第二夜|蛻の殻
author: 紋甲メリー
たったひとり残った住人も先日失踪して、410号室は完全な無人になった。
休学中で暇そうだったから、というだけの理由で呼び出された隣室の俺は、人の気配の絶えた室内にぼんやり突っ立ったまま、なんとかこの場から穏便に逃げ出す方法はないものかと考えていた。十六畳の四人部屋には皮脂と埃の臭いが充満して、着古した服や教科書、リサイクルショップで買ったと思しき旧式の炊飯器などが蟻塚のように積み重なっている。他人の不始末の尻拭いは、俺たち寮生に課せられた作業の中でもこのうえなく憂鬱なもののひとつだった。
「わかっていると思いますが、四月の頭には新入生が来ますから」背後で寮監の男が焦れたように口を開いた。敷居の手前に爪先をかっちりと揃えたまま、そこから一歩も足を踏み入れようとしない。
「それまでには綺麗にしてください」有無を言わせぬ口調だった。「毎年ここの階は動きが遅いので」
寮監が足早に立ち去ってしまうと、部屋を覆う不在の気配はますます色濃くなった。薄膜を透かしたような淡い光が、翳りゆく窓の外から遠慮がちに漂ってきていた。
失踪した住人は近原という名前だった。文学部の院生で、寮内では俺と同じ「休学組」のひとりに数えられていた。顔を合わせればどちらからともなく口を開いて世間話をする、同期と言ってもその程度の仲だったが、俺は近原の存在を少なからず好ましく感じていた。青黴のようなほくろが点々と散った近原の首筋や、そこに接続する下顎の鋭利な輪郭などを盗み見るのがひそかな愉しみだった。
はじめて言葉を交わした日のことを思い出す。あれは大学のサークルの新歓と寮の新歓が重なった気ぜわしい日で、俺が寮に帰ってきた頃には、耳の先まで赤くなった学生たちがブルーシートの敷かれた広間の床で車座になっていた。ひとかかえほどもありそうな古いアルマイトの鍋には中身がほとんど残っていなかった。だれかの投げた紙皿がフリスビーのような軌道を描いて、俺の背後の壁にぶつかって落ちた。
「こっちこっち」
同部屋のYさんが俺を手招きしていた。ざわめく車座の輪の中に俺を引き入れてしまうと、Yさんは「まあ適当にやっといて」と言いながら腰を上げ、そのまま入れ替わりにどこかへ行ってしまった。ほかに知った顔が誰もいないので、俺は隣で退屈そうにビール缶の成分表示を読んでいた色白の男に話しかけてみた。それが近原だった。お互いの学部や出身校などのありきたりな自己紹介を済ませたあとで、俺は無性に腹が立ってきた。さっきの紙皿の一件がいつまでも刺のように引っかかっていた。右も左もわからない新入生を集めておいて、ろくなもてなしもせず放っておくのは片手落ちだよな、とか、苛立ちまぎれにそんなことを言ったかもしれない。
近原は答えなかった。色素の薄い首を小さく傾けたまま、頭の中でひとつひとつ慎重に言葉を探しているようだった。
「さっきの話だけど」やがて近原は俺の方に向き直ると、右手を鉈の形にして、左手首から先をすっぱり裁ち落とすような仕草をしてみせた。
「手落ちとか、片手落ちとか。雑なフレーズだから、あまり使わないほうがいいよ」
とっさに言葉が出なかった。自分の中の野蛮な部分を鷲づかみにされたようでひどく心が騒いだ。俺はこいつとは友人になれないだろうな、とそのとき思った。
ただあの日、近原の手首を音もなく伏流していた青い静脈のイメージだけがやけに眼裏に残って、それから俺はしばらくのあいだ倒錯的な自慰を繰り返すことになった。
寮監が置いていった自治体指定の黄色いゴミ袋を手に、俺は雑多な生活用品が地雷原のように散らばった部屋の中央あたりにどうにか隙間を見つけて座り込んだ。
俺の住んでいる部屋とほぼ同じ作りをしていた。扉の左右に二段ベッド、正面には南向きの大きな窓があって、四人分のスチール机と椅子が横一列に並んで空を仰いでいる。机と机の間は本棚で仕切られており、横からの不躾な視線をさりげなく遮断する仕組みだった。いちばん右端にある近原の机だけが土砂崩れのようなありさまで、平積みになった本の山肌が大きく地滑りして、畳敷きの床にだらしなく広がる古着の海へと続いていた。
付箋の挟まった辞書。輪ゴムで乱雑に束ねられたレシート。革ベルトを巻いたまま脱ぎ捨ててある灰色のスラックス。抜け殻のような痕跡のひとつひとつを俺は眺める。そこにまだ近原の体熱がかすかに残っている気がする。
最後に姿を目撃してからもうずいぶんになる。まだ日も明けやらぬ薄暗い廊下をのろのろと、男にしては小柄な背筋を亀のように丸め、不自然なほど大きく膨らんだザックを背負って歩いていた近原。休学のたびに海外を放浪しているとは聞いていたが、どうも運び屋のような悪い仕事をしているのではないかと噂が立ってからは、ほとんど話す機会もなくなっていた。
「おまえ、金は用意できたのか」背を向けて遠ざかっていく近原を俺は呼び止めようとした。近原がもう何ヶ月分も寄宿料を滞納していることは広い寮内でも周知の事実だった。
「何度も電話してるんだからたまには出ろよ。おまえのせいで俺の立場まで悪くなるだろ」
近原は振り返らなかった。振り返るかわりに、青白い手の甲が人を食ったようにひらひらと宙に舞った。「帰ってきたら払うよ」何度も聞いた台詞だった。
そのまま近原は廊下の突き当たりの角をふらりと折れて、それきり二度と寮に帰ってこなかった。
時刻はすでに十八時を回っていた。普段なら授業を終えた寮生たちが帰ってくるはずの時間だが、いま寮内は奇妙に静かだった。窓の外では見頃を過ぎて葉ばかりになった桜の枝が、ときおり吹きつける横殴りの風を受けながら肌寒そうに身を震わせていた。
細かく分別をしている余裕はない、それだけはわかっている。近原の寝床から毛玉だらけのブランケットを引き剥がそうとすると、だしぬけに綿埃がもうもうと巻き上がって、目と鼻と喉がいっぺんにむず痒くなる。マスクを買っておかなかったことを後悔するが、いまどきマスクは品薄でどこの店でも手に入らない。それで仕方なく両腕をショベルカーのように使って、床のがらくたを手当たりしだいに拾い上げては袋の中に放り込む。たまに魚の鱗のような小銭が五円、十円と転がり出てくるので、それらは小分けにして窓枠のところに並べておく。そんな作業を黙って繰り返しているうちに容量四十五リットルの袋はすぐいっぱいになる。
寮の敷地からそう遠くないところにゴミの集積場がある。いっぱいになった袋は休憩がてらそこに捨てに行くことにする。まるで墓荒らしみたいな仕事だな、と思う。集めた小銭を何に使うかはまだ決めていない。
あれから大学にも何度か問い合わせてみたが、近原の行方はついにわからないままだった。応対に出た職員も途方に暮れている様子で、なにか知っていることはありませんか、と逆に尋ねてくる始末だった。授業料の支払いが滞り、とうの昔に大学を除籍になっていた近原は、実家にも顔を出さないまま、ほんとうに煙のように消えてしまったらしい。息が詰まりそうなほど膨大な痕跡をこの部屋に残して。
埃を吸い込んだせいだろうか、不意に鈍い頭痛が襲ってくる。それから二度、三度といがらっぽい咳が後を追いかけてきて、俺はたまらず自室のベッドに避難する。横になっても咳は止まらない。同部屋の後輩が読書の手を止めて、いかにも迷惑そうな目で俺を見る。けだるい疲労の熱に浮かされながら、俺はまるで自分が一匹の騒霊にでもなったように感じる。あとも濁さずかろやかに飛び立っていく多くの寮生たちを尻目に、俺の騒霊はいつでも気むずかしい顔をして、春が巡るたびに少しずつ輪郭があいまいになっていく。
その晩、明け方近くになって近原の夢を見た。
俺の身体はいつのまにか410号室に戻ってきていて、すぐ隣には近原がいた。手首から先をなくした近原のかわりに、俺は近原のザックの底から皺の寄った古い紙幣を探り出し、畳の縁に沿って一枚ずつ並べていた。紙幣というよりはちょっとした絵葉書のような大きさで、教会の尖塔や鋤を曳く馬などの絵柄があって、そのまわりには俺の知らない言葉が苔色のインクでびっしりと印字されていた。なにもかも片付いた畳の上に両足を投げ出して座ったまま、近原はどこか夢見るような角度で遠くを眺めていた。
チカ、と言おうとした。勝手に消えるなよ、そう続けたかった。だが舌がもつれて言葉にならない。
そのうち俺の歯は脆いガラスのように砕けはじめて、吐き出すこともできずじゃらじゃらと口の中に溜まっていくのだった。




