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デカメロン同人  作者: 権兵衛(管理人)
42/201

第二十一夜|A Day In The Life

author:権兵衛

朝のヘイマーケットの停留所は、人とトラムでごった返している。人々は一様に東を目指し、目当ての車両が次こそは来ないものかと、ほぼ全員が身体の均衡を犠牲にしつつ西の方角をより明晰に見晴らそうと、左右にふらつきながら伸びあがる。その様子をリクガメの生態をよく知るものが見たとしたら、立ちどころにその日向ぼっこ(バスキング)という行為を連想しただろう。


ビルは、彼がまだ少年だった時期からもうずっと長い間、ゴーギー街に居住していた。そのため彼はニューヘイブン街の勤務先へ出向くために、このヘイマーケットの停留所で平和的な車両に別れを告げ、リースかトリニティ行きの乗客でごった返す過酷な車両に乗り換えることを強いられていた。

隣に立つ紳士と同じように、ビルは鳥打帽の鍔を指でつまみ上げ、リクガメほどに首は伸ばさないにしても、何度もダルリー街――ビル自身がトラムでやって来た方向――にちらちら目をやりつつも、早くセントラル行きの車両が来ないものかと、時折ヘイマーケット・テラスの方角にも目をくれるのだった。十回に一回は、こちらの方からもセントラル行きが来るためである。


そのヘイマーケット・テラス方面からやって来るトラムの座席に、ジョンは座っていた。グラスゴー・ウォリアーズとの親善試合が終わってすでに10時間以上も経つというのに、ジョンは左隣に座る学生から、ジャケットの色がマニンガムのチームカラーによく似ているという理由で難癖をつけられた。とはいえ、いま読者諸兄が注目すべきは、事案の被疑者であったはずのこの学生氏の不運である。喧嘩を吹っ掛けた相手がかつてのスコットランド・ユニオンの名フッカーであり、一部のフーリガンのために一般的な市民が心置きなく応援することが困難となっていることを理由に、コミッションの強い慰留さえ排して業界からの完全なる脱退を宣告した経緯を持つことなど、ジョンに殴られるまで彼には推し量るよすがすらなかったのだから。


***


「タバコの火、気を付けて。混雑しています。奥へ詰めて」車掌が紋切り型の口上を繰り返す。ビルは素直にそれに応じて、咥えていたパイプを手に取った。車両の後方にも開いた座席はない様子。

「ヘラルド紙を」「1ペニーです」「おや。支払い、明日でいいかな。小銭を持っていないんだ」「ええっ、困るよ」

ビルは後部座席の車窓をはさんでやりとりする二人に嘴を挟んだ。

「失礼ですが。私がお支払いしますよ」「いえ、どうせ明日も買うのだから」ジョンは決然とビルを振り向き、片手さえ挙げて辞退した。「それにもう走り出してしまっている」実際、トラムは走行を開始していた。ヘラルド紙の新聞売りの少年は、トラムを追っかけようと二、三歩こちらに向かって駆け出したが、すぐにその行為の愚かしさに気づいて素直に立ち止まった。


ビルは、自分の前の座席を占める大柄な男──つまりジョンの身なりと、手にする新聞の不釣り合いを気にしていた。さらにこの男の隣には若い男が、泥酔したような格好で、つまり、だらしなく開いた窓から完全に首を出して寝ていることについても、違和感とともに強い好奇心を感じていた。しかし乗客たちの間に、あえてこの件に言及すまいという窮屈な合意が感ぜられたため、ビルも不本意ながらそれに従うことにした。

「ミスター」ビルはジョンに話しかけた。「ヘラルド紙は労働党新聞ですよ」

「ええ、存じてますよ」ジョンはパイプを咥えたまま、ビルを見上げて応答した。「私が買ってはいけないと?」「身なりの良いあなたが、まさかと思ってね。ご存じの上でお求めなら、止めますまい」わずかの間、会話が止む。ジョンにとってそれは、この男と引き続き会話を続けてしかるべきか、値踏みするのための時間であった。

「――労働党は」ジョンはすぐに話を再開した。「今年から政権政党ですから。それだけでヘラルドを買う充分な理由になる……」

一方ビルは新聞の話を自分から切り出しておきながら、どこかでこの話題を切り上げたいと思った。理由はふたつ。自分の勤める会社の話を公共の場ですることになるのは、ぞっとしなかったから。さらに、この大柄な男とはヘイマーケット・テラスからやって来るこのトラムの中で、今までも数回乗り合わせたことがあるのだが、今日こうしてひときわ接近して会話を続けるうち、この男から立ちのぼる匂いの正体が、石灰とマグネシウムのそれだということに気づいたからである。


「……ただ、家庭でも職場でも理解を得にくい。だからトラムの中で買うんです」ジョンが話の余勢を駆って息継ぎをすると、ビルはすかさず話題を逸らそうと試みた。「ミスター。失礼ですが、植物園にお勤めですね」

「おや。おわかりですか」一瞬の沈黙があって、ジョンは変わらぬ口調でビルを見上げた。「私に園芸の知識はありませんが」ビルは相手の機嫌を損ねていないことを確認してから続けた。「たまにあなたから熱帯植物用の置き肥の匂いがする」

あっはは、とジョンは声を上げて笑った。窓外にまで響くような、幅のある低音(バス)だった。「失礼」ジョンは鳥打帽に手をやり居住まいを正した。「隠し事はできませんね。仰る通り熱帯温室を担当しています」

旧市街(オールド・タウン)のとある一角に差し掛かる。建造物の素材の違いか、ここを通る際は必ずトラムが大音響を発し、誰の話し声もかき消され聞こえなくなる。所へジョンは一層その声に力を込め、難なくビルに話しかけた。「お暇なとき、いらしてください。ご案内します」


「私、園芸には疎くてね」ビルは騒音を克服するつもりは毛頭なく、騒音区域を抜けるまで大人しく待ってから、おもむろにジョンに返答した。「ご説明頂いても、充分に理解できるかどうか」「そのような方のために、植物園はあるんです」ジョンは返答を長時間待たされた反動からか、幾分官僚的な口調で言った。「好奇心ひとつお持ちいただければ、結構」

旧市街の十字路を、トラムは充分な減速もせず力任せに左折した。その音は関節を逆に取られて喚き声をあげる悪漢を連想させた。その途端、ジョンの横に伸びた若い男の身体だけが、慣性のために引き続きカウゲート街を東へ直進しようとして、ジョンの膝の上に崩れ落ちた。

ビルは小さく驚きの声をあげたが、それは易々とジョンの低音にかき消された。「ちょっと失礼しますよ」前にこんなことは幾度も経験済みだとでも言わんばかりに、ジョンはだらしなく垂れ下がる若者の四肢を手際よく束ね、抱え上げた。「そこを空けてくれ。こいつはここで降りるんだとよ」ジョンの威圧的な声が、車両の先頭まではっきりと届いた。乗客たちは一斉にジョンと若者のために道をあけた。ビルの目の前を労働者らしい、泥だらけの茶色いブーツが通りすぎる。「ミスター。靴を脱がせた方がいいんじゃないですか」「うん、それもそうだ」ジョンはビルの助言を聞いて立ち止まった。ビルはハンドレイルから手を離し、むしろ若者の脚につかまりながらブーツをひとつひとつ外してやった。


***


「おや、掛けなかったんですか。あなたにと思って空けたものを」戻ってきたジョンは、相変わらずハンドレイルに掴まったままのビルにハンカチを差し出した。すでに目の前の二人ぶんの座席は、他の乗客のために埋まっていた。「椅子にかけると、寝てしまう」ビルはわずかに裾についた泥をあくまでも儀礼的に払い落とし、苦笑してみせた。「ところで、さっきの男は」「ああ」説明しにくいことがらを、聞き手の好奇心を充分に満たしつつ、なお簡潔に切り上げてやるにはどうすれば良いか、ジョンはしばし思案した。「マリーフィールドに住んでいると、たまにああいう手合いに付きまとわれて。甚だ迷惑なことです」ラグビーフットボール、という単語だけは回避しつつ、なお自身がこの話題(テーマ)そのものに不快感を示していることを言外にビルに伝えることに、ジョンは成功した。ビルは何となく相手の意図を汲んで、あえて問題の焦点から外れた見解を示した。「酔っ払いでしょう。あなたの住むエリアにそういった若者は、めったにいないでしょうが」


「話を戻しますとね」充分に自分の意思が相手に伝わったことに満足して、ジョンはいよいよ饒舌に話を始めた。「先程申し上げた通りの職場ですから、ヘラルドを読むことは憚られる。ならば家でと思うではありませんか」鉄道駅から伸びる複数の軌道が彼らの意思とは無関係にトラムの乗客たちの顔を照らす。「ところが女房は人一倍の見栄っぱりときた」ベーカリーの立ち並ぶブロートン・ストリートは徐々に活気を帯びつつある。「子はおらず、私と二人暮らし。働きに出るでもなく、最近は女中を雇いたいだのと言い出しましてね。困ったもんです」 ベルビュー教会が婚礼の支度をする。「ああ、これではただの愚痴でしたね……つまりそんな世間知らずな女房でも、ヘラルド紙に関する生煮えの情報だけは耳ざとく仕入れてくるようでして、私に意見してくるんです」トラムはウォーター・オブ・リースの流れを渡る。


「タイム紙かガーディアン紙を取って頂戴、と?」相手の男があまりにも熱意を込めて身内の愚痴を続けるのを聞いて、ビルは話の腰を折ることを諦めつつあった。

「ご明察。今はタイム紙を取っていますよ」ジョンはビルの合いの手によって、初めて自分の饒舌に気がつき、しばし気まずそうに押し黙ってしまった。

「それじゃ、それをそのまま職場にお持ちになるのは」窓外の聖ジェイムズ教会をぼんやりと眺めながら、ビルは相手のために話の穂を継いでやった。「その通り。さて、今日はもう読む時間がない。貰ってやってくれませんか」「私は構いませんが……」言いかけてビルは窓外の有り様にようやく注意が向いた。


「あれっ。もう植物園、過ぎてませんか」「存じています。あなたと話すのを切り上げるのが惜しくてね。二、三の停留所を引き返すなど、造作もない事です」当事者たるジョンの回答は、むしろ傍観者であるはずのビルよりも余裕が感ぜられた。「大丈夫ですか?出勤時間」「幸いそういった束縛とは無縁の境遇ですので」「驚いた。私、けっこうなご身分の方と話してるんですかね」トラムの階梯を注意深く踏みしめつつ、ビルは後ろに続く大男を振り返った。


***


「失礼。隠しだてするつもりは……いや、それに関してはあなたの方が一枚上手でしょう」

ジョンはゆっくりと腕を挙げ、ビルの勤め先の社章が焼印されたショルダーバッグを指さした。ついぞそれに気づかず、車内の会話では幾度か若干危険な橋を渡っていたことを、ジョンはビルに明示的に告白した形である。にも関わらず、ビルは停留所から歩道に渡ろうと身を乗り出した姿勢のまま、ジョンに向かって穏やかな微笑を浮かべている。


知り合ったばかりのこの男が、完全にチェックメイトを切られてもなお戦局が自軍に利しているかのように振る舞うことができるのは、やはり彼の生業の賜物である、と言えるだろうか。


「まさかデイリー・メール紙にお勤めとは、ね」

ジョンは苦笑しつつ、いよいよキングの駒に手を伸ばした。




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