第二十五夜|後戸の神
author:権兵衛
おん ちらちらや そわか
おん ちらちらや そわか
一通り外法の所作を繰り返してから、京兆尹・細川政元は胎内に摩多羅神を観照した。めっきり猜疑心に囚われた将軍・義忠に、あるいは彼の放った隠密に気取られぬよう、締め切った庫裡のうちに護摩を焚くから、立ち込める煤と温気に頭がくらくらする。何千回誦じたであろうか、飯縄権現の真言は果たして自分が唱えるやら、はたまた太郎坊天狗が下り来たって耳元で囁くやら、およそ判じがつかなくなってきた。摩多羅神を勧請するのは初めてのことである。生立ちから飯縄権現には因縁があり、幼い頃より勝軍地蔵や荼枳尼天の秘法を修したため政元にとってはこれらの神仏に馴染みが深い。幾度かこの二柱の神仏を勧請した例はあり、荼枳尼天に至っては管狐を式神として藉り受けて、諸敵を除いたことすらある。大本を辿ればこれらの神格はどれも大日如来の垂迹とはいえ、しかし後戸の神と異名される摩多羅神については、その権能があまりにも秘匿されすぎていたため、それが故に実利的な効力を求める際には必要とされず、ついに今日まで機会は訪れなかった。
勧請のための真言すら口伝の中に明らかでないことも、その秘匿のほどがうかがい知れよう。今しがた唱えた真言は、あくまでも飯縄権現全体の神威を観ずるものである。具体的に誰某をと勧請するものではない。政元は己の権勢を再び手中に取り戻さんがため、ただひたすら心の裡に摩多羅神――幞頭狩衣、およそちぐはぐな装束に身を包み、その表情は見るものを侮蔑するかのごとき嘲笑を浮かべるこの特異な神格――を観照し続けた。
「おつかれー」
吐き切った息を継ごうと眦をあげた瞬間、護摩壇のむこうにヒップホップ系のストリートファッションに身を包んだ二十代前半くらいの若者が立っていた。トップスはモンクレールのフーディ・パーカー。あえて大人し目な黒地のスウェット生地には、ホワイト&ゴールドで立体感を出したロゴが「GENIUS」とデカデカとプリントされている。アイロンによる圧着タイプのロゴは、ラフな着方で剥げてきたくらいが逆にカジュアルさを感じさせ、好印象だ。ただしメタリックなパーツも多めで、ダンサブルなシーンにはあまり向いていないかも。逆に今日みたいなインドアなシチュエーション、あるいはクラブやパーティには打ってつけだ。そしてボトムス。あえて主張しないスキニーのシャカパンでキメてみよう。色はダークブルー。まあロゴを目立たせたいなら、パンツの色味を押さえてみるセンスも重要だ。
京兆尹・政元は戸惑った。先程来、身の破滅すら覚悟をしつつ命懸けで勧請した摩多羅神は、己の意識が正しければ幞頭狩衣の出で立ちをした異形神のはず。いま己が目の当たりにしている男の姿は、確かに異形と言えば異形と言い得るものだが、これは……。
「あ、悪い。ちょっと時間なくてさ。合わせてこようと思ったんだけどね。服」
若者は言いいながらパーカの裾を手に取り、政元に見せた。
「でもさ~見て見て見てこれ。すげーいいっしょこのロゴ。かっちょよくない?これ前から欲しくてさー。モンクレール。知ってる?あ知らない?まじかー。けっこう有名なブランドなのよ?まあ俺も最近知ったんだけどさ。なんかこないだラーメン屋で羽根つきギョーザ食べてたらさ、後ろのテーブル席に座ってるちょっとイカつい系のトラックの運ちゃん?みたいな人がいてさー、その人がコレ着てたわけよ。んで俺それ、チラッと見たときにもう衝撃走っちゃってさ、図々しいかなって思いつつも、テーブル席まで行って、聞いちゃったのよ。すいません、そのパーカすげーかっこいいっすねー、なんていうブランドなんですかーって。そしたらその人けっこういい人っぽくてさー。モンクレール、ていうブランド名と、正規のショップ以外にも探せばけっこうリーズナブルなセカンドの店もあるよーっつって、そんで安く買えるショップと、仲のいい店員さんの名前まで教えてもらっちゃったのよ。んで翌日そのショップに行ったらば、ちょうどその店員さんいたの!なんかちょっとミラクルっぽくない?でお話してたらけっこう盛り上がっちゃって、いろいろ合わせてもらったりしたんだけど、でもやっぱり最終的には、ラーメン屋で見たあのパーカに落ち着いちゃったんだよね。やっぱ第一印象って大事だよなーって認識を新たにしたわ俺。まあそれにしてもさ、もともとのブランドがけっこうハイエンドなだけあって、セカンドで買ったとしても決してお安い買い物じゃなかったわけさ。そうなんさ。んだから、そのあとしばらく地味生活よ。ははは。飲み会とかゲーセンとかさ~俺けっこうふつーに行っちゃう人なのね。誘われさえしたら。でもさそこはホラ、やっぱ生活とのバランスがあるわけじゃん?グッッとこらえて、なるべく行かないようにして。いや~ツラかったわ、しばらくの間。んでも、最近よう~やくフトコロにも余裕が戻って来た感じ?いやーそれにしても感動だわー。なんかそのショップの店員さんもけっこういい人っぽくて、またなんかお客さんに合いそうな服、入荷したらメールしますよ、て。いやーいい店見つけちゃったかも。まあ、ちょっと高いのは気になるんだけどね。まあそうは言っても、服って重要じゃん?カタチから入るタイプだし俺、どっちかっつーとね。これさ、家から駅くらいまではちょっと恥ずかしい感じだけど、まあ街に出ちゃえばこっちのもんって感じだよね」
「お、御身は……」
恐らくは、若者は政元に向かって話しかけているように見受けられた。しかしながら、その内容は梵語に似て梵語にあらず、本朝の言葉にしては……ほとんど何を言っているのか政元には理解できかねた。ただ、何となくイラッとはした。
「俺?俺はジーニアス。よろしく~」
若者は再びパーカのロゴを政元に見せた。アルファベットの。
「ま、摩多羅神ではないのか」
「あ~それな。確かに。それが正式名称なんだけどね。うん」
若者は摩多羅神であることを否定しなかった。それは政元にとって、勧請に成功した喜びよりも、先行きへの不安をもたらした。
「でもなんかその名前しっくり来なくてさ~、一時期はうまいことB系コーディネートと合わせようとしたのよ?mAtArAとか、大文字の場所変えたらスタイリッシュかなって」
よもや、この若者は摩多羅神の使い魔で、油断した隙に取り憑かれ、臓腑を食い荒らされるのではないだろうか。政元はそんな状況すら思って恐怖した。今の処、相手からはそういった殺気は感じないが、用心に越したことはあるまい。じりじり、と、板間の方にあとずさりした。
「そもそもマタラっていう響き自体、しっくりこないんだよね~。マダラだったら、まだなんかキャッチーな気もするんだけど。ほらよく、ネーミングのコツとしては濁音入れるといいって言うじゃん?おじさん、聞いたことない?」
「し、しばし」政元は苦し紛れに片手を挙げて相手の言葉を制した。「借問いたす。御身は摩多羅神にて、相違ないか」
「え~?まあそうだけど~~。俺的にはそこは今後変えていきたいわけよ。そこで。Genius Hoodieなんてかっこよくね?名前。愛称はフーディ。そのためにモンクレールでパーカまで買っちゃったわけだし。ほら、ご丁寧にGENIUSってロゴまでついてんの」
「ひょ、表白いたす……!おんちらちらやそわか、おんちらちらやそわか」
政元はあわや、崩れそうになる膝を懸命に立て直し、印を結び、声にならぬ声で真言を喉から絞り出した。
「……え~、なになに?もしかして俺、急用で呼ばれたりした?」
「……」
願意がようやく通じたと認めるや、政元はしばし自失したように膝を折り、護摩に燃え上がる火焔に目を奪われていた。
***
「過去に戻りたい?」
ようよう身を起こした政元に向かって、事もなげに摩多羅神は問い返した。
「左様。しかるに、過去生まで遡ろうとは申さぬ。我が管領としての権勢を取り戻さんがため、ほんの去年、壬戌八月まで」
「いいよー」
摩多羅神はどこから取り出したのかAlleyの黒糖タピオカラテを飲んでいる。己亥、すなわち二〇一九年の一番人気商品だ。
「ま、まことか!!」
「ただし、あとから『やっぱ無理~、元に戻して』とかはナシにしてよ面倒いから。まあ、この注釈自体タイムスリップモノには耳タコかもしんないけどさ」
言い終わるやいなや摩多羅神は瞬く間に弓手に茗荷の枝を顕現させ、艮の方角へひと振りした。途端に政元は天地の感覚を失い、土間へと転び落ち……と思いきや、もはやそこには地面はなく、広大無辺の虚空が広がるばかり。
「うわ……と。しばし」
文字通り、しばし政元は虚空を掻いた。
***
「……」
いまだ均衡の戻らぬ視界を凝らし、政元は庫裡に貼られた暦を読み取った。壬戌八月。あなや、摩多羅神の法力はまやかし物ではなかったと見える。
「これでOK?んじゃ、俺もう行くから」
言うが早いか、摩多羅神はたちまち馬手に笹の枝を顕現させ、坤の方角に──。
「あいや、待たれよ」
息をもつかせぬ展開にさしもの政元、枯れきった声を無理にも絞り出し、相手の前に片手を示すことで精一杯。
「ん?まだ何か?」
「そ、その。某の言葉足らずであれば甚だ面目ないのじゃが」麻のごとく乱れた頭髪を何とか束ね整えつつ、政元は面前の異神に向かって、先程来の疑念を投げ掛けた。
すなわち、貴方に御目文字が叶い、さばかりか貴方の法力によって見事願意も叶うた。これは佳い。重畳じゃ。しかし乍ら、某の表白せる願意は詳らかには然にあらず、我が本意はと問わば、貴方の法力をもって去年、壬戌八月に立ち戻らんもほんの束の間。仇敵をこの手に仕留めたる後は、晴れて元の癸亥四月に立ち戻らんとの発願なりき。
そこまで言葉を絞り出すと政元、いよいよ精も根も尽きた様子で、ついに土間の中央に尻をついてへたり込んだ。
「あ、そういうアレ?」
朦朧とする政元の頭上から、あくまでも飄逸な摩多羅神の声音が降って来る。
「過去改変して現在に戻るパターンは、けっこう面倒いのよね~正直。整理というか、その、辻褄あわせ、ていうの?」
「……」
疲労は極みに達し、ともすると途切れ勝ちになる聴覚に鞭うち、政元は必死に耳を傾けた。
「いや~、ちゃんと聞かなかった俺も悪りーんだけどさ。けっこう多いのよ、おじさんみたく、軽いノリで自分だけタイムテーブル巻き戻して、昔の自分に会えると思ってる人」
摩多羅神はすでに黒糖ラテを飲み終え、今はアールグレイラテ(期間限定)にストローを挿している。
「それって、まじでエネルギー使うのよ?そこから、さらに自分の親とか、まして自分なんかを殺っちゃった日にはね~。まさかSFみたく、その瞬間自分も消滅、みたいにはなんないけどさ、さっすがに」
「え……えす、えふ……?」
「あ、ごめ。こっちの話ね。ともかく、単体での転移は大変なわけさ。てっきりおじさん、昔のあのステキな体験をもう一度、的な。そーいう青春カムバック的なアレで発願したのかと思っちゃってたからさ」
「……」
青春、というのは、若き砌の、あの言い尽くせぬ時々の姿のことを、言うのだろうか。政元は摩多羅神の不可解極まる口説のはしばしに何とか意味を繋ぎ止めては、相手の意図を汲もうと腐心した。
「んだからさ。悪いことは言わないから。過去はただぼーっと懐かしむか、タイムスリップするにしても、追体験を楽しむくらいにとどめといた方がいいよーって話。それにぶっちゃけ、百歩ゆずって単体でスリップしたところで、結局もとに戻っても、なーんにも変わってないから」
「!?」
身体のどこにそんな力が余っていたのか。自分でも驚くほどに勢い込んで、政元は目の前の人物を見上げた。
「あ、知らない?アボリジニのドリーム・タイムの話。……まぁこの時代じゃムリないかー。つまり、デザインしてんのは俺なわけ。素材であるおじさんがいくら法力で干渉しようとしたところで、それもまた俺の見る夢」
「……夢」
摩多羅神の、最後の言葉を反復する。
気づけば政元の眼前には、もはや誰の姿も遺されてはいなかった。
***
さは言え、首尾よく過去に立ち返った以上は、当初に発願した通りに行動しようとするのが人の性。予ての謀りどおり、政元は根城たる京兆家内に麾下の隠密を集め、その裡から手兵を金龍寺に遣わし、首尾よく怨敵たる主君・足利義忠を弑殺し畢せた。
しかし、である。それによって義澄の覚えめでたく、政元は再び幕府管領に返り咲いたと思いきや、何の巡り合わせか一年後の癸亥四月には、義忠にかわって今度は義澄が政元を疎んじ、放逐してしまった。
「何の、巡り合わせか」
ふらふらと京兆家の庭先に歩を進める政元、おのずからその答えは判っている、霞んでゆく記憶の中からかろうじてあの夜の摩多羅神の、どっちかというとインドア向けなコーディネートを思い起こしては、悲嘆の涙に暮れるのだった。
終




