第三十一夜|大江戸火消図会
江戸町火消のうち八番組わ組の頭八木清五郎は、町火消には珍しく庭師を生業としていたが、当人はそれを大変不名誉なことと考えた。
庭師が一般に屠家の者として厭忌の対象となったのは遥か昔、善阿弥・又四郎の生きた足利時代までのこと。時を移して今や延享年間、徳川の執政益々もって盛んなりし時勢である、今さら作庭業の貴賤を問うなど余程の頑迷固陋の輩か、喧嘩のネタに事欠いた「火消の勇み足」くらいのもの。
享保の中頃に組頭となって以来、早や廿年。賤業たる庭師と、名誉職たる組頭。相克せざるべからざるこの境遇を、清五郎は最近ようやく諦めとともに受け入れつつあった。口さがない町人に嘲弄されても、すぐに放縦狼藉の沙汰とならないのは、歳のせいだと云うものもあるがそれだけではあるめえ。これぞ人格の涵養というものであろう。内心、そんな自負さえあった。
一方、わ組纏持ちの卜部虎白の意見は正反対であった。そもそも組頭の放縦狼藉が収まったなどということは断じて無い。確かに己が平人としてわ組に入門した当初、組頭は喧嘩ばかりした。酷いときは町で鳶の者とすれ違いざま、まだ何も言われぬうちから挑みかかって組打ちとなったことも数知れず。顛末の尻拭いには、図体のでかくて押し出しの効く、あまつさえ本道医としての幅も効くからと妙な理由をつけられて、必ず己が駆り出された。
最近は富みに相手の出方も覚えた、まして清五郎の手が出る間合いに至っては心得たもの、機先を制してこちらから先に封じてしまえば、未然に防いだ例も一方ならず。
その意味では、お頭の喧嘩も最近は減ったと言えるだろう。しかし、それはひとえに己の努力の賜物である。虎白はそう自任している。
***
延享四年も暮れに差し掛かったある日、清五郎は同八番組ほ組の頭、そして我がわ組の虎白と連れ立って町奉行に付け届けに出向いた帰り、折悪しく加賀衆が徒党をなしてやって来るのと出くわした。すわ、またも放縦狼藉かと虎白が傍らを見るに清五郎、既に拳を固めて飛び掛かる隙を伺う風情である。ここは場数と間合いの賜物、虎白は清五郎がまだ上気しないうちから襟首に無造作に手を突っ込み、ぐいと上へ引っ張る。すると不思議と大人しくなるのである。
そのまま加賀衆とすれ違い、ほっと一息ついた所へ、すれ違った群れの中から、こんな声がする。
「湯島にさんずい事足れり、まいて山水河原者」
おかしなことに、真っ先に頭に血が上ったのは虎白の方であった。いかに沈着を旨とする二番手を任じていても、真正面から親分を馬鹿にされてはさすがに顔色がない。とはいえ、ここで自分まで色をなしては埒もない。ままよ、先方の歌が止むが早いか虎白はやおら清五郎を小脇に抱え上げ、加賀衆とは逆の方向へ一散に駆け出した。
虎白は骨接ぎの心得もあり、抱え上げた清五郎が暴れ出さぬよう確と関節を極めている。ここで妙に騒げば手足ばかりか首も落ちかねない。清五郎も心得たもので、脇に抱えられたまま神妙にしている。何とも奇妙な景色ではあるが、ほ組の組頭は後方からそれを見て怪しむでもなく、ただ呆気に取られてただ道中に立ち尽くすばかり。
後に虎白の述懐するに、この時ばかりはすんでのところで踵を返し、かつての清五郎のごとく加賀衆の向こうを張ってあわや大立ち回りを演ずるところであったと云う。
息せき下谷の町を抜け、目指す自身番の戸口に辿り着いて、ようやく虎白は一息ついた。
「コウ、コウ!もう下ろせ」
小脇に抱えられたまま休まれたとあっては、組頭の名折れとばかりに喚き散らす。
「下ろしたら、また駆け出しアしやせんかね」
「いいから下ろせ。箆棒め」
落ち着きを取り戻しつつある虎白に対して、徐々に気勢を高めつつある清五郎。
「わかりやした。駆け出したら張り倒しアすぜ」
「物騒なこと言うねエ、抑々(そもそも)なんで手前が俺を担いだか判らねエもの」
果たして、先程の加賀衆の軽口の意味がまだ清五郎には腹落ちしないと見える。虎白はゆっくりと親分を地面の上に降ろしてやった。
――まア、時間の問題だな。
庭師を屠家だの、山水河原者だのと呼称したのは、先にも述べた通り足利のころ、それも西国でのことだ。それをお頭が知らぬとは思わないが、すっかり腑に落ちるまで……そうさな。二、三日はかかろうか。さて、その先のことは、その時に考えよう。
医者という仕事柄、鷹揚な身のこなしが板についてしまったせいでそれとは判じ難いが、虎白とて生粋の江戸っ子である。たまさか斯ういう時に、ふと江戸者の気風が垣間見える。
***
間の悪いことに、その夜神田明神の並びの商家に火事があった。
わ組の受持ちは下谷町一帯、西に広大な加賀屋敷を仰ぎ見つつ湯島天神下町まで南下し神田明神をその限りとする。その先の湯島聖堂は幕府の学問所であり、加賀藩召し抱えの大名火消、いわゆる「加賀鳶」の受持ちである。
こうした地理的な因縁から、とにかくわ組と加賀鳶は相性が悪かった。さらに冒頭に述べた通りの個人的なしがらみもあり、もはや一朝一夕ではどうにもならぬほどにこん絡がった因果の糸には、さしもの虎白も疾うに匙を投げていた。
先般の一悶着がなかったにしても、一体に町火消と大名火消は仲が悪い。いかな町火消も、臥煙と呼ばれた徳川お抱えの定火消には、あからさまに楯突くことは憚られる。所が外様大名であるところの加賀藩お抱えの人足衆となれば話は別である。互いが町人の、あるいは武家の向こうを張って対向し合う。出火の際にはそれが一層顕わになるのである。
そんな両者の因縁を一層煽るかのごとく、今回の出火は神田明神の境内にあった。一般に寺社での出火は、各自の手に負えぬ規模のものについては近隣の火消衆にて消火に当たるべし、との定めである。
否、守るべき定めもあればこそである。幕府としても不用意に寺社を刺激するような触を出し、寝た子を起こすつもりはない。ならばそこは曖昧にしておくに如くはない──有り体に言えば、これについてはお上からの定めは無く、完全に当事者に委ねられていたのである。
幕府からの直々の肝煎に応ずる形で、加賀前田家が重い腰を上げて組織したのが、所謂加賀鳶である。そんな経緯もあって、彼らの出動は町火消に比べると緩やかなものである。隊列を組足早にではあるが極静かに進む。
距離からしても、ちょうどわ組が下谷界隈から駆けつけるのと同じ頃合いとなるのも、また因縁のなせる業といえるだろうか。
結果、この日の消し口争いも完全に泥試合の様相を呈し、火事のことなど何処へやら、互いに梯子を蹴倒すやら、玄蕃桶のなかに相手の首を突っ込むやら、果ては隣家の瓦を引っ剥がしては仇たる隊列に向かって振ん投げるやら。
神田明神の広大な敷地が奏功し、幸い火は両隣の各半分を消し炭にしたきり鎮まったが、両者の因縁はさらに火種を残す結果となった。
「何奴も此奴も、篦棒め──」
ふと見渡せば友軍、敵軍ともに手負いの者しか残って居らない。事の成り行き上、ほとんど独りで跡火消しの役回りを買って出るのも、直に慣れた。
ようよう焼け跡を検し終えた虎白は、焼け残った帳台の上にどっかと腰を落とし、柄にもなく不平そうに悪態を突きつつ与力の出動を待った。
***
図体のでかい加賀衆のひとりに軽々と担ぎ上げられ、真冬の玄蕃桶の中に押し込められた清五郎が、翌朝には高熱を出して寝込んでいるのも当然といえば当然の成り行きである。
娘の滝女もこれの扱いは手慣れたもので、清五郎が起きる前から温燗にした焼酎に割った鶏卵を放り込み、あとは済まして他の手負いの人足の手当てを始めたから堂に入ったものである。
「コウ」
名前を呼ばずして清五郎がそう言ったときは、必ず娘の滝女を指すのが通り相場である。
「……コウ!」
清五郎は意地でも娘の名を呼ばない。滝女としても、老人の由なし事に付き合うほどの暇も酔狂も持ち合わせがない。
それでも清五郎は、娘をただの間投詞でもって呼び続け、次第に淀んだ番屋の空気が妙に張り詰めてくる。
「さ、終わったよ」
さっさと自分の用だけ足してしまった滝、父親の追呼などまるで無視して鏡台までいざり寄ると、髷を整えて出かける支度を始めた。
思うさま剣突を食らった清五郎、これ許は言うも憚られるかと躊躇ったものの、どうにも腹の虫が捨て置くことを許さなかった。
「けっ、色気づきアがって。どうせ加賀衆んとこ行くんだろ」
清五郎なりの、大名火消への最大限の揶揄であろう。娘は屹と父親を向き直る。
「ああ行くとも、案山子のほうが狒々爺よりなんぼか増しさ」
相手につられて身内を案山子呼ばわりする世話もないが、斯くなる上は滝女としても最早意地である。
「へッ、行くがいいさ。行ったら最後、二度とうちの敷居は跨がせねエからな、この盛のついた雌猫がッ」
実際は「雌猫が」までは言い畢せていない、滝女は悪態が終わる前に茶瓶を押取り、大上段から実の父親目掛けて投げつけた。
「呀」
こうなると、もうどちらが猫だか判りはしない。手負いの人足どもの制止も振り払い、水入らずの組打ちは延々と続く。
満身創痍の滝女と長屋の外で出くわした時には、さすがに虎白も肝をつぶした。
「いつものやつさ」
顔を赤らめつつ立ち去ろうとする滝女の行く先は、自ずと知れている。
不断であればそのまま行かせようにも、虎白には一つ引っ掛かりがあった。
「お滝ちゃん、ちょいと」
昨晩見る限り人足どもの金創は、およそ大事には至るまい。以前教えた通りに滝女は手当てもしたろうし、そもそも本道医たる己の出る幕でもなかろう。
逢引に向かう娘を止める無粋は知りつつ、虎白は顎で茶店の方角を示して見せた。
業腹なのは父の清五郎である。病身をことさらにひけらかすも袖にされ、挙句の果ては鉄瓶の見舞いを真正面に食らい、真っ直ぐ歩こうにもふらふらとする。
もしかしたら温燗をやりすぎた所為かも知れないが、今はそんなことはどうでも宜しい。
鉄瓶が清五郎の眉間に直撃した刹那、不意に彼の脳裏で先日の加賀衆の軽口の意味が通じたのである。山水河原者とは、この庭師たる己への最大限の侮蔑に外ならぬ。
何やら咕咕と呟きつつ、清五郎は褞袍のままふらふらと自身番屋を後にした。
***
清五郎の本心としては、娘が誰とで出来様が知った事ではない。抑々(そもそも)あらゆる方面に色事をなしたる身、今更娘に貞操を解くなど笑止千万。
しかし加賀屋敷の藩士詰所を望草叢の中に身を潜めながら、それだけでは収まりきらぬ癇の虫が腹の中で蠢くのを清五郎は感じていた。娘の気性は生まれながらにしてあれである、今更咎めだてする謂れもない。その娘が加賀衆と出来るのも、先述の理由によって己が取沙汰できる筋合いはない。では、先日のすれ違いざま、加賀衆から喰らったこの上ない侮辱の言葉はどうか。――否、これとても長年の経験と諦めによって、惰性と言ってしまえば仕舞いであるが、ために身一つ乗り込んで来るには値しない。
――思えば、と清五郎は自らの白い息を悴かむ両手に当てつつ、慨嘆した。思えば、この三つまでが時を同じくして、己を襲う巡り合わせこそ、凡ての元凶。もはや誰でもよい、加賀衆のうちから一人でも踏ん捕まえて拳固の五、六――いや十や廿は呉れてやらねば、どうにも此の虫はおさまらぬ様子だ。
そうこうするうちに、半纏を羽織った若い男が、辺りを憚りつつ詰所の建物からずっと身を乗り出し、月明かりが男の面貌を清かに照らし出した。
「吶呼―――っ」
その後の事は詳らかに覚えては居らん、一人と思った加賀衆が、瞬きする間も有らばこそ、知らぬうちに十重二十重に囲まれて、呉れてやるつもりの拳固が際限なく降りかかる様だけは記憶に確かだ。そのほかは――ただ依然として清かな月光に照らされて、あの日すれ違いざまに侮蔑の視線をくれた男の影が見えたような、見えぬような。
次に目覚めたときには清五郎、加賀上屋敷裏手の盲長屋の裏手に、芋虫のように麻縄で縛られ転がされた己の姿を見出した。
***
町奉行としても、八番組の受持ち区域の面倒なるをよく承知であるから、加賀衆の顔を立てつつも、喧嘩でやつれた清五郎の身を受け出すことはもはや慣れっ子になっていた。
「唯さえ、今は面倒なものを」町奉行は自らの牽く馬の上、仏頂面を下げる旧友を見上げて苦笑してみせた。「これ以上面倒ごとを増やしてくれるな」
「馬鹿言え」満身創痍の清五郎とて負けてはいない。「貴公に面倒をかけたのは今春、二の丸の出火の折、火事場で相見えたぎりではないか」
「ああ」町奉行は凡てを察したように言う、「貴公の察しの悪さは折り紙付きよの。追って麾下の纏持ちに尋ねてみるが好かろう」
――ああ、また虎白の独壇場か。それ以上何を考えても、己の単純なる頭では追いつかぬ。
清五郎は、暫し心地良い馬の歩みに身を任せるることにした。
***
二日を置いて、凍てつく晩のことである、再びわ組番屋の半鐘が打ち鳴らされた。
早鐘とはいえ二、三打ち鳴らしては間を措いての、中近の出火の報せ。何の因果か、報せに因ると火の手は神田明神のもそっと先、あろうことか今度は湯島聖堂に隣接する薬種屋という。
これほど御し難い地の利もあればこそ。受けた報せに躊躇しつつも、ままよと清五郎は押っ取り刀で馳せ参じたが、火口に着いたところで見まわせば、纏持ちの虎白の姿が見当たらない。
「唉、いめいめしい。纏持ちが遅れて、町火消の面子が立つものかよ」
梯子を立てつつ、清五郎は腹立ちまぎれに怒鳴り散らす。
どうやらいの一番に馳せつけたるはこのわ組、ここは虎白がおらずとも、若い衆に纏を持たせて屋根先へ――。
思うが先か、札を掛けた軒の下から忽と現れたのは、外ならぬ纏持ちの虎白。あろうことか着流し一枚、火消の装束など微塵も垣間見えぬ。
満を持したるそぶりで虎白、胸一杯に息を吸い込み、それを忽ちのうちに大音声へと変ぜしめた。
「確かに消し札ここに掛けたり、此方わ組の火口と心得よ」
「わっ、大馬鹿野郎」
これには清五郎も驚くの、驚かないの論ではない。唯さえ幕府方の敷地に近い出火だ、あまつさえ本来此処は加賀鳶の受け持ち、加賀藩どころか幕府方の面子を慮って、あえて誰も消し札を争いを憚る最中、あろうことか虎白の大音声は既に馳せ参じつつあったわ組人足のみならで、大名火消たる加賀鳶連中、奉行所の下知によって駆け付けた定火消たる臥煙たちの耳をも轟かせ、忽ちのうちに辺りは蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「しでかしよったな、わ組の。今度ばかりはその狼藉、奉行の目溢しでは済まされぬぞ」
加賀鳶、また臥煙どもはわ組の頭と見定めるや、異口同音に手厳しい指弾を浴びせつつ、先を争って清五郎の印半纏に目掛けて飛び掛かった。
身を丸め、雨霰と降りかかる拳固を必死にやり過ごしつつも、清五郎の口からは無限に漏れる、纏持ちへの恨み節。
「虎白――。覚えていやがれ、廓一夜では、済まされねエぞ」
***
奉行所に謝礼を受けに呼ばれ出向いたものの、加賀藩直々の褒賞とて堆高く積み上げられた米俵が実に百石、のみならず、幕府方からもお仕着せをはじめ、山と積まれた下賜の品々を前に、清五郎は言葉を失った。
「お頭、これで己と口を聞いてくれる気になりアしたか」
隣で躊躇いがちに虎白が呟く。清五郎は返答しようにも、事態が全く飲み込めず、ただ戸惑うたように伴の纏持ちを見上げる。
「う……お前エ、何をした」
「よしねエ、人聞きの悪い。幕府のお膝元で聞かすような顛末でもねエ、どれ帰りの茶店ででも、じっくりと」
「駄目だ駄目だ、己はもう、お前エが恐ろしいよ」
「ずっと剣突喰らわせといて、褒美を受けたら今度はそれかエ、全く負えねエ親分さんだ」
「何とでも言いアがれ、些と気が落ち着くまで、俺ア誰とも話さねエぞ」
「それを負えねエって云うのヨ、お頭。どうあっても、事の経緯は聴いてもらうぜ」
「勝手にしろイ、箆棒め」
漸く不断の調子を取り戻した清五郎を認めると、虎白も聊かほっとした。
***
「けええ――っ」
「お頭、声が高い。店の外とはいえ、天下の往来で」
「し、知った事かよ、じゃア何か、その加賀のお家騒動とやらに、お前エは首を――」
「それを人聞きの悪イと云うんだ、親分さんヨ」
「そ、そんなら何か。火口での悶着も、加賀屋敷のときも俺ア」
「加賀屋敷の一件は、あれアどう診立てたってあンたの勇み足だ。――ただ」
「?何でエ」
「あれが無けれア、今頃みんなお陀仏だぜ、己もあンたもな。そういう意味では――」
「吶呼―――っ、もういい、聞きたくねエ」
「だから、これはお役の裡だというのに。お勤めと思って、聞かっしゃい」
「か、勘弁してくれ、俺はもうわ組を降りる、ほ組に行く。あばよ」
「やれやれ。負えねえ親分さんだ。頼むから、他所まで厄介かけるんじゃねエぞ」
脱兎のごとく駆け出す吾が上役を遠くに見晴るかして、虎白は今日一番のため息をついた。
終




