聞きください」

この新しい祖国を、向後数世紀に(わた)って繁栄せしめん。

イツァークは(かつ)ての祖国のために揮ったペンを取り、ブロニスワフの方へ向き直った。

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