第二十四夜|凛凛
author:鴨ノ羽 葵
夜、薄く積もった雪を踏みしめていると、名前を呼ばれた気がする。
ミウラさんの家までは、一時間ほどかかる。電車を二回乗りかえて、駅の外へ出てみると、雪が降りはじめていた。冷たい指先に鼻をつままれたようで、わたしはくしゃみをした。ミニトートから折りたたみ傘を出して、歩きだす。冬は指先まで神経がぴんと張りつめて、心地いい。ぐるぐる巻きにしたマフラーのしたで、頸椎がうずく。
わたしは、「凛凛」と名づけられた。何十年に一度かの大寒波が襲った日に生まれたからだ。ミウラさんは、萩原朔太郎の「竹」という詩のことを教えてくれた。一節に「りんりん」という言葉が出てくるのだというところ以外は聞きながした。
書くのもめんどうだし、「凛」は一度でよかったのに。文句を言うと、わかってないなあ、繰りかえすからいいんだよ、とミウラさんは答えた。そのくせ、わたしのことは「凛凛」ではなく「一号」と呼ぶ。
歩きはじめてきっかり十五分後、わたしの眼はミウラさんの家を捉える。青いはずの屋根も、いまは雪に覆われて白い。草木のない前庭を抜けて、呼び鈴を押す。ほどなくして、低い声が答えた。
「凛凛です」
「五号かい」
ご、という音だけが割れて聞こえる。
「一号です」
「あれ、そうか」ミウラさんは虚を突かれたように言った。「まあ、おはいんなさい」
鍵の回る音が聞こえた。わたしはドアノブを掴み、家に足を踏みいれる。乾いた三和土を踏むと、踵のスパイクが硬い音を立てた。
「もう来るとは」
靴紐を解いていると、暗い廊下の向こうで、ミウラさんのつぶやく声が聞こえる。突きあたりにある扉のすりガラスに、人影がちらついた。
「わたしのせいじゃないですよ」
靴紐を解きながら声を張ると、人影がぴたりと動きを止めて、なめらかに扉がひらく。
「相かわらずの、地獄耳だ」
そう言って、ミウラさんは半身を覗かせた。顔は逆光でよく見えない。鎖につないだ眼鏡が胸元にぶらさがり、服とこすれて音を立てた。
「それも、わたしのせいじゃないです」
右手に置かれたスリッパ立てから一足を取り、爪先を嵌める。突きあたりの扉を抜ければ、暖かな色に満ちた居間だ。すぐ左手の台所に、ミウラさんはいた。コンロに薬缶がかけてある。薬缶を視界の中央に入れて、温度を測った。まだ温めはじめたばかりのようだ。
「元気そうだな」
ミウラさんは微笑んだ。眼尻に優しいしわが寄る。
「いつも元気ですよ。元気をなくしたことに気づかないから」
マフラーを解き、椅子の背にかけた。つい、うなじに手が伸びる。
「気になるなら、さきに見よう」
ミウラさんは表情を変えずに言った。わたしはコートを脱いで、どかりと椅子に腰かける。くたびれた人が椅子に座るときの真似だ。こういうときは、くたびれるべきなのだろう。
「また、不思議な動きを覚えたね」
作業用のエプロンをつけながら言った。ミウラさんは、必ず、わたしの真似を真似と見ぬく。足音が台所の戸棚のまえまで遠ざかり、金属の触れあう音と一緒に戻ってきた。よいしょ、というかけ声とともに、ひと抱えもある木製の道具箱が食卓に置かれる。
ミウラさんが道具箱のふたを開けた。左半分には、銀いろにきらめくステンレスの粒がどっさり入っている。右半分では、使いかたのわからない道具がひしめく。ドライバーらしきもの、小さなハンマーのようなもの、なかみのわからない薬瓶。
何がはじまるかわかっているので、わたしは髪を左右に分けて、肩のまえに流した。ミウラさんがうしろに立つ。冷たい指先が、残った髪を静かによける。うなじを、とんとんと軽く叩いた。
「どうですか」
「つつかれているのは、わかります」
右うしろから、ミウラさんの手がすっと伸びて、道具箱のなかみを探る。長い針のような道具をつまんだ。ごつごつした指は、わたしが作られたころにくらべ、眼に見えて年老いている。
「じゃあ、ひらいてみるかな」
まもなく、ちりちりという音がうなじから聞こえてきた。
「これはずいぶん、使ったねえ」
わたしのふたを開けて、ミウラさんは感嘆したように言う。軽い音を立て、うなじから外したものが食卓に置かれた。白くて薄い、わたしのふたである。
「第二と第三が傷んでいるね。交換だ」
ミウラさんが針を道具箱に戻し、今度は左手を伸ばして、ステンレスの粒を無秩序に探った。わたしのうなじには、七つの部品が埋めこまれている。傷んでくると、互いの部品が擦れて鈍い音を立てるのだが、このごろは、部品の劣化速度が早い。ミウラさんが、もう来るとは、と言うのも、うなずけるのだ。
「あったあった」
ミウラさんは、一気にふたつの粒を掴みだした。ミウラさんの指は、部品を正確に見わける。
「そろそろ、お湯が沸きますよ」
わたしの耳は、薬缶の底から泡がのぼりはじめる気配を感じていた。
「そうかい。見てくるよ」
ミウラさんは食卓に部品を転がし、台所にさがった。部品を眺めながら、うなじに触れてみる。人差指でつつくと、髪の生え際のあたりから、冷たい金属が連なっていた。二番めと三番めの金属に小さなひび割れを見つけて、手を離す。
「これこれ、触らない」
台所から、ミウラさんの声が飛んできた。
「もう触ってません」
「口の減らない子だ、まったく」
戻ってきたミウラさんは、マグカップをふたつ携えている。ホットココアだ。わたしのまえに、緑いろのカップを置く。会釈で応えた。
「では、つづきに取りかかろう」
道具箱からドライバーのようなものを取りだし、ミウラさんがうしろに立った。
「わたしは、なんのために、ここにいるんですか」
「直されるためだよ」
部品がひとつ、外される。わたしの視界はあっという間に色を失い、風景は白黒の濃淡になった。ホットココアがイカスミにみえる。鈍く光る部品だけが、同じ姿で食卓にあった。
「そうじゃなく、もっとひろい意味で、です。わたしは、どうしてここにいるんですか」
ミウラさんは黙っている。右腕が伸びてきて、外した部品を転がした。先ほど触ったときには気づかなかったが、ひび割れ以外にも、細かな傷がいくつも走っている。
「わたしはどうして、つくられたんでしょうか。理由があるんですか」
かちりと小気味いい音がして、わたしの視界は色を取りもどした。
「さあ、私にもわからないねえ。そういうものだと思っていたから」
ミウラさんは、ひょうひょうと答える。
今度は、またべつの部品が外された。音が遠くなる。主機能はもっとも劣化が早い。ここを訪れるときには、必ず交換することになる。食卓に転がった部品は、真黒になっていた。はじめはつやつやした銀いろの粒なのに、ひどいありさまだ。
「さあ、できたよ」
声をかけられて、わたしは息をついた。ミウラさんは古い部品をエプロンのポケットにすべりこませ、道具箱のふたを閉じる。ミウラさんが道具箱を片づけるあいだに、うなじをひと撫でした。
ココアの入ったマグカップに手を伸ばして、香りをかぐ。ひとくち含むと、甘みがべったりとひろがった。
「ほかの子たちは元気ですか」
わたし以外にも、凛凛と名づけられたものたちがいる。名前の由来と萩原朔太郎の「竹」の話は、彼女たちと一緒に聴いたのだ。わたしたちはすぐに別れ別れになって、それきり会っていない。
「二号と五号はときどき来るけど、三号と四号は、別れたきり会ってないよ」
ミウラさんが向かい側に腰をおろし、ココアをすすった。それぞれの呼び名を聴いても、彼女たちの姿や雰囲気を想像することはできない。最後に会ったとき、わたしたちは鏡に映したように同じ姿だったし、凛凛と書くのがめんどうだというのも、全員が思ったことだったのだ。
「まだ来ませんか、そのふたり」
わたしが答えると、ミウラさんは困ったように笑う。どこへ行ってしまったのだろう。そんなに長いこと、修理をせずにいられるものだろうか。
「そういえば、わたしが来たとき、五号かって訊きましたけど、なんかあったんですか」
ミウラさんは眉尻をさげた。
「忘れものをしたから」
忘れもの、と繰りかえすと、ミウラさんがうなずく。
「一号に、渡してしまおうかな」
椅子に座ったまま、食卓の隅から一冊の文庫本を手に取り、読めるようにして、わたしのまえに置いた。表紙には「萩原朔太郎詩集」とある。あ、と声が出た。「竹」を書いた人だ。
「五号がほしいというから渡したんだが、持ってかえるのを忘れたんだよ」
ココアを飲んで満足したんだろうな。ミウラさんは苦笑まじりに言った。
「でも、取りにもどるかもしれませんよ」
わたしは本をひらくことなく、ミウラさんのほうに押しもどした。
「もう二年は経っているからな。つぎは、すっかり忘れて修理に来るだろう」
半ば押しつけられるようにして、文庫本を持ちかえることになった。ミウラさんにとっては、一号でも五号でも、凛凛であることに変わりはないのかもしれない。呼び名では区別するのに、へんだ。
雪はまだ、やんでいなかった。折りたたみ傘を差し、駅までの道をゆっくりと歩く。うつむいて、雪の音を聞いた。
「凛凛」
はたと立ちどまる。はっきりと、名前を呼ぶ声がした。顔をあげると、わたしと同じ背格好のものが、街灯に照らされて浮かびあがっている。
「凛凛でしょう」
ふたたび、相手が言った。
「凛凛なの」
訊ねかえすと、小走りに近づいてきた。傘も差さず、半袖のシャツにショートパンツ、サンダルという出で立ちだ。髪は短く、ヘアピンで前髪を留めている。
「やっぱり。一号? それとも二号かな」
「わたしは一号。じゃあ、あなたは、五号?」
五号は「そう」と短く答えたあとで、小さく首を傾げた。
「偶然だね」
言われてはじめて、わたしたちは、どうして偶然以外では顔を合わせようとしないのだろう、と不思議に思った。
「ミウラさんのところへ行くの?」
「直してもらいにね。けっこう久しぶり」
雪まじりの風が、五号の短い髪を乱した。
「寒くないの」
「温度計が壊れて、何も感じないんだ。せっかくだから薄着で来た」
直してもらったら、帰り道で凍えてしまうだろうに。わたしはマフラーを解き、彼女の首にかける。わたしと寸分たがわぬ外周の首に。
「ミウラさんから預かってるものがあるの。渡すね」
ミニトートから文庫本を取りだして差しだす。受けとりはしたものの、ピンと来ていないようだ。本に雪が落ちて、小さなしみをつくった。
「まえに来たときに、あなたが忘れていったもの。なぜか、わたしが渡されたんだけど」
五号は表紙をしげしげと眺め、指先で撫でている。
「そんなことも、あったかもしれない」
片手でマフラーを押さえて、彼女は顔をあげた。
「凛凛は、もう読んだの」
わたしが首を横に振ると、五号は「だめじゃん」と言った。
「なにがだめ?」
雪が降っているのも構わず、本を丸出しにしている五号のほうが、よっぽどだめだと思った。わたしは彼女に身体を寄せて、傘に入れる。
「読んでない本を、やすやすとあげちゃだめだよ」
五号は言い、ページをめくった。目次を見ているらしい。
「こんな暗いところじゃ読めないでしょう」
「忘れたの? あたしの主機能は眼だよ」
忘れたも何も、すぐに別れたのだから知るはずもない。そもそも、誰が二号で誰が五号か、見分けさえつかなかったのだ。
「あ、竹だ。竹がある」
五号は迷いなくページを繰る。ミウラさんが聞かせてくれた話を覚えているらしい。ひらいたところに指を挟んで、文庫本を閉じた。
「行こう。あっちの街灯まで」
五号のうしろをついて歩く。わたしは、さして「竹」を読みたいとは思わなかった。五号と話す機会は二度とないかもしれないと考えて、もう少しつきあうことにしたのだ。額を突きあわせて、文庫本を覗く。五号の指先が文字をなぞるので、つられて同じ速度で読んでしまう。
「すべての罪ってなんだろう」
三連めを追いながら、わたしはつぶやいた。五号は、さあ、と首を傾げる。最後の行まで文字をなぞり、あっけなく本を閉じた。
「あたし、やっぱり、これいらないや」
文庫本をわたしの胸元に押しつけて、マフラーを解きはじめる。止めようとすると、五号は首を横に振った。解きおえて、わたしの首に巻きつける。
「服はミウラにもらうから」
そんじゃね、と言いのこし、五号は傘から飛びだした。薄着の背中がどんどん遠くなる。わたし以外の凛凛たちと別れたとき、ひときわ早足で去っていくものがあった。あれは、五号だったのかもしれない。
「凛凛」
五号の背中に向かって呼びかけた。彼女は片足を軸にし、くるりと振りむく。
「わたしたち、どうして、つくられたんだと思う?」
「さあ」
五号はすかさず答えたが、肩が動くほど深く息を吸った。
「わかったら、教える」
とっさに耳をふさぐ。彼女の声は、頭が割れそうなほどおおきかった。せっかく直した主機能の部品が、さっそく劣化したかもしれない。五号は、振りむいたときと同じ動きで踵を返した。
わたしも、帰らなくては。
凍れる節々りんりんと。口のなかで転がしながら、雪を踏みしめる。




