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デカメロン同人  作者: 権兵衛(管理人)
2/201

第一夜|湯治

author: 権兵衛


バスはつづら折りの坂道を勢いよく走る。

バネのいかれた座席の上で、バスが揺れるたびに俺の腰に疼痛が走る。

俺はうめき声をこらえ、前の座席の背に強くしがみつく。


後ろで子連れの若い夫婦が、車窓の外の早咲き桜の話をしている。

緋寒桜だ、いや河津桜だと品定めする声の合間に、子供らの笑い声がする。

夫婦の子供らだろう、振り返らなくとも風情でわかる。明らかに俺の様子を見て笑っている。

にらみ返して黙らせてやりたい、と一瞬考えたが、いい大人が年端もいかぬ子どもにすることではない。

俺はいっそう不機嫌な顔になって、座席を抱く両腕に力を込めた。


「お客さん、長野原からお乗りなら5文だよ」

やっとの思いでタラップを降りた俺の頭に、無慈悲な言葉が降ってきた。

腰の痛みをこらえつつ、俺はゆっくりと運転手の方へ首を捻じ曲げた。

「……」

運転手は俺の顔を見てごくりと生唾を飲み込み、次に吐くべき言葉を探しているようだった。

俺はいよいよ焦って軍人手帳をしまい込んだ尻ポケットの中に手を突っ込む。

探れば探るほど、散々痛めつけられた腰の骨が悲鳴を上げる。脂汗が俺の額を伝う。

ちょっと、待ってくれよ。そう言おうとした俺の喉から、乾ききったうめき声だけが漏れた。

「いいです、いいです。もう何も言いますまい」

妙に上ずった声を上げて、運転手は扉を閉じた。

「あっ、おい」

やっと声を絞り出したときには、すでにバスは砂煙を立てて車庫の方へと消えてしまった。

腰の痛みが幾分和らぐまで、俺は尻のポケットに手を突っ込んだままその場に立ち尽くした。


***


「軍人さん、骨だろ」

手汗まみれのペンで何とか自分の名を書き終えた俺に、番頭は言った。

「あぁ?」

自分でも驚くくらいぞんざいな返答をしてしまったが、番頭の表情は変わらず微笑したまま。

先程の運転手のことが頭をかすめて、つぐなうように俺は問い返した。

「ほ、骨」

「都鹿の湯は金創医いらず」昔からの地口の一節を、謡うように番頭は言った。「血の病にしては顔色がいい。

あとは、長年の勘だね。骨の痛みじゃ、ないですか」

「ご名答」俺は番頭との会話で、多少痛みが遠のくのを感じつつ、軍人手帳を受け取った。

「残念ながら、名誉の負傷ではないけどね」

言ってから俺は後悔した。どうして我身に不利になることを、問われもせずに言う必要がある?

「何にせよ、お国のための立派なお勤め」

お追従にも取れそうなその返答は、驚くほどすんなり俺の心に入りこみ、腰の疼痛をさらに優しく包み込んだ。

これが噂に聞く、祁州商人の弁舌というやつか。

何だか俺はやたらと感じ入ってしまい、苦笑しつつも、出された釣銭を再び番頭の方へ押し返した。


***


俺の腰を気遣ってか、番頭は一階の縁台つきの部屋に通してくれた。

久しぶりに和服に袖を通した俺は、縁台にどっかと腰を落とし、腰をかばうようにガラス戸にもたれ、

ぼんやりとしていた。

ようやく何かを考える余裕のできた頭に、さっそく演習の際の銃声と、兵隊たちの吶喊の記憶がよみがえってきた。

沼地を行軍するための緑色の網。泥炭にまみれて固縛した即席の橋梁。

慌ただしい軍隊生活を象徴するはずのそれらの物に、正体不明の感傷が纏いついていることに俺は気づいた。

俺はそれが不思議と悲しく、何だか泣きそうになった。

顔を上げると、湯女たちが楽しそうに連れ立って歩いていくのが見える。

休暇で街に繰り出したときであれば、勇んで彼女らに近づき声をかけたであろう俺も、

不思議と今は全くそんな気持ちが起こらない。きつい湯の華の香りとともに、それでも女たちの使う

石鹸の匂いが少し鼻に残り、俺はただ素直に、それが芳しいと思った。

怪我は、俺の野性の部分をも矯めてしまうものだろうか。俺は、先ほどとは違う理由で再び感傷的になった。


***


肩まで湯に浸かる。この地方の温泉に独特の強い酸が皮膚に沁み入るように刺激する。

「ああー」

年寄じみた声が漏れる。感傷と腰の痛みがうまく温泉の酸に中和されるのがわかる。このまま、ずっとこうしていたいものだ。

ふと湯舟の対岸を見ると、俺よりもずっと若いように見える男が、湯の表面を手でばしゃばしゃとかき混ぜている。

「どちらから入らしたかね」

先程来の感傷に、旅先の人恋しさも手伝ってか、俺は気づくとその男に話しかけていた。

「はあ、私は土地のもんですが」

俺は湯をかき分けて、その男の近くで歩みを止めた。

「地元の人か。ここは宿専用の湯ではないのかな」

「はあ。おっしゃる通りで」

「こんな良い湯にいつも浸かれるとは、羨ましいね。俺は湯治で、さっき来た」

「はあ、京師からですか」

「そう見えるかね。俺は水軍の下士官だから、大湊から来た」

「はあ、軍人さんで。これはお見逸れしまして」

「そんな、えらいもんでもないよ…」

地方人は皆そういうね。と言葉を継ごうとして、俺ははたと気づいた。

これから先、同じように俺は答えることができるだろうか。俺に創傷の予後のことを告げたあと、軍医はどこかあきらめを込めた

面持ちで、俺に祁州の山奥への湯治を勧めてはいなかったか。

俺は全く、暗澹たる気持ちになってしまった。

「手負いの熊も、湯の中では鹿を襲わないというじゃないかね」

気づけば、考えもせずあらぬことを口走っていた。

言ってから、俺はしまったと思った。言葉の選び方が、どう好意的にとってもただごとではなかった。

果たして、若者は目を丸くして、いささか身をこわばらせている。

「……」

俺はこの期に及んで弁解するのも剣呑だと思い、いっそ顔を半分湯に潜らせて、ゆっくりと泡を立てて息を吐きだした。

若者はぺこりと俺に向かって一礼し、そそくさと浴場から出て行った。


***


その半時後、俺は酒屋の軒先にいた。

湯の効能からか、腰の痛みがかなり収まったのが嬉しく、また暫く厄介になるであろうここらの地理に慣れておくためにぶらりと散歩に出たのだったが、出てしばらくも経たぬうちに、俺は雨に降られたのだった。

無言で雨空を見上げる。背後からは酒の香りがする。軍営ではろくに口にする機会もない酒の香りを嗅いでも、俺の心は以前のように浮き立つことはなかった。

俺は次第に焦り始めた。俺は肉体への傷痍のみならず、酒や女に対して取り返しのつかぬ不能を患ったのではないか?俺はこのまま萎えしぼんで、水軍どころか市井の生活に戻ることすら叶わず、山奥の温泉地で消え入るような、療養の半生を送ることになるのではなかろうか。

俺は、今度こそ少し涙ぐんだ。

「いかんな。なまじ旅先で気持ちが弱って…」

半ば照れ隠しで吐いた独り言だったが、あろうことか言い終わらぬうちにそれは嗚咽へと変わっており、やがて俺は人目も憚ることなく、声をあげて泣いていた。

背後で店のものか、客か、互いに囁き合うのが聞こえる。土地の訛りの強いためか、うまくは聞き取れないが、声の響きで何を案じているものか、おおよその察しはつく。

「申し、旦那さん」

俺はぎくりと肩を強ばらせた。心配して声をかけてくれているのはわかる。わかるのだが、大の男がぼろぼろ泣いている姿を衆目に晒すのは剣呑だ。俺は雨の中へと歩きだした。

「申し、旦那さん」

とぼけた声が俺の背後で繰り返す。びしょ濡れの頭の中で、俺はこのまま帰るわけにはいくまいと考えた。


***


雨足が強まり、あまつさえ祁州の日は短く、辺りはすっかり暗くなった。

人通りも絶えた温泉街の小道を歩く頼りは、道に薄く敷かれた白砂だけである。

俺は足を止め、ぼんやりと天を仰ぎ、ようやく嗚咽が止まったことを喜んだ。

両脇は町屋作りの民家に見えたが、黒い格子の奥をよく見ていると、朱い繻子に金襴を織り出した、華やかな着物の裾が見える。

「雨に降られてしまった。茶屋なら、ちょっと寄らせてほしいんだが…」

腰を折って格子を覗くと、骨が少し痛んだ。

「窓から話しかけるもんじゃ、ござんせんぜ」

舞妓が応ずると思ったら、飄逸な男の声が返ってきた。番頭のものとも思えない。

「向こうから、お上がんなさいよ」

次いで女の声。声に合わせて繻子が動くところを見ると、これは舞妓と思われた。

土塀が途切れて潜り戸を抜け、土間にたどり着いてようやく雨から逃れた。ずぶ濡れになった二重廻を脱ぐと、先程の声の主であろう小柄な男が手際よくそれを受け取った。

「腰が痛くてな…座敷に座れないかもしれん」

「湯治場ですから、そういうお客さんは大勢います」

あまり愛想のよくない口調で、男は答えた。俺は逆にその男に興味を引かれた。

「ここは古い廓なのかい」

男を追いかけながら俺は問うた。

「何と比べるかで、古いも新しいも」謎かけのような回答を、男は寄越した。相変わらず、愛想は全く感じられない。「ここらぐるりの廓の中では、まあ新しい方」

いつの間にか俺の二重廻は鴨居にかかっており、男は掘りごたつに朱い毛氈を敷いて、足早に立ち去った。

痛みを殺して掘り炬燵に腰を掛けると、ちょうど正面に居座る舞妓と差し向いになった。

「長野原の停車場と比べるなら、古い方ですかね」

俺はぎょっとして、声のした方を向いた。去ったはずの方向から、小男の首がにょきっと出て、俺に向かって片目をつぶった。

「なかなか手練れだね、あの幇間は」

俺は苦笑して舞妓に言った。

「気に入ったなら、呼んでおあげよ」

「いやあ、よすよ。今日は雨宿りに入っただけだ」

舞妓は俺の顔をしばらく見ている。俺は極まりが悪くなって、あらぬ方へ眼をそらした。

「雨だけじゃ、そうはならないね。何かあったかい」

ため息と呻り声の、どちらともつかぬものが、俺の口から洩れる。

「あったよ。大いにあった。あったから、大いに泣いたのさ」俺は半ばやぶれかぶれで、節をつけるように述懐した。「箆棒め」

「そうとも限らない、女衆は泣くに理由なんぞ要りんせん」

俺は思わず、大きく目を見開いて、舞妓のほうを見た。

舞妓は大げさに、芝居がかったしなを作って俺を見た。

「まあ、大きな眼」


***


このあと、滅茶苦茶セックスした。

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