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デカメロン同人  作者: 権兵衛(管理人)
54/201

第二十七夜|ワタリガラス

author:権兵衛

船は、どうやらアリフの港に入れない様子であった。

左舷に集まった乗客たちに、船員の一人が身振りを交えて懸命にそう説明している。下船のための荷造りも終え、あとは降りるだけの私には、その報せは少なからぬ衝撃だった。

「軍船が入るらしいので……」

乗客より上官の方が怖いのだろう、船員は断固たる口調でそう続けた。

「では我々はどうするのかね」乗客のうちから、不平の声が漏れる。「このまま沖に停泊なんて、たくさんだぞ」

「最寄りの港への寄港を策定しています」と船員殿。

「それがどこの港か聞いているんだ」ひときわ大柄な紳士が、ひときわ大きな声を張り上げた。

残念ながら、船員殿は上官からそれ以上の情報は仰せつかって来なかった様子である。それ以降は言葉がなかった。


「なんとか言え」「さっさと下ろせ」

乗客たちはその可哀想な船員に苛立ちをぶつけて、留飲を下げようとすることにしたようだった。

私は小さく嘆息した。このまま立っていてもアリフに上陸できる見込みはない。

どうせ、長い出張だ。何の急ぐ必要があるだろう。私は客艙に戻ってもうひと眠りすることにした。


***


客艙への扉に手を伸ばしたところで、私のもとへ二人連れの船員がやってきた。

「ブーンさんでしょうか」

私は笑い出しそうになるのをこらえ、努めて紳士的に返答した。

「ブーンさんもこの船に乗り込んでいるのなら、恐らく人違いです。私はバーンですから」

「あ、バーンさんと読むのですか」

そう言って船員が取り出した名簿には、明確にByrneと記されていた。

「あ、これは私の名です。外国の方にはいささか読みにくい綴りかもしれませんね」

船員たちは互いに顔を見合わせ、相当安堵した様子である。先程同様、この船の士官は余程部下に厳しいのだろう。

名簿を持たない方の船員が、今度は懐ポケットから大事そうに書簡を取り出した。

「バーンさん。こちら、市長からです。緊急にお出ましいただきたい」

「し、市長?」

私は、今度こそ本気で人違いを疑った。


結局、名簿に二人目のバーン氏は載っておらず、私は素直に船員について階段を下りて行くことになった。

明らかに乗客には立入が許されていない細い通路をしばらく降り続けると、船腹に扉らしきものが見える。

まさか、この高さに扉とは。驚く私を尻目に、二人の船員は互いに声を掛け合って、パズルでも解くかのように少しずつそれを押し開いた。


「……」

おおよそ予想はしていたが、改めて目の前に海面が広がるのを見た私は、若干気後れして二、三歩身を引いた。

一方の船員が目覚ましい速度で船腹外側によじ登り、懸けてあった小舟を海面に落とす。他方の船員はこともなげにそれに飛び乗り、櫓を取り、それを使って私に小舟を指し示した。

「お乗りください」

「ええと……」

今までの成り行きからしても、彼らは市長の意図など知らされていないだろう。

私は質問をあきらめ、さっさと小舟に乗り込んだ。


***


「バーンさん、何とお呼びすればいいですか」櫓をさばきながら、明らかに任務中とは思えない口調で船員は言った。

「え、何と?」私は思わず聞き返した。

「バーンというのは、どういう意味なんですか」差し向いに腰かけた船員が助け舟を出す。「ご存じなければ申し訳ない。わが国では意味を知った上でお呼びするのが礼儀でして」

「ほお……」

出張にあたり、この国の習俗を詳らかに調べたわけではない。むしろ突然の辞令を受け、取るものもとりあえず慌ててやってきた身であった。

こうして一つひとつ、異国のならいを実地に覚えて行くものかもしれない。私は答えた。

「バーンは、ワタリガラス。どこの地方にもいる、あの黒い鳥です」

「ワタリガラス」「俗名では何だろう」作業しつつも、船員たちは詮議を始めた。

アリフ港に上陸するころには、すでに私には「八咫(やた)」という現地名がつけられていた。


***


話はすでに通っている様子、役所に到着すると、たちまち市長室へ案内された。

「八咫さんです」

船員たちはそう言い置いて、さっさと市長室を辞してしまった。

私は些か驚いて、慌てて弁解のために市長の方へ向き直った。

「最初は戸惑うでしょうが、そのうち慣れますよ。八咫さん」

市長はすでに納得ずくの様子だった。私の本名を知ろうともせず、椅子を引いて私に勧める。

「私は氈鹿(あお)。ようこそアリフ市へ」

「あの……八咫です。お目にかかれ、光栄です」

私はよほど怪訝な顔をしていたのだろう、氈鹿市長はこらえきれない様子で笑い出した。


「急にお呼び立てして、申し訳ない」

氈鹿市長は卓の上に盃をふたつ置くと、そこへ蒸留酒を注ぎだした。

「しかし、歯車技師の方が来れば、すぐに案内するよう、海運局に通達しておいたのです。どうかご諒解いただきたい」

「とんでもない。お取り計らい、衷心より感謝いたします」

盃に口をつけた私は、驚いた。それは酒精の味しかしなかった。

「貴国にしてみれば、飛んだとばっちりでしょうが」

氈鹿市長は、対岸の君主国との間で貿易上の不和が続き、いよいよ開戦の準備を整えつつあることを、いかにも他人事のように簡潔に説明した。それが故に、恐らくかの客船の乗客たちはしばらくの間、不便を強いられることになるという。

「わがまま勝手で申し訳ないが、そんな中でも我が国には、技師の方がどうしても、どうしても必要でしてな」

三杯も蒸留酒を空けただろうか。すでに氈鹿市長は呂律の回らない口調で、まるで自嘲するように笑い出した。


***


「なんだか、のっけから失礼でごめんなさいね」

ノックもせずに、知らぬ間に市長室に飛び込んできた女性によって、私は救出された。

「お詫びに市長の賓客として、旅館の最上階をお取りしましたから」

「なんだか恐縮ですが」

頭を掻きつつ、私は礼を述べた。

役所の出口へ出ると、外出のために列を作る職員たちよりも、遥かに多くの二頭立て馬車が待機していた。

「いいの。いつもやってることだから」山猫女史は悪戯っぽい笑みを浮かべて、私に馬車を勧めた。「山猫(まや)です。しばらくは八咫さんの……お世話というのも、変よね」

「よろしく、山猫さん」

「あら、呼び捨てにしてほしいわ」後部座席に乗り込みつつ、山猫女史は言った。「他人行儀も、逆に失礼よ」

「私には、さん付けなのに?」

「……言われればそうね。どうしてかしら?」

山猫女史は朗らかに笑った。私も、不意に打ち返された球をどう扱えばいいのかわからず、きょとんとするほかなかった。


結局その謎も、今の今まで解けていない。


***


山猫女史としては、現場に少し顔出しして、私を旅館に送り届けるだけのつもりでいたのだろう。

今になっては申し訳ない限りだが、私は案内された時計台の中で、使い古され、悲痛な音を立てて駆動する歯車を目にするや、完全に職業病を発症してしまった。

すなわち馬車に取って返すと、市長の忠実なる御者が止めるのも聞かず鞄を持って現場に戻り、助手を一人もつけずに出し抜けに修理を開始したのである。


どれだけ頑張っても、当時の客観的な状況を思い出すことはできない。ただ幾度か私の手を休めようと、年配の男が幾人か入れ替わりに私の傍らに蹲踞していたように思う。それも相当な長時間にわたって。

それに対して私はいささかも注意を払わず、時計との不和を解消するために、ただ黙々と手を動かし続けた。

今となってはあの時の年輩の男たちが誰であったか、確認するよすがもない。いや、仮に今なお確認できたとしても、私はそれをしないだろう。

嗅覚は記憶の中でも最も鮮明に残るものだというが、あの日の手作業のひとつひとつに、最高級の麝香の香りが纏いついているのを覚えている。それだけでも、罪悪感が私を責めさいなむには充分なのだ。


「何というか、言葉もありませんわ」

修理を終えた私を伴い、先に馬車に乗り込んだ山猫女史が溜息交じりにそう言ったとき、私は叱責されたものと思い込んだ。

「ご迷惑かけて申し訳ない。あれを見てしまうと、もう歯止めが利かないのです」

気まずさを紛らわそうと、私は閉じたばかりの扉から顔を出し、異国の街並みに目をやった。

御者の声とともに、景色が動き出す。もうすっかり夜は更けていた。


「お昼からなにも上がらずに……このままお返しするわけにはいかないわ」

「いや、本当に申し訳ない」

前方から御者が声を上げて笑った。彼は私たちのボタンのかけちがいに気づいたようだ。

御者と乗客は会話すべからず、という掟はどこの国でも共通である。

私も山猫女史も繁華街の食堂に着くまで、ちぐはぐな会話を続けたのだった。


***


翌日、同じ現場に出向くと、現場の主任と思しき男がすぐに馬車に駆け寄ってきた。

男は河獺(おそ)といった。これから一週間の工程を組んで、何とか再び市民に時を告げられるよう、無理にでも八咫氏に逗留願い、これが直るまでは何があっても、修理してもらうつもりだったのだという。


「それが、昨日の一日で、あっという間に」

河獺主任は、困惑したように言葉を継いだ。言われてみれば、昨日は作業服ではなく、普段使いの乗馬ズボンを履いたままであった。

「いやいや、そんな大した服じゃないですから」

昨日の一件もあり、もはや私は誤解することはなかったが、河獺主任への返答はやはり弁解じみていた。


職人や親方を一通り揃えての大工事を覚悟していたのが、完全に丸々一週間遊んでしまった。

それが、彼らの当惑の原因らしかった。

「でも、心配しないで。彼らには、建設省からちゃんと給与が出るわ。私たちの税金だけど」

移動の馬車の中で、山猫女史はおかしそうに笑った。

「山猫」

「なに?」

私は昨日からの気がかりを、彼女に投げかけた。

「まだ、ああいった時計台は多いのだろうな」

しばらく沈黙。

「――ええ、そうよね」

笑い過ぎたためだろうか、山猫女史は手巾で涙を抑えつつ、大きく息をついた。

「もちろん、たくさんある。では、あなたのために国内出張を手配いたします」


***


思えば山猫女史は、私と現場、さらには施主との橋渡しを円滑に手配するための、大変重要な職務を担ってくれていた。

すなわち、その日私が馬車の中で発した無茶な提案ですらも、山猫女史の尽力によって、夕方までにはすべて手配が完了していたのである。


「とにかく、ついてきて。私を見失わないで」

「わかった」

鉄道駅に到着した私は、彼女に遅れをとるまいと必死にあとをついて行った。

大きな鞄を持った旅行者が人混みを分けて駆けていくのを、みなが好奇の視線で観察する。私はそんな居心地の悪さに当惑しながらも、山猫女史を見失うまいと必死にあとをついて行く。

「これに乗れれば、ひとつ直せる時計も増えるかもしれない」

山猫女史の発破のかけ方も、絶妙だった。

私はそれを聞いて、いよいよ鞄を握る手に力を込め、歩みを進めるのだった。


***


鉄道駅から、乗り合い馬車で半時。そこからさらに、徒歩で半時。

その村の時計台はもはや音もなく、広場の一隅に佇んでいた。


「もう半世紀になるかな」

田鵜(たう)と名乗る村長の息子が、私に付き合って時計台を見上げる。

「あんたたちの国も、しみったれてるよな」止まったままの時計を見上げたまま、田鵜は言った。「一年に出国できる技師の数、決まってるんだって?」

「いや、面目ない」

実際、技師としては田鵜氏や村人には向ける顔がない。私は素直に謝った。

「あんたに言ってもしょうがないけどさ──痛っ」

息を継ごうとした田鵜氏の背中を、年配の大柄な男性がどやしつけた。

「なら、黙っとけ」

それから彼は、不意に私の方を向いて柔和な笑みを浮かべてみせた。

「それのおかげで、貴国との間には戦がない。それも、五百年間の長きにわたってな」


村長の名は山椒(はじかみ)といった。

いつかこの時計台に再び生命を宿すため、遠方から歯車技師がやって来よう。彼は村の子供たちに、まるで伝説でも聞かせるように言い続けてきたのだという。

「技師を待ち望む者どもにとっては、辛い話かもしれんが」山椒村長は再び顔を時計に向ける。「しかし平和と繁栄のための貴国の政策としては、実に見事だ」

「……」

見習工のころから、耳にたこができるほど親方から聞かされた台詞でもある。


──理屈では良く理解できても、時計の気持ちを思うと、決して許容できない考え方です。


何回、これを言葉に出そうと思っただろう。

私はいつものようにそれを何とか腹まで飲み下すと、言葉もなく村長とともに時計台を見上げた。


***


一日ののち。

「こんなに、早く動き出すなんて」

つい先日、アリフの港で河獺から聞いたばかりの台詞を、それと知らずに田鵜が感慨深げに吐き出した。先ほどとは打って変わって、何やら意気消沈の体であった。

「そうですね。歯車自体に、大きな瑕疵がなかったのが幸いで──」

私は、村人総出で用意してくれた盛大な料理におそるおそる手を伸ばしつつ、ふと田鵜氏のほうを向いた。

「田鵜さん?」

田鵜氏は私の呼び掛けに気づいたものやら、思い詰めたように目を閉じ、何やら思案している様子だった。


やがて田鵜氏は項垂れたまま、視線だけを前方に向け、言った。

「どうだろう八咫さん、俺にその技術を──」

「田鵜」

言下に田鵜の発議を制したのは、彼の父親だった。

「お前、よう考えてからモノを言えよ。一介の村人ならいざ知らず──」

「だって」父の前では、田鵜も普段の権勢はなりを潜めるようであった。「父さんも言ってたじゃないか。あの技術さえあれば、いつだって村には」

あわや、すんでのところで叫びだすのは私の方であった。

それを心ならずも防いでくれたのは、村長たる山椒の大音声。

「田鵜!!」

田鵜は身をすくめ、恐らくは幼い頃と同じように、上目遣いで父を見上げた。

給仕をしていた村人たちの手が止まり、祝宴の空気は立ちどころに凍りついた。

「……」

山椒村長とても、自らの声に驚いた様子でその場に呆然と立ち尽くしている。

部外者たる私には尚のこと、かけるべき言葉など見つからない。


「──滅多なこと、言うものではないよ」

暫しののち、山椒村長はこちらが心配になるほど穏やかな口調で言った。

「──はい」

同じように、田鵜はおとなしく返答した。


何度、同じような場面に出くわしたろう。

私はいたたまれぬ気持ちで、村人に出された茶をすすり続けた。


***


決して、技術を覚えたりはしないから、ただの雑用として、ぜひお供に。


次の村への乗り合い馬車を待つ間。

白藤(しろ)黒兎(くろ)という若者は、何を問われても、田鵜から言付かったというその言葉を繰り返すだけだった。

「──どうしよう」

普段の辣腕も、こと例の政策に関するとなると自信を失うらしく、山猫女史も乞うような視線を私に送ってくる。

当然、秘密担保のための法制に抵触するため、特別に許可を得た者以外の出張随伴には、絶対に応じられない──四角四面に応ずるとしたら、それだけだ。

しかし、どうしても私の口からは、その言葉が出てこなかった。仕舞いには、目当ての乗合馬車がやって来たにもかかわらず、私は一歩も動くことができず、ただこの突拍子もない申し出を前に立ち尽くした。


***


それから帰国まで、実に三か月半。

アリフ港の大時計台と、首都の名だたる施設に設置されたいくつかの時計の保全作業、そしてその施設の長たる人物との、形ばかりの懇親会。当初、出張はそれだけ……そう、一と月もあれば終了する予定だった。


しかし、当地で見聞きした数多の出来事、当地の人々との無数のやりとりは、結果として私の行程を大きく変えてしまった。

紙面が残り少ないため、残念ながら簡潔に記すにとどめるが、山猫女史はその後、とある村で体調を崩してしまい、窮余の策として、私はその村の若者二人――白藤と黒兎という名だったと記憶しているが――に随伴願うことにした。

それから我々三人は各地の村々を訪れ、そこに建てられたきり、再び時を刻むことをやめてしまった時計の補修に尽力したのである。それは三か月半、すなわち滞留届の期限が切れるまで続いた。


***


予定していた首都への訪問が反古になったことは、有能な山猫女史がうまくとりなしてくれたようだった。

とはいえ、祖国からの通達を受け、長すぎる出張についてお叱りを受けるための緊急帰国の体である。私は山猫女史と河獺主任にのみ同道願い、久方ぶりにアリフ港の客船埠頭へと帰り着いた。

「氈鹿市長には、よろしく伝えてください」

「お元気で、八咫さん」

饒舌だった山猫女史も、このときばかりは言葉少なであった。河獺主任はといえば、先刻より一言もなく押し黙ったまま。


この時点で、私は旅館の作業机の上にノートを忘れてきてしまったのを思い出していた。

大した記録ではないが、私の作業を何か月も傍らで見てきた者にとっては、もしかしたら何らかの頼りになるかもしれない──それくらいの、取るに足らない書きつけだ。


有能なる山猫女史には、そんな取るに足らないノートをどのように扱うべきか、おのずと明らかだったのではないだろうか?


しかし今や、ことの次第を確認する術は、私たちには残されていない。

あの日、入国するときにアリフの軍港で嗅いだ硝煙の匂い。

まさかあれが、私の出国を境にあれほど猖獗を極めようとは、思ってもいなかったのだから。


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