第十夜|ニューエイジ
author: 紋甲メリー
起き抜けに熱が出る。喉の乾きと尿意がいちどきに襲ってくる。ここ数年はいつもそうだ。血圧、もしくは血糖値、もしくはその両方。霊感の過ぎ去った朝には、身体の心棒をどこかに置き忘れてきたような鈍い感覚が残る。白くつめたい洋式便器に向かって放尿すると、ついに書き留められることのなかった言葉たちが膀胱からするすると抜け出して、水の中で淡い金色に薄まっていく。
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近所のハスキー犬の口の中で○○を迎えたぼくは、それから堰を切ったような勢いで詩を書きはじめた。ずっと昔、まだぼくが詰襟の学生服を着ていた頃のことだ。時を同じくしてインターネット黎明期が起こった。ぼくは紙と鉛筆のかわりにキーボードを使うようになり、同時代の詩人のためのサークルがウェブ上に次々と発生していくのを見た。そこでは多くの詩人たちが自作の詩を投稿したり、他人の詩を品評したり、次の朗読会の日取りについて議論したりしていた。
ぼくが所属するサークルの主催者は同じ市内に住んでいる詩人夫妻だった。いま思えばその偶然がぼくの背中を押したのだろう。メールで伝えられた「月」という名前のダイニングバーに入ると、そこはすでに詩人たちの貸切になっていた。薄暗いというよりは暗すぎる店で、倒木から生える茸のような形の照明が天井近くに点々と配されており、壁にはいかにも屋号にふさわしく『月に吠える』の銅版画が飾られていた。その隣にかろうじて見えるのは『月夜のでんしんばしら』で、他にもぼくの知らない絵がたくさんあった。あれはもしかしたら月を主題にした連作だったのかもしれない。店内には床が一段高くなっている場所があって、そこが朗読の舞台だった。詩人たちは小学校の教室ほどの空間のそこここに養殖の牡蠣のように身を寄せ合って座っていた。中にはテーブルを巡りながら手製の詩集を売り歩く商魂たくましい男もいた。つるっとした童顔に太いセルフレームの眼鏡が印象的な人物で、なぜか詩人たちはその男を「王子」と呼んでいた。一冊一五〇円だというのでためしに買ってみたが、それは紙をふたつ折りにしてホチキスで綴じただけの身軽な作りで、少しでも風が吹けばたちまち空に飛び立ってしまいそうに感じられた。
別の詩人がぼくの隣に座った。まるで最初からそこに座っていたかのような自然さで。詩人の胸の名札には王女ではなく「スミカ」と書かれていた。それでもぼくは玉座の前に立たされているような気がした。スミカさんは石になったぼくの顔を手元の名簿と見比べながら「○○さんは今回が初参加ですね」と言った。白髪の混じったスミカさんの髪は微弱な電流のようなものを帯びているらしく、微笑むたびに細い毛先がふわりと逆立って宙に浮いた。
「若い方もいらっしゃる会ですから、どうぞ楽しんでいってください」そう言われて店内を見渡してみると、たしかにスミカさんの言葉通りだった。薄闇の中にひっそりと手足を浸し、ぼくと同じように垢抜けない服を着た十代の詩人たちは、穴の開いたルーズリーフの束を目の前のテーブルに広げたまま無言で宙の一点を睨んでいた。
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一九八〇年代から九〇年代にかけて流行したシベリアン・ハスキーの飼育熱は、その十年後には早くも風前の灯火となっていたが、それでもぼくの周囲にはまだ多くの犬たちが生き残っていた。彼らはたいてい家の外にいて、日当たりの乏しい裏庭やガレージの片隅に大きな身体を丸めていた。当時はよほどの小型犬でなければ外に繋ぐのが普通だった。ぼくの姿を認めると犬たちは億劫そうに尻尾を振りながら寄ってきた。彼らの毛皮はいつでもひどく臭った。何度か背中を撫でてやると、粘り気のある皮脂が薄く指先にまとわりついて、最後に洗われてからずいぶん時間が経っているのがわかった。
ぼくは雄のハスキー犬を探していた。そしていつの頃からか彼らと○○なかかわりを持つようになった。鉄柵に隔てられているせいで○○することはできなかったが、別の方法はいくらでもあった。放課後、塾の帰り、ぼくは知らない町内に迷い込んだふりをして、家々の生垣の中を一軒ずつ覗いて歩いた。ときには彼らの散歩中にこっそり後を尾けることさえした。新しい犬を見つけるたびに地図の赤丸が増えていった。人生のごく限られた一時期、ぼくが詩を書けなくなるまでそれは続いた。
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舞台にスミカさんが上がった。顎下で綺麗に切り揃えられたスミカさんの髪はいまや誰の目にも明らかなほど膨らんでいて、塩辛い海面を漂う巨大なくらげのようだった。スミカさんの後にもうひとりマイクを握った男が続いて、ぼそぼそと聞き取りにくい声で開会の挨拶を始めた。ぼくはそのとき男がスミカさんの夫であることを知った。
スミカさん夫妻が舞台の袖に姿を消してしまうと、かわって格子柄のシャツを着た初老の男が壇上に進み出た。分厚い老眼鏡のレンズが油を塗ったようにぎらぎらと光を反射していた。男はポケットに片手を突っ込んだままぶっきらぼうに口を開いた。それは怒りについての詩だった。もう片方の手が震えながら空を切ると、そこから一陣の風が巻き起こり、ふぞろいな脚韻が横倒しになって吹き飛び、壁に叩きつけられて粉々になった。男はそれでも足りないとばかりに両足で舞台を踏み鳴らした。スミカさんの飲み残したジンジャーエールのグラスが突然の振動に驚いて飛び上がるのが見えた。そんなふうに詩を読んでも怒られないということがぼくにとっても驚きだった。真昼のような地明かりに照らされた男の背後には異形めいた影が伸び、硬い体毛が手首を飛び越えて指の第一関節のあたりにまで生えていた。
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犬たちの視線の高さに合わせてしゃがみこむと、重たい湿り気を帯びた地表面の空気がぐっと近付き、ぼくの身体は夜の死角に沈んで見えなくなる。犬たちは狭い柵の隙間から鼻だけ出してぼくの指を嗅ぎ回る。彼らよりもずっと器用に波打ち、引き寄せ、巻き付くことのできる指。そして犬たちはなにかを期待するように視線を反らす。
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ぼくの名前が呼ばれたとき、すでに詩人たちはあらかた変身を終えていた。それまで人間の目鼻を形作っていたものが水銀のように溶け落ち、その下から黒々とした獣の被毛や、するどく湾曲する棘の備わった鱗片などが見え隠れしていた。まばゆい壇上から眺める店内は暗視カメラに映った夜の森で、四方の壁を強靭な蔦が這いのぼり、凍りついた銅版画の世界を平らげながら際限なく広がり続けているようだった。あらゆる藪、あらゆる梢、あらゆる水辺に野生の詩人たちが息を潜めていた。まばたきと同じ速度で明滅する目。ひきつれたぼくの声がマイクに増幅されて届くと、詩人たちの貌がいっせいにこちらを向いた。
手くらがりから詩篇は
あふれる
ひと群れの鳩が雲に飲まれる
(わたしが眠っている隣で)
晴れた記憶野にからしの種を播く
轍のぬかるみに空が映っている
いきものたちはみな早起きで
時々あわてたように小さな糞をする
ここへはひとりで来たのか
あるいは別のだれかと
透ける木立 あどけない春の地勢が
押し戻されてゆく夜のさなかに
原稿はここで途切れていた。そこから先は考えていなかった。家を出る直前まで悩んでどうしても書けなかった部分だった。ぼくは地図を持たない旅行者のように立ち尽くしたまま、最後に残った四行分の空白を眺めた。書かれていない詩を読むこと。それはぼくにとって未知の体験だった。ジャズの即興のように。まるでそこに本当になにかが書かれているみたいに。群れなす詩人たちにはらわたを喰われてしまう前に。
ぼくは犬たちの赤黒い○○○のことを思った。ぼくの手の中で滑稽なほど脈打つ○○○のことを、尿よりも疾くほとばしる水っぽい○○のことを思った。こわばった唇をふたたび開くと、不時着、という言葉が勢いまかせに飛び出してきて、それから視界に燃えるような藍色が降りてきた。
闇の中からまばらな拍手が上がるのが聞こえた。どうにか助かったらしい、とぼくは思った。席に戻った後もぼくの鼻腔は嗅覚を失って乾いたままだった。額の左半分が火の粉でも浴びたかのように熱を持っていた。そして忘れていた尿意が下半身にひたひたと押し寄せるのを感じた。
ぼくは隣のスミカさんに手洗いの場所を尋ねた。スミカさんは静かに笑いながら、光る無数の腕で店の外を指し示した。




