第十七夜|禁足
author:権兵衛
電子音とともにA4紙のトレイが上がり、残りの論文の束を吐き出した。
グラノーラのボウルを片手に摘要を読んでいたエマは、はっと顔を上げた。
「エマ、届いた?」
「これ……いったい何枚あんの」
トレイから分厚い束を取り上げたエマが、端末の向こうのタクに詰問する。
「インデックスついてたでしょ。だいたい二百枚」
「『ついてたでしょ』じゃないよ。通るか、こんな枚数」
寝不足も手伝って、エマの声はだんだんと大きくなる。裏腹にタクの声は徐々に委縮する。
「いやあ……これでも削ったほう、らしいよ」
「査読以前です、こんなの」ふた口目のグラノーラは、すでにふやけ始めていた。「突っ返しといて、ケンに。一稿からやり直せって」
「なんでわかったの?!」
「compriseにofくっつけてるの、ラボじゃケンしかいないから」エマはため息をついてテーブルの上に端末を置き、ハングアウト・モードに切り替えた。「こっちも重賞レース用の論文、書いてんの。わかる?今一番ヤバいの。学生に英文法教えてる時間なんて、ないの」
「これじゃ、匿名査読の意味ないな」通話の向こうでタクが苦笑する。
「とりあえず、ラボ行くから。私だって教授に七稿、添削してもらわないと」
言いかけてから、しまった、とエマは思った。ラボの面子は限られてる。顔を出した以上、ケンの荒々しい論文……いや英作文の手直しと、果てしないサーベイ指導に付き合わされるのは明白だ。
タクと押し問答を繰り返しつつ、残りのグラノーラを無理やり流し込む。一息つくいとまもなく、洗面台へ行き手早く髪をまとめ、それをヘアバンドに通しながらクローゼットに向かう。
その途中、部屋の片隅に石英でできた磨製石器が転がっているのが見えた。
***
「まあ、私も学部のときはこんなだったけどね」
実習室の会議用テーブルの上に小分けに並んだ論文を眺めながら、エマは大きく背伸びをした。関節が鈍い音を立てて鳴る。
「それだけに、嫌とは言えない空気が確実にある。大学院には」
エマとケンは、もはや昼休み返上で≪入力空間に依存しない新規の正則化手法の開発≫と題した論文の厚さを今の二割に減らす作業に取り組んでいた。
「へえ、エマもこうだったんだね」とケン。
「勘違いしないでよ」立ち上がりざま、エマは手元の束を正面に座るケンに渡す。「無償で先輩に指導してもらってた、くらいの意味で言ってんの。必要な部分にマークしたほうが早いアンタとは、ちょっと違う」
「あれ、ランチ行かなかったの」ドアが開く音とともに、タクが入ってくる。「食堂、もう閉まるぜ」
「今から行く」入れ違いにドア口へ向かいながら、エマは言った。「ケン、何がいい?サンドイッチの具」
エマが食堂でトレイを持って並んでいると、教授に後ろから呼びかけられた。
「おはよう、エマ」
「あ、教授」極まり悪そうにエマは振り返った。「このあと研究室に伺おうと……」
「かまわんよ。ケンの論文を見てやってるらしいね」教授はエマの前に6個並んだサンドイッチを見て、肩をすくめた。「実はまだ見終わっていないんだ、君の論文」
エマは溢れそうになったため息を、どうにか飲み込んで、言葉に変える。
「どこもタイトですね、特にこの時期」
「どの時期であれ、我々の分野は、成熟分野と同じ執筆環境など望めない」
教授は苦笑しながらパンとサラダだけ取ると、早々に会計に向かう。
「あ。待って、教授」
「何だい」
「もうひとつ相談があるんです。論文とは別件で」
「こんな時期になんですけど、うちで文明が興りそうなんです」
「おや」教授はサラダを咀嚼する口を止め、嚥み下す。「君のアパート?ご実家?」
「アパートです」エマは深く息を継いで言った。「けさ、石器が落ちていました」
「そうか……」ジュースボックスを手に取ったまま、教授はしばし思案している。
「町役場に報告する義務があるんでしょうけど、私もいま手一杯ですし」
「いや、届け出は最優先にせねば面倒なことになるぞ。とりあえず午後ひとっ走り町役場に行って来たまえ。ケンは僕が見ておくから」
「あら、教授。じゃあ私の七稿は」
「なに、こいつを食う時間を切り詰めれば」教授は慌ただしくサラダを掻き込み始めた。
「あら、ゆっくり食べないと」エマは言いかけて苦笑した。「とも言っていられないですね、お互い」
「大丈夫」教授の手が慌ただしくジュースボックスに伸びる。「期限が近づくとこうなるのは、もはや宿命だ」
「ありがとうございます」教授が無事に食事を終えてるのを見届けると、エマは席を立った。「なるべく早く戻ります」
***
所定の用紙に必要事項を記入して窓口に出し、番号で呼び出されるのを待つ。あまり意味はないと思いつつ、もはや気を落ち着けるための手段としてエマはラップトップを開き、ネット上の先行論文に改めて目を走らせた。
「874番のカードをお持ちの……」
女性の声で呼ばれる。エマは取り落とさぬように、注意深くラップトップをバッグにしまい込み、立ち上がった。
「こちらに署名を」
長々と待たされた割には、拍子抜けするほど手続きの内容は簡単だった。これならばオンライン化すれば効率化できるのでは……いや、よそ様の事情に首を突っ込んでいる状況ではない。エマは手早く書類に筆を走らせた。
二枚つづりの、ごく簡素な冊子を手渡され、それだけで届け出は終わりだった。もはや効率化について考えるのをやめていたエマは、職員に礼を言いつつ出口の方へと駆け出していた。
***
実習室に戻ると、ケンの論文は前の八割ほどに圧縮されていた。
まだまだ、先は長い。しかしながら不要な図表や、簡略化すべき表現にはある程度の法則性を見出せそうだった。
「これなら、夕方からはオンラインでも添削できるだろう」
「ありがとうございます、教授」
実習室をあわただしく退出していく教授に、エマはとケンは礼を述べる。そうは言っても夕方からは、である。膨大な仕事を前に、二人は改めて顔を見合わせ苦笑した。
夕方とはまだ呼べない時間帯に、教授から「添削完了」メールを受信できたのは不幸中の幸いかもしれなかった。エマは徐々に手が離れつつあるケンの仕事から、ラップトップ上の自分の仕事に負荷を移動させつつあった。
「よく、そんなことができるよね」若干やつれた顔を上げて、感心したようにケンは笑う。
「これができないと、論文なんて一生上がらない」頭の中で複数のタスクを回しつつ、半ば上の空でエマは言う。「これが通ったら食事、おごってよね」
ケンの論文から手が離れたのが、18時。教授の研究室に寄り、印刷された七稿に儀礼的な署名をもらったのが18時半。バス停の近くのパビリオンで簡素な軽食を買った時には、すでに19時を回っていた。
***
保全の行き届かない舗装道路を行くバスの中では、エマはあらゆる仕事を諦めていた。
揺れはひどく、先ほど買ったパンや果汁を口に運ぶのも、若干心もとない。エマは思い出したようにバッグから冊子を取り出し、車内の薄明かりを利用して導入部の重要事項を拾い読みした。
≪文明興起への対応について
政府の諮問機関の報告によりますと、太陽系を占める星間物質の組成が変化したことにより、大気圏内のあらゆる地点で文明が興りやすくなっています。
企業、耕地などを含む広義の私的空間に文明の興起が確認された場合、必ず下記の点を守り、段階的に自治体に報告してください。第一に……≫
冊子には、おおよそ公共放送などのメディアで見聞きした事項が書かれている。一般的に文明は蒸気、あるいは電気を取り扱うまでに至るが、まれに、放射性物質を取り扱う段階まで文明が発達する可能性があり、その場合は発展の度合いをより詳細に観察し報告せねばならない。
それにしても。
よりによって私の部屋に、しかも、この時期に。エマは冊子から顔を上げ、久しぶりに目の焦点を弛緩させた。
***
「お疲れ様。これでひと段落だな」
署名の並んだ表紙を手に取ると、教授の顔に久しぶりに落ち着きのある笑みが戻っていた。
「本来、ここがスタートなはずなのに」まとまりきらなかった髪を今さらのように手で整えつつ、エマは教授の前に腰かける。「なんだか、全部やり終わった感じがしちゃってます」
「これから矢継ぎ早に編集委員から照会が来る。そのボールを全部打ち返して審査をパスすれば、晴れて採録だ」
「ああ、なんでこの業界に来ちゃったんだろ」
ここ二週間、ほとんど誰とも話す機会がなかったエマの口から、ようやく普段通りの軽口が戻っていた。
「そういえば」査読用の論文を封筒にしまいつつ、教授は言った。「今は君の部屋、どんな状態かね?」
「農耕が始まっています。まだ注視すべき段階じゃないようなので、特に気にしていませんが」
「そうか。適当な段階で終焉してほしいところだが……うかつに手を出すわけにもいかないしな」
「ええ。まして私たち、専門外ですし」
エマの言葉通り、一般的に文明が興起した場合、ある段階までは経過観察にとどめておくのが常識的な態度とされていた。
星間物質が何らかの重要な因子となってこのような現象が始まったということは、量子力学の専門家会議の間でも、ようやく共通認識となったばかりである。エマをはじめとする人工知能のプロパーにとっては、興味の対象ではあっても、安易な憶測がはばかられる禁足の領域であった。
当該の事象が最初に観測され始めたころ、興起した文明に積極的に干渉しようとするケースがいくつか報告された。しかしながら、それは不可解な物理事象の観測が増大するという、好ましからざる結果に終わった。
我々の文明的な空間内部に、さらに興起したいわば入れ子式の文明空間は、どこかで我々の空間そのものと通底しているらしく、やがて専門家たちは仮説的な係数aを提唱した。つまり、興起した文明への干渉次数をn、時空上に想定される特異点からの状態を|φ>として、φ(an)回分の不可解な物理事象が任意の時空間上で観測されるというものである。
***
「まさか、本当におごってくれるとはね」
久しぶりにヒールの高い靴を履いたエマは、注意深くケンの方を振り向いた。
「約束は、けっこう覚えてる方だ」ケンは照れくさそうに笑った。「それに半年間の間、デートもできなかったんだもの」
「お言葉に甘えて、今日は思う存分いただいたわ」
「今日、どうする?疲れてないなら」
ケンの意味深長な発言を聞くと、エマは用意していた返答を投げ返した。
「気持ちとしては、やぶさかじゃないんだけど。部屋のムードさえ普段通りだったらね」
「ど、どういうこと?」
予想していた二通りの回答からは全くかけ離れたエマの言葉に、ケンはあからさまに動揺した。
「なるほどね……」
エマの部屋の状態を目の当たりにして、ケンはそう言うほかなかった。
文明は、ある程度発達した封建社会を形成していた。おそらく電気はなく、蒸気とそれによる内燃機関で、素朴な工業化をも実現しつつあると看取できた。
「封建社会における恋愛の成立、か……」
学部時代に、ケンと二人で履修した講義の名を、ケンはぼそっと口にした。
「何、それ」
エマはケンの思いがけない冗談を聞いて笑い転げた。当然その晩はただ何をするでもなく、ソファの上で二人はコメディ映画を見て過ごした。
***
「ほら」
ラップトップに向かっていたエマの頭に、軽く何かが当たった。
振り返ると、タクが真新しい論文誌を持って立っていた。
「掲載、おめでとう」
「ラボでワインを開けるなんて、私の結婚式以来だな」
教授は微笑んでグラスを傾けた。
「あら、それは光栄」エマは紙皿の上からプレッツェルを取って口に運んだ。「ドレス、着て来ればよかったかしら」
「セキュリティに止められずに、ここまで入ってこられない」すでに赤い顔をしたケンが笑う。
「着て来るわけないじゃない!持ってくるの」
実習室は久しぶりに笑い声に包まれ、エマも束の間、自身の遠大な研究課題を頭から追い出すことができた。
「ひとつ、私から提案が」
宴席がひと段落する頃、少し真面目な顔になった教授が切り出した。
「エマの部屋の文明は、すでに我々のものをはるかに凌駕しつつあるようだな」
ラボ内の、誰もが心に留めつつ、それでも何となく切り出せなかった事由であった。
「ええ、すでに連邦政府に報告を上げています。もちろん煩雑なので、人任せですが」
「放射線などの研究もおこなわれていない?」
「はい。詳しくはわからなかったんですが、これは相当特異なケースだと」
「どうだろう」教授は一層、声を低めた。「我々の研究に利するのであれば、是非エマの部屋を訪問し、それを観察したいのだが」
その言葉は、まさにラボ一同の思いを代弁していた。
技術やその機序を看取できる程度まで興起した文明に接近するということは、明らかに政府の定める接触制限を逸脱している。しかしながら、自身の研究に利するかもしれないという誘惑が、いまや研究室の誰をも捕えて離さなかった。
長い沈黙は、まさにそんな一同の思いを代弁しているかのように思われた。
***
軽い金属の音とともにドアが開く。
「どうぞ」
緊張気味のエマの声。
照明を点ける小さな電子音。
大勢が室内に入る、足音。
「これは……」
室内の誰もが、目の前の状況に目を見張った。
部屋の一隅に展開していた文明は――正確にはかつてそれが存在した場所には、何も存在していなかった。
もとあったエマの生活空間に戻っていたのではない。ただ虚無、としか表現できない状態が目の前に展開していたのである。
「エクスポネンシャル・カーブ」
教授が呻くようにつぶやいた。
いつか、彼が講義で指し示した科学史と、その発展をXY軸上に示した図。ある時期までは緩やかに伸長を続けるが、ひとつの段階を経た時点でそれは指数関数的に増大し、まさに一瞬のうちに想像をはるかに超えた値に到達する。
「こうなるのは必然、か」
その言葉に誰も呼応するものはなく、ただ一同黙って目の前の虚無に目を向けるのみであった。
終




