第二十九夜|人民戦線
aithor:権兵衛
「日置君には……もうこの課で八年になるのかな。ずっと牽引役としてがんばってもらって」
「課長、五年です」
俺はZoom画面の中で音頭を取る課長にすかさずツッコミを入れた。
間違えすぎじゃん、という合いの手がオフィスの一角から聞こえ、オフィスに似つかわしくないほどの笑い声が響く。
「……一応、その前は隣の課だったんで」
「ほぼうちの課あつかいだったよね」先ほど合いの手を入れた戸次さんが、島の対角線にあるデスクから顔を上げて俺に直接視線をくれた。
「だね」相槌を打ったのは、自宅から繋いでいる課長。
「課長、なんか酔ってない?」隣の島の田沼がボソリとつぶやく。
「フライングだな」と俺。
手にしているビール缶の中身は知るよしもないが、終日リモートワークの課長がいつから酩酊状態だったのか、およそ想像はつく。
とはいえ、形としては終業後の任意参加の懇親会だ。冗談めかして所々でツッコミが入りはするが、大まじめに指摘するような課員はいなかった。
「統計でもコロナ以降は家呑み率、上がってるらしいよ」
課長は言いながら、おもむろにビール缶を口に運んだ。
「課長、まだ!」
すかさず戸次さんが斬り込んで、再びオフィスの一角に笑いの渦が起きた。
***
「あ、ちょっと。日置君は座っててよ」
半透明のビニールを持って空き缶を回収していた戸次さんが、俺の方にやって来た。
「トイレ行くから。ついでですよ」
俺は差し出されたビニール袋の中に空き缶を放り込んだ。
「トイレも駄目」
「ウソでしょ?!」
小さな笑いが周りから起きる。
コロナ前だったら、このあとボーリングか、カラオケか。そんな話になるんだろうけど。
俺はちょっとだけ感傷的になって、業務エリアをあとにした。
男子トイレには、ほとんど飲んでいないはずの田沼が真っ赤な顔で小便器に向かっていた。
「お疲れーい」
普段よりもおどけた口調で、田沼に声をかけてやる。
「お疲れ様です、ほんと」と田沼。
「まあ、証拠隠滅する時間もあったし」
俺はZoom飲みの最中、課長がかました冗談を改めて展開してみた。
「はは」田沼は愛想笑い半分に相槌を打つと、続けた。「なんか」
「え?」
「酔ってたせいかわかんないですけど。さっき画面すごい乱れましたよね」
俺は股間をさぐる手を止め、しばしの間そのまま固まった。
乾杯のあと、俺を揶揄する冗談が何回か飛び交った。二回目か三回目に同じ冗談が飛んだ時、俺は多少腰を浮かせて隣島の同僚に何かツッコミを入れたのを覚えている。
その時、視界の片隅のディスプレイに、かなり解像度の低い男性のモノクロ映像が、何かコマ送りのような不自然な速度で映った、気がしていた。
「……え?」
まさか、お前も見た?
そう続けようとした俺の声は、あまりにもかすれていた。
「ちょっとあの場の雰囲気に合わな過ぎたんで、言わなかったですけど」田沼が言葉を継ぐ、
「ちょ、ちょっと待て。先に小便させて」
上半身だけ田沼に向けつつ、俺は酔いが一気に覚めていくのを感じていた。
「会社のZoom映像だから、そんなわけないって思ったんですけど」
洗面台に半ば腰をかけながら、田沼は言った。顔はさっきよりも若干青ざめている。
「課長が乾杯する前、ほとんど何言ってるのか聴き取れなくなって、そのあとが……何かおかしいんですよね」
「乾杯する前?」
思わず声を上げた。俺が見たのは、乾杯のずっとあとだ。
「はい」
「……ごめん、続けて」
俺はジェットタオルの横の壁にもたれて、先を促した。
「いいすか?」田沼は気を落ち着けるように一呼吸置いた。「あの、Zoomって専用窓じゃないすか。その窓の中で画面が乱れるならわかるんすけど」
「うん」
「画面全体が乱れてたんですよ」
「メガグ、ナシオナル」
「え?」
俺と田沼は、同時に声を上げた。
田沼の「乱れてたんですよ」にほぼ重なるタイミングで、まるで電波の悪いAMラジオから流れるかのような、声帯を絞るような声が確かに聞こえた。
メガグ、ナシオナル。前後にも何か言っていたようにも感じたが、一音一音がわかるのはそこだけだった。
トイレの洗面台は薄い大理石が貼られていて、どんなに小声で話しても必ず反響してしまう。しかしこの声だけは、まるで防音室で録音したかのように、何の残響もなく聞こえたのだった。
「ちょ、ちょっと」
慌てる俺をさえぎるように、田沼は顔の前でしきりに手を振った。声を出すな、ということだろう。田沼は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「……」
しばらく待ったが、結局それ以降、その声がすることはなかった。
***
どちらから提案するでもなく、俺と田沼はトイレを出て、エレベータホールへ向かう廊下に移動した。
「何、あれ」と俺。
「わかんないですよ」と田沼。
「その、画面のことと関係あるのかな」
「わかんないですけど」田沼は繰り返した。「画面のこと、言うとまずいんすかね」
「あ、その話だったっけ……」
俺は、少し考えて提案した。
「ちょっと、一回だけその話してみ」
「そう、すね。はい、話しますよ」田沼は一呼吸おいた。「なんかディスプレイごと……砂嵐っていうんですかね、ザザッと乱れて、そのあと、すごい人だかり、というか、群集が」
「ナシオナルフロント、ハルスメネリ……」
「え?え?ちょっと!!」
「うわあああっ」
俺も田沼も、本能的にオフィスに向かって駆け出していた。
業務エリアに駆け込んだ時は、生きた心地もしなかった。それは田沼も同じだろうと思う。
が、いつものスペースで戸次さんと嘱託の真鍋さんが談笑しているのを見ると、途端にこちらの方が現実味を帯びて見えてくる。
自分らの体験したことと、目の前に当たり前に展開する日常の差があまりにも大きくて、俺も田沼もどうすればいいかわからなかったのだろう、そのまま銘々デスクに戻り、椅子に腰かけた。ただ、スリープ状態になったPCを再起動させる気だけは起きなかった。
「どうしたの?」
戸次さんは、俺と田沼の異状を感じたらしかった。席を立って、まず俺の方にやって来た。
この人をはぐらかすのは至難の業だ。俺は覚悟を決めて、何とか客観的に事の次第を説明することにした。
「いや、ちょっと」一呼吸おいて、頭を整理する。「酒の、せいかもしれないですけどね」
言いながら、俺は田沼に目配せした。田沼も俺と同じ考えだったのか、素直に席を立って近くの椅子を引き、腰かけた。
「さっきのZoom、何回か画面が乱れたな、って話してて」
ちらっと田沼を見ると、しきりに細かく首を振っている。俺は軽くうなずいて、続けた。
「まあ、画面がどうなってたかは、よくわかんないですけど。あんま見てなかったんで……」
田沼は、俺を見てしきりに頷いている。
「で、さっきトイレでその話したんです」
これ以上は、どう話してもヤバい感じになるな。そう感じた俺は、少し続けるのをためらった。
田沼は押し黙ったまま、話の穂を継いでくれる様子もない。まあ、無理もない、か。
「オカルト系の話っぽいね?いいよ、聞くよ」
思いもかけない方向から、助け舟が来た。俺は心底、戸次さんの機転に感謝してしまった。
***
「お疲れ様~」
こういう話には全く縁のなさそうな真鍋さんが退勤し、オフィスを出ていく。
「お疲れ様」
それを目で追いながら、俺たちは真鍋さんに挨拶する。
「続けます」
こういう話に、変な前置きは絶対に必要ない。そう思った俺は、一口コーヒーに口をつけてから、あえてぶっきらぼうに中断された話を再開した。
「トイレで、画面乱れたねって、こいつと話してまして」俺は田沼を示した。「そしたら、なんか変な声がしたんですよね」
「何て?」
「いや……何だろ。よく聞き取れなかったっていうか」
「日本語、じゃないみたいでしたよね」ようやく田沼が補足してくれた。
「うん……かな。何語?英語?」
「ナショナル何とか、って」
「うわ、お前それ言う?」
思わず声を上げた。見てしまった画像については神経質だった癖して、それはあまりにも不用意だろう。
俺は首をすくめて、なぜか天井を見上げつつ様子を伺った。
幸か不幸か、特に何も聞こえてくる様子もない。
「……大丈夫、か」
戸次さんは、こちらに緊張を強いないように気遣ってか、ウェハース菓子の個包装にぼんやりと目をやったまま。
「まあ、よくわかんないすけど」俺は一語一語、確かめるように再開した。「変な声が聞こえたんだよ、な」
田沼は再び、黙ってうなずくばかり。
「最初トイレで。そのあと、廊下でもちょっと話したんですけど。画面の話をすると、聞こえるんです」
「そう、だから、ほんとはけっこう見ちゃったんですけど」突然田沼が口を開いた。
「え」俺は驚いて田沼を振り返った。「お前、けっこう見たの」
小刻みにうなずく田沼。
「まじか……俺は一瞬しか見てない。乱れたのも、ほんの一瞬だったから」
「二人とも、違うの見たって感じ?」と戸次さん。「私けっこう最初から最後まで、ずっと見てたけど、何もなかった」
――課長がフライングでビールに口をつけた時、戸次さん真っ先に突っ込んでたっけな。
俺はそんなことを思い出していた。
「ほかの人たちも、特にやばそうな感じ無かったっすよね」と俺。
「うん、だね。あと、一応録画もしてあるんだよ。見る?」と戸次さん。「今日、鴨居さん休みで来れなかったから、録画して見せてあげてって課長に言っといたから」
「あ、はい。お願いします!」
何も映ってなくても、録画なんて見たくもない。気持ちとは裏腹に、俺は戸次さんの提案に思わず乗ってしまった。
田沼は、思いがけず乗り気な俺を見て呆然としている。そりゃそうだろう、俺にもわけがわからない。
「呪いのビデオじゃないけど、見た仲間は多い方が気が楽だもんね」
戸次さんのほうが、俺の内心をよく理解しているようだった。
「……ああ、そうですね、確かに……」
俺はなんだかひと事みたいな返事をして、それから苦笑した。
戸次さんが何回もリマインドをしてくれていたおかげで、すでに課長はZoom録画ファイルを共有フォルダに上げていた。
恐怖よりも、好奇心のほうが強かったのだろう。俺と田沼は息をのんで戸次さんのPCを覗き込んだ。
「……うーん、特に何も」
乾杯前の、課長の軽口。まずはねぎらいの言葉。それから、俺の勤続年数について。それに対する俺の突っ込み。
「ここらへんで、僕の画面は乱れましたね」
おそるおそる、田沼が注釈を加える。が、目の前の画面にも、俺の見た記憶の中でも、この部分で特に異変は起きていない。
乾杯の音頭。それから一通りの談笑を経て、俺からの挨拶の段。ここで立ち上がろうとしたときに、俺の画面が乱れて。
「……何もないなあ」
思わずつぶやく。俺が戸次さんの冗談に応酬して、課内から笑い声が漏れる。そこから、ちょっと長めの俺の挨拶。
「あれ、ちょっと待って」
不意に戸次さんが声を上げた。俺はどきりとして、思わずコーヒーカップを取り落としそうになった。
よりによって、俺の話しているシーンでなんて。助けを求めるように、俺は戸次さんに視線を送った。
「……ノイズかと思ってたけど、これ」
戸次さんがブラウザ上にインジケータを表示させ、ボリュームを上げようとする。
「ちょ、戸次さん。ストップ!」
俺は思わず声を上げた。どう表現すればいいのかわからないが、とにかくそれを聞いてはならない、という強い規制が働いた、としか思えなかった。
傍らで田沼が呆然としている。戸次さんも、急に俺が大声を上げたので驚いている様子だった。
「すいません、ちょっと何かやばい気がして」
「大丈夫と思うよー?」イヤホンをPC本体に接続しつつ、戸次さんが俺を振り向いた。「でもまあ、直観でやばいと思うなら、やめた方がいい」
「……もう帰ります……」
俺はほとんど無意識のうちに、二人にそう告げていた。
突然の俺の告辞に二人とも若干きょとんとしていたが、あまり刺激しない方がいいと判断したのだろう、その日はそこで散会となった。
***
その日を最後に部署異動となったのが、不幸中の幸いかもしれなかった。
次の日から俺は社内の全く別のエリアで、全く違うPCを相手に作業することになった。そのため前日に起きた不可思議な出来事についても、そこまで意識することなく、俺は新たな環境で、とにかく仕事の内容を覚えることだけに集中することができた。
田沼も一見すると臆病だが、今までの行動パターンを見てもわかる通り、比較的ずぼらな性格をしている。直接的に怪奇現象を目の当たりにしない限りは、特に恐怖心にさいなまれることはない様子だった。
「元気?」仕事の空き時間。俺は田沼宛てのチャットフォームに入力した。
「どうもです~」
「どう、最近。落ち着いてる?」
「落ち着いてませんよ。こっち増員なしですよ?日置さんの仕事けっこう負担かも」
「まあ、頑張れ」
「もう、がんばるしかないですよね(笑)」
「でさ。例の、あのZoom画面の件だけど」
「はい」
「あれ以降、大丈夫なの?お前なんか、けっこう見ちゃったって言ってたけど」
「特にないですよ。何も(笑)」
「まじで?!お前けっこう図太いよな、そういうとこ」
「だって、画面の話したら、やばかったじゃないですか。あれからそういう話してないですから。日置さんも異動しちゃったし」
「そういうもんなの?」
「はい」
「おまえお得な性格してるな~」
「別に普通ですよ(笑)あ」
「あ?」
「戸次さんが見せてくれたじゃないですか、Zoom録画。あれ見ないほうがいいっすよ」
「え?やっぱなんか起きてんじゃん!」
「見なきゃいいわけで、もう忘れてましたわ」
「お前、ほんとにお気楽だな~。で、なんで見ない方がいいの」
「戸次さんが聞いた音声って、なんかやっぱり俺たちがあの日聞こえたやつ、みたいなんです」
「うわ……」
「で、たぶんこれ××××××語なんじゃないかって。うちの東南アジア事務所の人に音声だけ送って、聞いてもらったんです」
「東南アジア?うちの現地法人のこと?」
「ああそうです、現地法人」
「まじか…なんて言って送ったんだろう…」
「まあ、そこは戸次さんですから。ネットで拾ったやつだとか、うまくごまかしつつ」
「彼女、やり手だよな……」
「そう。そしたらその事務所の人、いなくなっちゃって」
「は??!」
「正確には、会社やめちゃって。そのあとで行方不明らしいんですけど」
「その人、現地の人?」
「はい。だからウチ的にも、そんなに大ごとにはなってなくて」
「お前……このチャットの冒頭、何て言ってた?」
「?何がです?」
「いやいやいや、特に何もないですよ~って」
「いや、実際俺には何もないし……それよか日置さんの置き土産が多すぎて、死んでますから、こっちは!」
「……なんか色んな意味で、こっち異動してきてよかった……」
そのチャットの内容と、田沼のズボラさがあまりにも怖すぎて、俺はしばらくその出来事を封印した。
まあ、新しい部署のOJTも相当な負荷だったので、意図しなくても忘れ去ってしまったかもしれないのだが。
***
三ケ月が経過したころ、俺は久しぶりに一連の出来事を思い出し、共有フォルダを恐る恐る開けてみると、驚いたことにというか、案の定というか、懇親会のZoom動画だけが跡形もなく削除されていた。
三ケ月間が緩衝期間となったためか、俺の恐怖心もだいぶ薄れた。俺はリモート勤務していたある日、俺は戸次さんにZoomでコールしてみた。
「お久しぶりです、日置です」
「お疲れ様。久しぶりだね」
「まあ、ご存じの通り、忙しいっすから。すいません」
「大丈夫。こっちも死ぬほど忙しいから」
「あの、Zoom動画のことなんですけど」
「ああ、聞かれると思った。あれ消しちゃったよ!」
「みたいっすね。なんかあったんですか?」
「あったよ~。現地法人の人がやめちゃったの、聞いてるでしょ?」
「ええ、田沼から」
「そのあと、もう完全に行方不明になって、もうそろそろ死亡扱いになるみたい」
「なんか、早くないです?」
「国によって期間が違うみたいだけど。それで色々と整理してたら、その人の個人のパソコンに例のファイルがあって」
「ダメじゃんそれ……」
「まあ、懇親会の音声だから、グレーっちゃグレーだけどね」
「あー……まあ、微妙なとこですよね」
「けっこう、その人は歴史に詳しい人みたいで、その音声がどういうものかまで調べてたみたい」
「いきなり核心……」
「私も現地法人経由だから、よくはわからないよ?あくまで伝聞の伝聞だし」
「はい」
「かなり昔、といっても戦後だけど。そこのゲリラ組織みたいな政党の声明文だった」
「もしもし?日置くん?」
「あ、はい」
「ちょっと、大丈夫?」
「大丈夫、ですけど」
「返事してよ~。どうしたかと思うじゃん」
「すいません。でもちょっとけっこう驚いちゃって。あの声思い出しましたし」
「あー、そうよね。私はファイルの音声だったけど、日置くんは生だもんね」
「いや……とはいえ戸次さんも、けっこう聞いてませんでした?」
「聞いた。私、昔からそういうの全然わかんないから。体験できるもんなら、してみたいと思って」
「そういう人に限って、何もないんですよね」
「まあ実際、何もないしねー。ただ物騒だから、あのファイルは消した」
「その方がいいです」
「どこまで話したっけ?確かその音声について、現地法人の人に聞いたの。その声明文って」
「で ん わ を き れ」
「え?ちょ、戸次さん?!」
「それこそ、ザザ十年も前の放送だザザザザザザザザもすごく劣化しててわかザザザザザザザザザザでもそザザザザ時政府が入手していてザザザザ対に公開するはずザザザザのない内容だザザザザザて」
「戸次さん!!」
「我々はザザザザの階級闘ザザザザザじてザザザザアザザザうな手段を使ザザザザザザ本家とザザシストからなザザザザザ国主義を粉砕ザザザザザザタリアーザザザザネシア人民を勝利ザザ革命の道へザザザザザザザ―――――――ー」
***
戸次さんの遺体は、翌日発見された。
警察の発表によると、状況はどう見ても自殺だが損傷具合が激しく、まるで大勢の群集から人頭大の石を数十回叩きつけられたようだったという。
終




