第二十夜|End of the Twilight
author:夜いるか。
前方の空は宵の色をしていた。太陽は私たちの背後から微かに気配を漂わせているが、趨勢は夜に傾いている。蝉の声。夏の終わりだった。もしかしたら命の終わりかもしれない。そういうことを考えながらいくつかのスイッチを切り替えたりスライドさせたりする。
「準備、できたわ」
「ありがとう。こっちも大丈夫」
計器類に一通り目を通し、異常がないかをチェック。今はまだどのメータも新学期を迎えた小学生のようにおとなしくしている。これから来るべき騒乱に備えているのか、それとも孤立することを恐れているのか。何度も行った作業。訓練ではずいぶんと怒られたし、寄宿舎で泣いた回数だって二桁になるだろう。そのおかげで手順は身に沁みついていたのだから教官を責める気にはならない。人格はどうであれ与えてくれた知識は正確だった。 それだけで私たちには十分だ。
そういう世界とも、もうすぐお別れ。
「出発する? バレるのも時間の問題だし」
最高のタイミングで声が後ろから飛んでくる。私たちが乗るこの機体はタンデム複座の、つまり座席が直列に設置されている練習機で、しかし練習機にしては航続距離が長かった。今日の天候や風向きを考慮して大まかな距離を暗算する。きっと彼女だって同じようなことを考えているだろう。
この先に待つ夜、空と海。そして死を。
理論的な計算に意味がないということもわかっているはずだ。けれど、付き合い立てのカップルのように確認しあったりはしない。言葉は大切だが、言わない方がいいことだってきっとある。タンデム式の機体を選んだのもそういう理由だった。横に座っているとどうしても顔色を伺ってしまうから。今の私たちにとって情報はシンプルな方が良かった。すべてをシェアする必要なんてない。
「わかった。じゃあ出発するわね」
「ええ、よろしく」
それだけの短い会話。ヘッドセットのスイッチをオンに。緑色のランプが灯る。これがゴーサインのように思われた。イグニッションスイッチをSTARTへ。エンジンで軽い破裂音。振動が座席を通じて骨に伝わる。おぼつかない足取りで回転を始めたプロペラはすぐに安定した。スイッチをBOTHに戻し、パーキングブレーキを解除して格納庫を出る。
風もなく、穏やかだ。まるで、私たちの心みたいに。
誰にも使われる予定のない滑走路はしん、と静まり返っていて、夜間飛行に花を添える誘導灯も今は沈黙を貫いていた。残光がアスファルトと草原の境界線をかろうじて浮かび上がらせている。それだってもうすぐ見えなくなるだろう。
コックピット内ではいくつかのランプがチカチカと瞬いている。鼓動よりはゆっくりとした明滅だ。空はもう紫色と青色になっていた。停止位置標識で儀礼的に一旦停止。通常であればここから管制塔といくつかのやり取りをしたあとで離陸する。今日はもちろん、そんな面倒なことなんてしない。無線は切ってあった。いや、正確には後ろの彼女がアンテナを物理的に折ったのだった。誰も私たちには話しかけられないし、私たちだって誰にも話しかけない。そもそも飛行許可すらない私たちは招かれざる客なのだ。誰も迎えてなどくれないし、最初から期待もしていない。どこにもつながらない機体はしかし、私たちにとって理想の箱舟だった。
見える範囲では滑走路に人影はいない。私たちの逃避行はまだ誰にも見つかっていないらしい。計画は極めて順調。当然だ。この瞬間のために、3年近くも準備してきたのだから失敗は許されない。外気温、約25℃。けれど空の上は寒いに違いない。これからの逃避行に備えて厚手の飛行服を着ていた。操縦桿を握る右手が汗ばむ。それが暑さによるものなのか、それとも緊張によるものなのかを判断することはできなかった。
「Run way 01, cleared for take off」
おどけた高い調子の声がヘッドセットから流れる。訓練で何度も交わしたあまりにも日本語なまりの英語。もう彼らの声を聴くことは二度とないだろう。悲しくはなかったが、少しだけ懐かしくはあった。ベッドの中でなくしてしまった玩具に思いをはせて泣く夜に似ていた。
「Roger, cleared for take off」
フラップを一段階下げ、スロットルを上げる。
連動してエンジンの回転数がみるみる上昇していく。
素直な子だ。機体は初めだけゆっくりと動き出し、すぐに加速した。
地面の凹凸を受け止めて揺れる。風はほとんどなかったが、流されてしまわないように操縦桿を握る。もしこんなところで事故でもしたら、消防車と警備隊が来る前にポケットのナイフで動脈を切らなければならないだろう。なんて、恥晒し。
速度計、油圧計、RPMを順に一瞥。
最終チェック、異常なし。
さらに加速。周囲の景色が流れていく。
操縦桿を控えめに引いて、離陸。
一瞬、浮遊感。
ランディングギアが地面を離れた。
強い重力を感じる。重力は世界のどこでもフェアだった。辛い時だって嬉しい時だって同じだ。こうやっていつも私たちを地面に押し付ける。
緩やかに上昇、そして旋回。黒い森とその先の街が目に入るけれど、そこに住む人たちのことを想像したりはしない。もう私たちとは関係のない世界だった。
すぐ海に出る。ランディングギアを収納。二度と使用することはないだろう。可能ならばこれも折ってしまいたいくらいだ。現在の高度はだいたい300フィート。訓練では試みたことのない低高度だった。それは各種のレーダーに探知されないためだ。操作は難しかったが不思議と緊張はしていない。こんなところで操作を誤って落ちるわけがないと思った。自信とも慢心とも異なる感情。そのまま巡航する。
「お疲れさま」
「なんとか無事にいったわね。しばらくは、暇」
「もし捕まったらいくつ罪状が付くと思う?」
学科で頭に叩き込まれた航空法規を思い出す。今の私たちに適合している項目の方が少ないのではないだろうかとさえ思えて、少し笑ってしまう。狭いコックピットでは振り返ることができないけれど彼女だって笑っている。そういう息遣いがヘッドセットから聞こえたという意味だ。
しばらくしたら格好いい戦闘機がスクランブルでやってくるかもしれない。格納庫や滑走路には誰もいなかったが、私たちの離陸を目にした人は当然いるだろう。訓練場自体が閉鎖中とはいえ数名の事務員や警備員はいるし、機材の保守点検に当たっている人々もいる。格納庫の扉だって閉めてはいないからバレるのは時間の問題だ。戦闘機に見守られて飛ぶのはぞっとしない。だからこうして低高度を飛んでいるのだ。私たちの逃避行が感知されること自体は全く問題ではなかった。バレても追いつかれなければいいだけ。彼らは血眼になって探すだろうけれど、夜の海上を、よりにもよって低高度で飛ぶ小型の機体を見つけることは至難の業だ。そもそも訓練用の飛行機が勝手に持ち出され、しかも未成年の生徒が犯人だなんて想像もしていないだろう。私たちが所属していた訓練学校は最も不名誉な形で明日のトップニュースに載るに違いない。そんなことすらも、いまの私たちに何の関係もない。残された世界のことは残された人々が考えるべきだろう。
なんて、自分勝手。
少なくともこの国の権利が及ぶ範囲を出るまではこのまま飛び続ける計画だった。後ろからミサイルでも飛んでくれば別だが、しばらく特別な操作は必要なかった。もしミサイルが飛んできても私たちに出来ることはないから、結局は同じなのか。フレアでも積んでいれば格好いいのだけれど。基地のレーダーはそれほど高性能なものではないから、まだ私たちに幸運が残っているならばこのままずっと位置を悟られずに逃げることができるかもしれない。
何もすることはない。何もできることはない。
何も望まず、何も与えない。
「晴れてよかったわね」ピクニックにでも来たかのような陽気さで彼女が言った。
「雨ならもっと隠れやすかったかも」
「でも、月が見えないわ」
「……月」
南東の方角に目を向ける。満月に近い月が浮かんでいた。そこだけ夜空を切り抜いたような白。近くには、星。夜が深くなる方向ほど星の数は多くなっていた。左手には真っ黒な空を撃ちぬいたように輝く北極星。あの下を私たちは飛ぶのだ。考えるだけで気分が晴れる。神経の興奮を感じる。
こっそり吸っていた煙草を一本吸いたくなった。匂いが嫌いな彼女に怒られるだろう。窓だって気軽に開けられない。私たちはどこにも漏れ出さない。どこまでも二人きりだということを改めて実感する。海上には船の明かりも見えなかった。夜に向かって飛んでいる。太陽はもう背後の地平線へ落ちているはずだ。
それからしばらくの間、翼が風を切る音とエンジンの駆動音だけが私たちを包み込んだ。陸から離れていく。
世界から離れていく。
「……どうして、ここにいるんだろう」ヘッドセットから小さな声が漏れる。
どうして、どうして、どうして。もう何度も何度も繰り返した会話。
「これが答えだからじゃない?」
「不満はないわ。もちろん、最高の気分。けど自分の存在がどうしても曖昧に感じられてしまうことってあるじゃない?」
「陸で私たちのことを考えて、そして必死に追っている人はいるかもしれない。けれどその人たちはもう違う世界の住人じゃないかしら。生きていても死んでいても同じこと。この世界には私たち二人しか存在しないんだ」
ミサイルも戦闘機もどこか別の世界の物語。
視界にはどこまでも広がる闇だけが映っている。海と空の境界線もあいまいだった。
沈黙。
体感温度は少し下がっていて、眠気がやってくる。穏やかな午後のような気分。ややあって、心地よい停滞を彼女の声が破った。
「接続水域、抜けたと思う」
アンテナをへし折ることで通信手段を否応なくかなぐり捨てた私たちには客観的な位置に知る術が残されていなかった。羅針儀と速度計だけが頼りだ。当然、後部座席にも前と同じ機器が搭載されている。それらの計器と航路図から自分たちの位置を計算するのが後部座席を選んだ彼女の役割だった。前の方が断然、特等席に思えたが、彼女にとってみればそうでもないらしい。
「わかった。昇るわね」
一気に眠気が覚める。ここから先は本当の自由だった。レーダーもミサイルも多分、届かない。どんな飛行をしたって誰も咎めない。そもそも誰もいない。ここから先は私たちの世界。
鳥肌が立つ。
脳内麻薬がはじける音すらも聞こえるようだった。
スロットルを最大に。エンジンが唸りを上げる。体がシートに押し付けられる。重力は世界から逃げる私たちに差し向けられた最後の追手だ。
操縦桿を引いた。海上に出たシャチのように機首が持ち上がる。
昇る、
昇る、
昇る。
高度計が飛び起きた学生のようにばたばたと稼働していた。
誰も私たちのスピードについてこられない。
一転、灰色の視界。雲に入ったようだ。翼さえ見えなくなるが、怖くはない。
ここは産道に似ていた。私はもう一度生まれ変わる。
本当の私へ。
この場所はそういうエネルギーに満ちている。
眼を閉じる。
暗闇。
突き抜ける。
光明。
月の光。
星の光。
見たことのない輝き。
ここでしか見ることのできない輝き。
こんなに素晴らしい逃避行はないと思った。
思わず、操縦桿を握る手が緩んでしまうほどに。
少しバランスを崩して再び雲の最上部にタッチ。
慌てて操縦桿を握りなおす。
機体が跳ねた。
失速。
雲へ落下。
しばらく下降して、ようやくバランスを取り戻す。
怖くはない。
エンジンの機嫌を取って再び上昇。
突き抜ける。そのままの角度を維持。
雲はずいぶんと眼下にあった。
どこまでも、月の光を反射して灰色だ。
そうすることで夜の闇と均衡を取っているのかもしれない。
マントルの対流のような雲。どこまでも続く雲の平原。
態勢を整える。機体はほぼ水平に戻っていた。油圧が上がり気味だったがそのほかはすべて正常。私の脳内も次第に冷静さを取り戻しつつある。きっと人生で最後の興奮だっただろう。あれだけ楽しめれば十分だ。あまりにも無茶苦茶な飛行だったが彼女は終始黙っていた。星を見ているのか、何も見ていないのか、操縦席からでは確認することができない。
雲の上を滑るように飛ぶ。そこに不安定さは一切なく、止まっているとさえ思えるほどの均衡だけがあった。沈黙が続く。操作パネル上の時刻だけが過ぎていく。もともと二人の関係性において私から話し出すということはあまりなかったから、これは自然な状況だとも評価できる。月の運行は極めて精確で、どんどん西の方角へと傾いていく。落ちていく。それは私たちが真っすぐ東へ向かって飛んでいるということを示していた。同時に、逃避行の終わりへ向けてカウントダウンが進んでいるということも。月はまた昇るだろうけれど、私たちが生まれ変わるという保証はない。そういう希望も、たぶんない。この空こそが生まれ変わった後の世界だからだ。
日が落ちてからずいぶん時間が経っている。食欲はなく、どちらかというと眠ってしまいくらいだ。寄宿舎ならそろそろ消灯時間が近づいてくる頃だから身体が自然に反応しているのかもしれない。向こうは今頃それどころではないだろう。
このまま眠れば飛び続けられる、そういう錯覚に陥る。彼女の事務的な連絡がまたしても沈黙を破った。
「もうすぐ航続距離の半分になる。安全に引き返すなら、そろそろよ」
この先にはいったい何があるのか。あるいは何もないのか。
空にとどまり続けることができるのか。ただ堕ちていくだけなのか。
風は強くないし、気圧も安定していたから操縦はほとんど必要なかった。ぼんやりと星を見ている。ただ、星だけを見ていた。未来への不安や過去の後悔はすべてどこかへ飛んでいってしまったようだ。陸に捨ててくることができたのかもしれない。私はただ現在の一点のみに存在している。そう思えた。
「怖い?」私は聞き返す。
「答え、わかってるでしょ」
「まあ一応、管制塔とのやり取りみたいな感じでさ。確認しただけ」
「この先、飛べる範囲内に島はないわ。少なくともこの航路図を見る限り」
「知ってる。もし私がいま引き返したら、怒る?」
「さあ、どうだろう。今は怒らなくても後から腹が立つのかもしれない。今は怒るけれど、後になってみればものすごく感謝するかもしれない」
「でもまずは牢屋行きね」
そういって私たちは笑った。
そういって私たちは笑えた。
彼女が言う通り、燃料は半分を切りつつある。
「……ここまで来られるとは……思わなかった」
ノイズの混じった声が耳元から聞こえる。私は無言を貫く。彼女はなおも続けた。
「あの頃の私たちはこの世界から逃げたくて、どうしようもなかった。けど、まだ知恵も手段もなかった」
「どれだけの人を裏切り、失望させているだろうね」
物心がついた時はすでに孤児院にいた私たちが難関の航空学校へ入学できたことはまさに奇跡だった。誰もが喜んだし、決して十分ではなかったけれど様々な制度が物質面でも金銭面でも支えとなった。そういう愛情のもとに私たちは生きていた。事の顛末を聞いたらあれだけ合格を喜んでくれた支援員たちはどう思うだろう。絶望するのか、怒り出すのか。それとも泣き出すだろうか。
許されないことをしている。少なくとも世間的には。でも私たちは望まれずに生まれたのだ。せめて、望んで生を終えたいと思うことは不自然だろうか。私たちの自分勝手は本当に許されないことだろうか。
与えられた愛情が偽物だったとは思えない。今だって彼らの親切心は本物だったと信じている。けれどそれは関係のないことだ。どう生きて、どう死ぬかということの権利は自分自身だけが持っている。
これは私の決断。私たちの決断。
地獄行きかな、と彼女が言った。
「どちらかというと天国に近いと思うけど」
高度計を一瞥して言う。きっと大地に這いつくばって生きている人たちの方が地獄に近いだろう。
何度目かの沈黙。しばらくして彼女が言った。
「少し眠ってもいい? もう、できることないから……」
「ええ。もちろん」
「何かあったらおこしてね」
「お休み」
返事はなかった。しばらくして、ヘッドセットからは整ったリズムの寝息が聞こえてきた。電源をオフにする。緑色のランプが消えた。命だってこういう風に消えたら綺麗だ。 代わりに飛行服のポケットからボイスレコーダーを取り出して口元につける。こんな環境で録音できるのかどうかはわからないけれど、試みることに価値があるのかもしれない。
そうして、私は語る。
私たちがどうしてこんな馬鹿げたことをしているのか。
私たちがどうしてここにいるのか。
どういう人生を送り、どういう風に死ぬのか。
何を思い、何をしてきたのか。
何がしたかったのか、何が出来なかったのか。
二十年近い人生の物語をひとしきり語り終えて、ボイスレコーダーをポケットにしまう。
月はもう沈んでいた。これから私たちは死ぬだろう。たぶん死体は海に沈んで、消えてしまう。もしどこかの砂浜に流れ着いたこのボイスレコーダーを拾ったならば、誤解しないで聞いてほしい。これは、どこにも逃げられず、だからといって抵抗する勇気も持たなかった私たちの物語。
つまり卑怯者の物語。
私だって眠ってしまいたかった。けれど飛べる限りは飛ぼう。
それだけが私たちの価値。
だから何も願わず、何も望まず、ただ、遠く、遠く。




