第三十三夜|Ilbirs
author:権兵衛
卓の上に大振りの銀貨が七枚、無造作に置かれている。
表面に"REPUBLICA MEXICANA - OCHO REALES"と鋳出されたそれを、露西亜人は訝しげに手に取った。
「これが、〇・七二騰格である」
目の前に座る中国人は言う。
「一騰格即ち〇・五戈比である。従って支払金は締めて五・〇四騰格即ち二・五二戈比であ――」
「待て」
露西亜人は最初の数字で既に躓いていた。抑々数字に弱いから街で働くことを諦め、今こうして真冬の天山山麓に居るのである。
「俺は計算が苦手なのだ」
傍らに置かれた大量のアカシカの角が1ルーブリにもならないのは、彼にとって青天の霹靂であった。が今はそれ以上に、盛んに暖炉の火が焚かれているにも拘らず氈帳の煙突穴が閉じられているのが気が気でなかった。
「文字に書こう」
中国人は懐から羊皮紙と矢立を取り出し、卓の上に置いた。
「必要ない」
露西亜人は強い口調で中国人を制した。
中国人はそれを聞き露骨に「またか」という表情を浮かべた。この民族の宿痾であるところの、理由を伴わない強い規制によって、もう永いこと彼の通商は阻害され通しであった。
中国人は座り直し、露西亜人は頭を抱えた。
暫くして、露西亜人は顔を上げて、左隣に胡坐を組む柯爾克孜人に言った。
「ドグデルベク」
「俺はドグドゥルベクだ」
「デグドゥルベク」
「ドグ・ドゥル・ベク」
「ドグ……」
際限ない鞘当てを前に、中国人は呆れた。この営みが、この問答が、一体何の益を産むと言うのだろうか。
それでも露西亜人は、柯爾克孜人の満足するまで誠実に発音の講義に付き合った。これには凡そ十五分の時間を要した。
「ドグドゥルベク、煙突を塞いで畢ってはいないか」
「羊が凍えるのを防ぐためだ」
「それは佳くない……一酸化炭素中毒になってしまう」
「一酸化炭素中毒とは何だ」
「羊糞が燃焼する時に、酸素を消費するだろう」
「酸素とは何だ」
「我々の呼吸する大気に含まれる……」
中国人は徐ろに立ち上がって茶炊に水を注いだ。湯が沸騰し、露西亜人の鞄の中から勝手に茶葉を取り出し茶杯に入れる。佳い香りが氈帳を満たす。しかし未だに柯爾克孜人は酸素が何か理解を示そうとしない。
「大気は、ひとつの要素である」
そう言って譲らないのである。
「そういえば、雪豹を見たよ」
放っておけば二週間は続きそうな二人の論争に、中国人は口を挟んだ。
柯爾克孜人は中国人を振り返り、何度かその言葉を頭の中で反芻するようであった。
「それは、此処ではそう呼ばない。イルビルスと呼ぶのである」
柯爾克孜人は、それが恰も自分たちの祖霊か何かであるかのように、厳かに宣言した。
「イルビルス」
中国人はつまらなそうに反復した。呼称など、それと、それに非ざるものとの区別以外に、いかなる作用があるというのか。何度も呑み込んだ台詞を、此度も彼は呑み込んだ。
「雪豹は、神のようだな」
夢見勝ちな視線を宙に遣り乍ら、露西亜人は唐突にそう述懐した。
柯爾克孜人の体面を慮って言う様でもない、実感の籠った口調であった。
「君らの神は、基督ではないのか」
おどけて、柯爾克孜人は露西亜人を詰った。併し露西亜人は平然と反駁した。
「雪豹も基督も、そこに神格を見出せば神である」
存在動詞を持たぬ露西亜語による断定は、いつでも彼らの願望や推測と融合した。露西亜人の示したあまりに鷹揚な宗教観に、そこにいた中国人も柯爾克孜人も返す言葉を失った。
その隙に乗じて、露西亜人はその魁偉なる体躯を一杯に伸ばし、氈帳の天窓を塞いでいた羊毛を取り払った。
柯爾克孜人はそれを見ても、何も言わなかった。
「盤羊を撃ちに行こう」
いとも容易く中国人に買い叩かれた露西亜人は、尻の口袋に銀貨を入れてしまうと、傍らの柯爾克孜人に言った。
「否――面倒だ、己は行かない」
柯爾克孜人は臆せず言い放った。併しそれは嘘であった。
実のところ、所有の燧石式猟銃の調子が思わしくないのである。併しながら、彼らの血肉と化した羞恥の美徳が、正直に申し出ることを妨げていた。――仮令、目の前の友人たちがそんな美徳を持ち合わせていても、そうでなくても。
「君の猟銃では用をなさないから、俺のを貸そう」
露西亜人は、いとも簡単に柯爾克孜人の秘匿せる真実を白日のもとに暴き出した。
「盤羊を二頭も撃てば、最新式の旋条銃を買えるぞ」
この一言が柯爾克孜人の自尊心を甚く傷つけたことに、露西亜人は気づかなかった。否、気づいていたとしても、彼は屹度躊躇いもなく同じことをに云うに違いない。
「己の旋条銃に――!」
柯爾克孜人は、矢庭に立ち上がって露西亜人の肩を小突いた。
露西亜人は二度目の打撃を咄嗟に躱して、身体の均衡を崩し氈帳の内壁にだらしなく凭れかかった。
「君の銃は旋条銃ではない、断じて」
露西亜人は柯爾克孜人を一瞥してから直ぐに立ち上がり、憤然と抗議した。肩を小突かれたことより、寧ろ狩猟に関する誤謬に我慢がならない様子である。
「ご覧、銃身の内壁だ――見ろ!」
えらい剣幕である。柯爾克孜人は彼に嘘を吐いていた後ろめたさもあり、びくりと身をすくめると、露西亜人に促されるまま、銃口から彼の猟銃の内部を覗き込んだ。
「溝が見えるだろう──見えないか?これをこそ旋条痕と云うのだ」
想いを遂げてしまうと、露西亜人はまたいつもの鷹揚な態度に戻った。
「これが無いものは旋条銃とは呼べぬ。
──判ったかね?」
機嫌を直し、併し乍ら強く念を押すように露西亜人は云った。
すっかり毒気を抜かれた柯爾克孜人は、諦めた様に何度も小さく頷いて見せた。
「五尺以上の角ならば、1盧布出そうよ」
氈帳から顔だけ出して、中国人は二人の狩人に言った。
「何だって?」
露西亜人は問い返した。
中国人は答えあぐねた。尺とは、彼の祖国の単位である。商いのために量も衡も好く使うが、度を論ずることは滅多にない。
「君くらいの丈ならば――」中国人は相当に鯖を読んでから続けた。「1盧布支払うと云ったんだ」
狩人らは氷床を踏み割りつつも中国人を振り返ると、高々と片手を挙げてそれに応えた。




