第二十八夜|無題
author:もっ
――ウニが、食べたい
「……うに食べたい」
それは啓示だった。
梅雨時の曇天の下外出するような気にもなれず、タバコを咥えながら月額課金の映画配信サイトで漫然と時間を潰しながら私は、不意に浮かんだその欲求が爆発的に拡がって脳内を埋め尽くしてゆくのを感じていた。
そう、近所にある100円均一回転寿司の店からウニが消えてどれほどの期間が経っただろうか。
炊きたてのご飯にウニを乗せて醤油をかければ他のオカズなど何も要らないと常々思っていたはずの私が、もうどれだけ長い間ウニを食べずに過ごしているのだろう。
(ウニ、食べたい……!)
そんな、力強い心の声が聞こえた。
ここ最近の間ずっと自宅に引きこもるような生活をしていたこともあって、生きる目的を見失ってしまったかの如く心身ともに無気力かつだらけきった状態に陥っていた私だったが、まるで若い頃の情熱が再び胸の内に燃え上がるような錯覚を覚えるほどだ。
……とは言え、今の時間から遠出してまで食うほどでもない。とりあえず、目指すべきは近場のスーパーであろう。
「よし……っ」
吸い殻のようになったタバコを、高いアルコール度数を有し一本でガツンと酔えると評判のチューハイ飲料の空き缶へとねじ込み、立ち上がる。
昨日から替えていない下着を脱ぐと、雨が続くせいで洗えてないままの衣類が溜まる洗濯かごへと投げ込んで、代わりに少しタバコの臭いがついてしまった部屋干しの衣服へと消臭スプレーを惜しみなく使ってからハンガーから下ろす。
やはり部屋干しということもあって乾くまで時間がかかるようで少しばかり湿りを残している気もするが、まあじめっとした肌触りへの違和感も歩いているに慣れるだろう。
下着を来た私はベッドの上に脱ぎっぱなしのジーンズを拾い上げて足を通すと、ベルトを締めつつ玄関の方へと歩いてゆく。朝から顔も洗っていないし髪の毛のクセもついたままだけれど、遠出するわけでもなしにそこまで気にする事でもなかろう。
玄関の壁に設置した小物入れから、近頃お金を注いでいるソーシャルゲームの最推し星5キャラクターのラバーストラップを取り付けられた鍵をつまみ上げ、扉を開く。
「う……っ」
むわぁ、と大量の湿度を含んだ重たい空気が流れ込んでくる。それだけで外出しようという意欲の八割を削られてしまった心地であるが、ウニを食べたいというこの衝動がそう簡単に屈するわけもない。
常にエアコンを除湿モードで起動し続ける室内と、気温はそこまででもないが人が行動するにはあまりにも不快な湿度で行く手を阻む外の世界との落差に苦戦しながらも、私は498円で買った安物のサンダルを履いて一歩を踏み出す。
「うわぁ……」
……覚悟はしていたが、暑い。これでまだ6月というのが信じられない。夏はまだこれからだと言うのに空調の効いた自室の中に引き篭もる生活の中で日のある内に外出するという行為に適応できない体になってしまったのだ。
近所に二店あるスーパーのうち、遠い方へも向かうという選択肢は完全に絶たれた。私は交差点を一度曲がって少し歩けば辿り着く、自宅からの直線距離で200メートル足らずのスーパーへと向かうことにした。
普段であれば学校帰りの学生たちともすれ違う時間であるが、少しばかり人通りは増えたとは言え子どもの姿は少ない。
早上がりのサラリーマンやスーパーから帰宅中の主婦とすれ違いながら交差点を曲がり、遠く見えるスーパーの看板へ向かい私は歩く。そこで、一つの事実に気づいた。
「……っ」
道行く人たちは身につけているのに、私は持っていないもの。
――マスクを忘れた。
自宅に戻ってマスクを取ってくるという選択肢はない。一度クーラーの効いた屋内へ戻ってしまえば再び外出する気力は湧いてこないだろう。
とは言え、スーパーの向かいにある薬局でマスクを買うというのにも抵抗がある。なにせ、いま自室にはマスクを忘れて外出して出先で買ったものの中身を一枚取り出しただけの袋が数個も置いてある有様だ。
そもそも外出自体あまりしないというのにこれ以上マスクを置いていたところで使いきれる気がしない。……というかなぜ自分はこんなにも同じ失敗を犯し続けるのか。リモートワークに加え基本的に食料品は通販で取り寄せるのみでほぼ外出の必要が無い現状、思いつきでパッと外出してしまうとき以外に家から出ないのも原因だろうが、それにしてもマスクをつけるという習慣が私には染み付いていないのだ。
どうしたものか、マスクもせずスーパーで買い物していては近所から非国民扱いされても文句は言えない。焦りながら私はズボンのポケットを弄ることしか出来なかった。
財布に、家の鍵に、くしゃくしゃになったレシートにと、ポケットの中身を確認して行く末に、最後に指を入れた尻ポケットの中に、目当てのものを見つける。
「……ふぅ」
一息つきながら、数日前に外出したときに使ってそのままの、変な折れ目のついてしまったマスクを取り出す。衛生的にどうなのだろうという気もするが、マスクというのは自分を感染から守るというにも他人に移さないための装備である。まあ長い時間外出するわけでもないしこれで十分だろう。
私は足早になってゆくのを感じながらも、例年より寂れた雰囲気の道路を歩き続ける。
そうしてつつがなくスーパーへと辿り着き生鮮コーナーへと足を運んだそのとき、第二の問題が発生する。
「――っ」
絶句するしか無い光景がそこには待っていた。
――そう、ウニが無いのだ。
刺身用の切り身やまるごと一匹の魚が立ち並ぶそこを何度行ったり来たりしても、私の求める食材はない。せめて塩粒ウニくらいはあっても良さそうなものだと言うのに、ここへ来て外出の目的そのものを断たれてしまう。
一体私はなんのためにここに来た。何日ぶりかの外出だと言うのにこの仕打ちはないじゃないか。
額に浮かぶ冷や汗を拭いながら自問自答するが、これはもう私が一人で悩み抜いたところで解決する問題ではない。ほかほかの白米で生うにを食すという目的は断たれても、そのことで悩み続けるくらいなら他の可能性に賭けるしかない。
「……!」
しかし、不意に目に飛び込んできた事実がそれすらも邪魔をする。
――本日の広告の品。サーモントラウトの切り落としブロック、刺身用。40%引き。
瞬間的に私の脳裏に浮かんだのは、タッパーいっぱいの醤油にチューブ生にんにくを空になるまでひねり出し、刺し身に下ろしたサーモンをご飯が炊けるまでの間漬け込むという光景だった。
脂がよく乗り、にんにく醤油の染みたづけサーモン。そんな天啓が、うによりも先に舞い降りていてもおかしくなかった。これはそれほどの破壊力を持った食材だ。
……どうする、妥協すべきか? きっと一週間は記憶に残るような食事になることは想像に難くない。表示価格から40%引きというセールも、ウニという救いを失い路頭に迷う私へ与えられた神託と思えなくもない。
立ち尽くす私の目の前で、買い物客たちはそれを手にとってゆく。夕方のラッシュも合わさり残りの個数は減ってゆく一方で、こうして悩み続けるうちに売り切れてしまう可能性すらある。だが――。
「んー……、違う」
私はボソリとつぶやいて、踵を返す。
断じて違った。昨日の私ならいざ知らず、今日の私が求めているのはウニにほかならない。生食が出来ないなら他の形でも構わないから、私にはウニが必要なのだ。その気持ちを捻じ曲げてまで、サーモンで妥協しようだなんて許されることではない。
……ここは私の戦場ではない。目指すべき場所が、他にあるはずだ。
後ろ髪を引かれるような思いを振り切って、私は生鮮コーナーを後にした。
×××
ぐつぐつと鍋が煮えたぎっている。
鍋の底で湯で時間短めの細麺タイプのパスタがとぐろを巻き、無造作に突っ込まれたパスタソースのレトルトともに茹だっていた。
別に他人に食わせるものでもないし、パスタを茹でながらレトルトの湯煎をすることになんの問題もない。同時に熱湯消毒もしているのだからリスクなど無いのだ。別々の鍋を用意して水を注ぐ面倒ををどうしてする必要がある。
洗濯かごの中から昨日の夜使った後そこに投げ込み、まだ湿ったままのバスタオルを引きずり出す。それを鍋つかみの代わりに鍋の持ち手をつかみ、シンクに置いたプラスチック製のザルへと鍋の中身を注ぎ込んだ。
――ベコン。
シンクの凹む音が響く。これはどういうメカニズムで鳴るのだろうか。聴くたびに疑問を感じるが、食事を終えるまでその疑問を覚えていられた試しがない。
ざるを掴んでぱっぱと湯切りを行い、パスタにまとわりつかれたレトルトを取り出し、プラスチックざるとセットのボウルの中に二人前のパスタを放り込む。
そして湯気の立つレトルトを開封した瞬間に香る濃厚なウニの香りに、私はうっとりと頬をほころばせた。
「すぅー……」
ゆっくりと深呼吸する。
……もうウニなら何でもいい。それが、私の出した答えだった。
ウニのクリームソース。黄色みを帯びたクリーミィな液体をパスタの上に注ぎ、平べったく潰したレトルトを指で挟んで最後の一滴までもをと垂らしてゆく。
冷蔵庫の上に置いた割り箸の袋から一膳のそれを取り出して、ボウルを抱えてパソコンデスクへと向かい歩きながら、麺同士がひっつかない内に掻き混ぜはじめる。
パソコンの画面にはさっきまで見ていた映画が、一時停止を忘れていたせいでもう結構終盤まで辿り着いている。
「あいつ裏切るのか……」
不意のネタバレに顔を顰めながら椅子に座り、映画をだいたい家を出たときくらいの再生時間に合わせる。
今しがた見てしまった光景を頭の中から追い払うよう努力しながら、たっぷりとウニのソースを纏ったパスタを割り箸でつまみ上げ、口へと運んだ。
「……うっま」
終




