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デカメロン同人  作者: 権兵衛(管理人)
64/201

第三十二夜|Rain, after Rain

author:夜いるか。

 止まない雨はないなんて、無責任なことを言う人がいる。

 この土地に住めば自らの間違いに気づくだろう。

 土の匂い、肌寒い秋風、降り続く雨の音。すべてが慣れ親しんだ環境。わたしの外にあってわたしの内にあるもの。異物は何もなかった。この灯台に住んで十年近くになるけれど、本当は灯台の方がわたしの内側にあるのかもしれない。

 Vailolehen notesという地名は現地の言葉で、雨の生まれる場所、という意味らしい。それを教えてくれたご婦人はつい先日亡くなったと聞いた。とにかくこの土地では一年のほとんどが雨だ。海流のせいだという人もいるし、大昔に退治されたドラゴンのせいだという人までいる。いずれにせよ理由は不明で、しかし好き好んで突き止めようという人もいない。

 真実は雨の中だった。今日は霧も出ているようだ。まだ昼間だったがこれ以上濃くなれば灯台の明かりをつけなくてはならないだろう。

 空は相変わらずどんよりとして、海は見慣れた灰色。丸く切り抜かれた窓から景色を見渡せることは少なかった。夕日なんてものは久しく見ていない。別に、そんなものを見なくたって生きてはいける。読みかけの本に栞を挟んで、深呼吸。雨の匂いが古くなった外壁を通り越して伝わる。不快ではなかった。少なくとも海の向こうの遠い国にいた時よりはずいぶんと心地がいい。

 まどろみ。

 現実と夢の境界線。

 微妙な均衡。

 どちらに崩れるだろうか。

 どちらに崩れてしまえるだろうか。

 眠ってしまえば、次はいつ目覚めるだろうか。

 本当に目覚めることができるだろうか。

 甲高い呼び鈴の音がそういう逡巡からわたしを引き離した。

 誰だろう。月に一度訪ねてくるメイドは先週やってきたばかりだったし、急用もないはずだ。宅配便だって予告なしにやってきたりはしない。こんな遠くまで来て相手が留守だったら荷物を投げ捨てたくなるに違いない。

 門には若い人間が立っていた。隣には珍しいフォルムのバイク。水と泥を弾く素材で出来たコートと靴。そして大きな背嚢。身なりや表情から悪意は感じられない。危険性はないだろう。わざわざこんなところまでやってくる理由はまるで思いつかなかったけれど。

 沈黙を貫くわたしに対して彼は口を開いた。彼というのは便宜上の表現で、本当は彼女かもしれないし、どちらも不正解という可能性だって十分にあり得る。

「すみません、少し充電させていただけませんか? こんなに降るとは思っていなくて、思ったよりバッテリーを使ってしまいました。近くにモーテルもなさそうですし……」

 中性的な声。手には野良猫くらいの大きさのバッテリーを持っている。道の向こう側も霧でかすんでいた。きっと大変な運転だっただろう。

「ええ、それはいいけれど……失礼ですが、どちらへ行かれるおつもりですか? この先にはしばらく街がないわ」

 少し戸惑った表情になってから、彼はゆっくりと口を開いた。質問の答えを探しているようにも見えたし、わたしの表情を読み取ろうとしている様子にも見えた。

「旅をしています。行き先は決めてません。地図はほとんど見ないし、携帯電話も持っていません」

 頷いて、彼の後ろで存在感を放つバイクに視線を移す。流線形の綺麗なフォルムに黒いフレーム。それは砂漠の上を飛ぶドローン兵器を思い起こさせた。

「珍しいバイク。電動なんですね」

「これは父が遺してくれたものなんです」

「……そう、ごめんなさい。嫌なことを聞いてしまって」

 いきなりやってきた来訪者に対してある程度の事情を聞く権利はあるだろう。ただ、どこまで立ち入るべきかという判断は難しい。遠慮のない質問が相手の心にどれほどのダメージを与えるか、わたしが一番よく知っているはずだ。

「慣れているので気にしないでください。父はずいぶん丁寧に整備していたのでよく走ります。まあ、今はバッテリーもないし、泥だらけなんですけど」

 彼はそう言って微笑んだ。無邪気な微笑み。おそらくわたしより少し若い。活発さともとれるし、危うさともとれる。他に誰もいないこの場所で外見や年齢になんて何の意味も持たないけれど、そんなことを反射的に考えてしまう。目に見えるものだけが真実であった時代はとっくの昔に終わっているというのに。

「どうぞお入りになって。たぶん雨はしばらく止まないわ」

「ありがとうございます。正直、灯台を見つけた時はとても安心しました。このまま街までずっと押していかなければならないかと思いましたよ」

 電動とはいえある程度の走行音がするはずだったけれど、先程は押していたから音がしなかったのかと納得する。この天候と泥道で重そうなバイクを押す労力を考えて、自分には到底できないなと思った。

「珈琲と紅茶、どちらがお好み?」

「お気遣いなく。充電させていただけるだけで十分です」

 彼は大げさに両手を振ってポーズをとる。

「遠慮なさらないで。外は寒いし、詳しくは知らないけれど結構かかるんでしょう?」

「確かにそうですね……充電時間を犠牲にして走行距離を延ばすように設計されていますから。では、紅茶をお願いできますか」

 向かい合って腰を下ろす。お互いのカップから立ち昇る湯気が途中で交差する。そういう種類のランデブー。この場所ではわたしがホストなのだから、先に話を切り出すべきだろう。

「どのくらい旅をされているの?」

「ギムナジウムを出てもうすぐ五年になります。大陸の国はほとんどまわったので、そろそろ海を渡ろうかと思っているところです。なので、最近はずっと海沿いを走っています」

 一応の教育を受けた後、彼は旅に出て、わたしはここに籠っている。エネルギーの方向は真逆だけれど、少し似ているなと思った。その近似をはっきりと言い表すことはできなかった。わたしの頭の中にも霧がかかっているのだろう。

「どうして旅を?」

「どうしてでしょう。実のところ……僕にもはっきりとしたことはわかりません。どこか遠くへ行きたくなった。衝動を抑えきれなくなった。そういう気持ちになること、ないですか?」

「そうね、わたしの状況がまさにそう。貴方も気づいていると思うけれどわたしはこの国の人間ではないわ。海を渡ってここへやってきた」

「街はずれの灯台にですか?」

「どうしてだと思う?」

 わたしは聞き返す。機嫌は良かったけれど、少し意地が悪いかもしれない。

「貴方はわたしの状況についていろいろと想像することができる。例えば、

 元の国に住むのが嫌になった?

 自分探しがしたくなった?

 元々この国と何か縁がある?

 子供のころから灯台守になりたいと思っていた?

 誰かに頼まれている?

 それとも幽閉されている?

 ここにいるのはわたしの意思?

 可能性はいくらでもある。けれど何が真実なのか、貴方にはわからないでしょう」

 そこまで一気に言って、乾いた口を珈琲で満たす。温かい粘性の液体が生々しく体の中へ入っていく。

「真実……って一体なんでしょうね」

「それは、わたしたちの想像。本当はどこにも存在しないもの。こんな話があるわ。どこかの街に天使の銅像がある。けれど見方を変えれば悪魔にも見える」

 うーん、と彼はうなった。

「悪魔に見える? 片側が天使の造形で、もう片側が悪魔なんですね。そういえば遠くの国に顔が三つの銅像があるという話を聞いたことがあります」

 正確には木像だと言おうとして、黙っていた。わずかに興奮していると自己分析する。久しぶりに誰かと話をしたからなのか。けれど、もともとの生活が退屈だったというわけではない。

「まあそういうものかしら。気になるのなら実際に行ってみればいいと思う。船に乗る必要がありそうだけれど貴方にならそれが可能ね」

「いいですね。少し遠そうですが、これといった目的地もないですし。けれど、まるで貴女はできないかのような言い方ですね」

「わたしにはたぶん無理ね」

 二人はしばらく黙った。彼は遠慮がちに部屋を見回して、カップに口をつけた。言葉の意味を考えているのだろう。文脈の合間、どこにもない真実を。その間、わたしは窓を濡らす雨を見ていた。雨がやってきた雲、雲がやってきた海、その循環を。

「よくわかりませんが――」

 人差し指を自分の口に当てて彼の言葉を遮る。

「貴方がいま考えたことは真実かもしれないし、勝手な想像かもしれない」

 環状線のように議論を繰り返す。どこかに抜け出す道はあるのだろうか、それともこのままぐるぐると回り続けるのか。別にどちらでもいいと思った。ただわたしが何者であるのか、どういう人生を送ってきたのか、彼とはなんの関係もない物語だ。

 雨音が強くなる。次の充電は街で出来るだろうけれど、道の状態はより悪くなる。雨が小康状態になるまで彼はここに留まっているだろうかと考えて、すぐに否定する。そういう安定性は窺えなかった。気体の分子と同じで、常に飛んでいなければならない。微妙なバランスの上に生が成り立っているように感じられる。

「海を渡る駱駝の話、貴方は知ってる?」

「駱駝ですか? 普通、砂漠なんかにいる」

「そう。あのコブが二つある駱駝。昔、ある小隊が財宝を積んで砂漠を渡っていた。それがいつの間にか行方不明になり、積んでいた財宝はしばらく後に海を挟んだ隣国で発見されたという昔話。ある説では、砂漠のオアシスは深いところで海と繋がっていて、財宝は地下水路を流されて海へ出た。またある説では誰かが砂漠に埋まっていた財宝を拾って海の向こうへ持ち込んだ。しかし別の説もある。それは、駱駝が本当に海を泳ぐというもの。ご存知? これは嘘でも比喩でもなくて、駱駝は実際に10km程度なら泳ぐことが知られている。ここでわたしが言いたいことは一つだけ。人は自分が信じたいと思うものしか信じないし、それが真実だと思い込む。貴方がわたしをどう捉え、どう評価するのかはわからないけれど、それはわたしの解釈と必ず異なっている。ある人間にとっての真実は、ここにしかない」

 こめかみに人差し指を向ける。

 わたしの脳が意識を作っている。

 こんな、二キロにも満たない脂質とタンパク質の塊がわたしを形作っている。

 外界は電気信号を通してのみ理解され、他人と同じであるという保証もない。

 世界は誰にとってもオリジナルで決してコピーされることはない。

 わたしたちはかくもあやふやな世界で生きている。

 だから真実は人間の数だけ存在する。

 再び沈黙。

 雨が窓を叩く音と、二人の呼吸。

 音はどこかに消えてゆく。

 溶けあって、混じりあって。

 わたしの存在はどうだろう。

 この先何十年間も灯台にいて、やがて死ぬのかもしれない。

 身体のことを考えれば可能性はゼロに近かったけれど、何か思いがけないきっかけがあってここを出ていくのかもしれない。

「貴女はここで何をされているのですか?」

 話題がスイッチする。

「何も。ただ生活と仕事を」

「不便ではないですか?」

 近くの街までは車を飛ばして二時間ほどで、街といっても一般的な想像とは程遠い。最低限の食料や衣服を扱う店、そして診療所やほとんど訪問者のいない行政窓口がある程度だ。仕事にも難しいことは何もない。灯台守にはどうにも古臭いイメージがあるけれど、テクノロジーが進んだこの時代に好き好んで油まみれの機械を操作したりということはなく、オートメーション化された機械の保守を行うに過ぎなかった。つまり毎日、荒れた海を見て、レンズの汚れを確認するだけの仕事。その程度のことならば完全な自動化が可能だから灯台に人間がいる必要性はまったくないように思えたが、少なくとも雇い主にとっての意味はあるらしい。人間の価値なんてそれくらいなのだろう。

 海の向こうの社会から弾き出されて数年後、まさか自分がこんな環境にいるとは思わなかったけれど、きっと世界のどこにいても同じようなことを思ったに違いない。少なくともわたしはこうやって生きている。その間にあった珍しい病気のこと、後遺症のこと、それから家族や社会との軋轢、ここではすべてが無意味だった。カモメはそんな厄介な話をしない。荒れる海だって、見た目に反して寡黙だった。

「ある面ではその通り。例えば貴方のバイクは、車と違って雨を避けることはできないし、今日みたいにぬかるんだ道は走りにくいだろうけれど、それは不便だといえる?」

「そう思う時もあります。でもこれは僕にとって大切なものだし、不便さを上回る価値もあります。具体的には説明しにくいですが」

「同じことなの。ここなら身体の調子もいいし、いまのところ不満は何ないわ」

「……でも、例えば人と話したり、それから、まあ、よくわからないですけど……」と、彼は言いよどんだ。おおむね人付き合いについての話だろう。

「上へ行きましょう。続きはそこで」

 彼を促して階段を昇る。

 灯台の中には百年以上の歴史が詰まっていた。

 最も古い部分はかつての大戦前に造られたものだという話を聞いたことがある。階段の塗装もずいぶんと剥げていて、一段昇るごとに、ぎい、という不愉快な音を鳴らす。一方で備え付けの機器は比較的新しかったし、灯台にとって最も重要なレンズも数十年前に取り換えられている。こういう合わせ技を嫌う国だと思っていたけれど、場所や目的によるらしい。けれど精確なGPSが普及した時代に灯台が果たす役割なんてあるのだろうか。もしかしたらこの灯台には船舶の安全を確保することとは別の特別な役割があるのかもしれない。例えば、衛星との通信だとか電波の傍受だとか。目の届く範囲にそういった設備はない。隠されているのか、知らされていないだけなのか。これもすべてわたしの妄想。この施設にどんな存在価値があったとしても、わたしとは何の関係のないこと。わたしはただ家族から厄介払いされた灯台守で、灯台の仕事以外については何も関与しない。今の生活が好きだったし、満足していると評価できる。少なくとも元の閉塞した世界に戻りたいとは思わなかった。

「寒いですね」

「空調設備は下の部屋にしかないわ。もともとこの灯台に人が住むことは想定されていないし、変に暖かい方が機械には悪いみたい」

 彼は頷いた。螺旋階段の終わりが見える。

「この上って灯台の心臓部ですよね、部外者を入れてしまっていいんでしょうか?」

「さあ、知らない。貴方が告発状を書いたりしなければ大丈夫でしょう」

 しませんよ、と言って彼は微笑んだ。最上部の扉は手動だ。海風に晒されても勝手に開くことがないよう、いくつかの物理的なロックで閉じられている。それらを順に解除して、彼を招き入れる。他の人間が入るのはわたしの着任以来初めてだった。

「すごい……」

 彼はそれだけを言った後、黙り込んだ。部屋の中央で圧倒的な存在感を放つ構造物を、食い入るように見つめている。

 ガラスのコップを向い合せに繋げたような第二等フレネル式閃光レンズ。直径約200cm、焦点距離70cm、光達距離は約40kmに及ぶ。この場所は昔から雨が多かったため、灯台の規模にしては大型のレンズが据えられたらしい。全体の大きさはわたしの身長を遥かに超え、重さも1t以上ある。台座はとても頑丈に作られていた。万が一にもレンズに何か問題があれば灯台としての役割を果たすことができなくなるからだ。たったそれだけで存在価値がなくなってしまう。心臓というより、脳に近いのではないかとわたしは思った。このレンズが灯台という世界を作り出している。他の何ものにも代替することは不可能だった。

 ガラスの波紋。

 プリズムの鼓動。

 光の複雑な屈折。

 ステンドグラスのような輝き。

 工芸品にも負けない美しさ。昔の人が見たらどう思うだろうか。異世界の道具か、あるいは宗教的なオブジェに見えるかもしれない。現代の人間だって知らない人が見れば用途を推測できないだろう。

 夜になればダイアモンドを散りばめたかのような輝きを放つレンズ。

 この輝きがわたしを留まらせているといっても過言ではない。

 その純粋さ。

 その高潔さ。

 雨を切り裂いて拡散する光。

 わたしの身体を貫いて遠くの海を照らす光。

 いつの時代も船舶を導く光。

 雨と霧の向こうで煌々と輝く光は船舶にとっての希望であり続ける。

「フレネルレンズが反射する光はこの場所でしか見られないもの。他の何よりも尊いわ。何ものもこの輝きには及ばない。孤独なんて、焼き尽くしてくれる」

 彼は無言で頷いた。散らばってしまった言葉を探しているようだ。しばらくして口を開く。

「……少しだけですが……わかる、気がします」

 部屋を後にするとき、彼はもう一度レンズを振り返った。階段は相変わらず秋の終わりの冷気を帯びている。

「どうも、本当にありがとうございました。充電させてもらったばかりか、貴重なものも見せていただいて」

「さっきはあんなことを言ったけれど、久しぶりに生の人間と話ができてよかった」

 僕の方こそ、と言って背嚢から小辞典くらいの大きさの箱を取り出した。

「ほんの少しのお礼です」

「わたしはただつまらないお話をしただけ。旅に持っているものなんていただけないわ」

「これはもう使わないものなんです。以前の僕には必要でしたが、いまの僕が持っている必要のないものです。不要なら処分してもらっても一向に構いませんし」

 それだけ言うと、彼は深く一礼して灯台を出ていった。

 しばらくしてモーターの駆動音が雨音を僅かにかき乱した。

 その音も次第に減衰していく。

 彼は世界へと帰っていき、わたしは灯台に留まっている。

 気が付くとわたしはレンズの中心に立っていた。自分の姿が無数に拡散する。すべて異なった格好と異なった表情をしている。その中の一つが今のわたしだ。しばらくすると光が灯る。屈折する影が消え、すべてのわたしが統合される。

 そういう想像から離脱して机の上に置かれた無地の箱をあらためて観察する。

 持ち上げてみると大きさの割には重く感じられた。

 箱の中には、小さな拳銃が静かに収まっている。

 これも彼の父親が遺したものなのだろうか。

 どうしてこんなものを旅に持っていったのだろうか。

 国によっては合法だし、護身用という可能性もある。

 他の目的だっていくらでも考えられるだろう。

 そもそも本物なのだろうか。

 本物だとしても壊れているのかいないのか。

 弾が入っているのかいないのか。

 瞬時にいくつかの可能性を思いつく。

 けれどそれらはすべてわたしの空想だ。

 真実は今頃、必死に泥道を走っているだろう。

 すっかり冷めてしまった珈琲を一口。

 苦くて渋い。

 銃を机の引き出しにしまう。

 わたしはまた一人になる。

 そうやって日常に戻る。

 ここは何も変わっていない。

 雨が降っている。

 今も、そしてこれからも。


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