第九夜|Dear Ms. Cindy Kwoh
author: 権兵衛
「う……」
自分のうめき声で起きるなんて、何ていやな寝起き。
最近、生理がどんどん重くなる。ゆうべ睡眠導入剤と一緒に飲んだ鎮痛剤の、副作用だけ来た感じ。つまり、猛烈な吐き気と胸のむかつき。
「Sucks」
最近の口癖が、完全に無意識に口からこぼれ落ちる。
Sucksが口癖だなんて、なんて寂しい人生?
やたら羽振りのいいお客におごってもらった時、アタシ自身が吐いたセリフを、ちらっと思い出した。
でも結局、一回きりだったな。きっとあのお客はあの時よりもずっと羽振りよくなって、ここら界隈のもっと格上の廓にでも通っているんだろう。
「Sucks」
申し訳ないけど、2回目に吐いた言葉は、たまたま思い浮かべた、その成り上がり商人の福々しい笑顔に向けて。完全に八つ当たりだ。
――なんだ、布袋和尚みたいな顔しやがって。
***
「世外桃源、藍海碧――波――」
ようよう寝床から身を起こしたところで、頭上から甲高い声が響いてくる。
「あ~……」この体調で、この声を聞くのは、つらいな。しかも真上から。
声とともに、複数人の足音。すり足気味で歩き回るようだが、ただの板張りの床だ。うるさくないわけがない。
葉巻とシガーソケット、あとは……。
「蓬莱八仙、世外仙――島――」
「ああ、もう!」
頭を掻きむしりつつナイトキャップをかなぐり捨てる。アタシは葉巻をくわえて窓から路地に出て、「nitti-gritti」の外壁に永遠に組まれたままになってる塗装用の足場を登った。
「あ、やべえ」
葉巻に火をつけるの、忘れた。くそ、強烈なメンソールで少しは気が紛れるはずだったのに。
ちなみに「nitti-gritti」は去年ウチの隣にできたやたらとオシャレな店で、アタシの寝てる時間にしか開いてないから、何を売ってるのかは知らない。
足場を登り切ったアタシは、向かい側の二階、つまり、アタシの部屋の真上の板間にいた連中に声をかけた。芝居の稽古してやがる。
「ちょっと」
うるせえよ。しかも、鳴り物つきの稽古じゃねえか。
自分でも、そう続けたつもりだったけど、鳴り物の音が大きすぎて、アタシも何を言ったかわからない。
バルコニーの側で見得を切っていた爺さんだけがアタシの存在に気づき、こっちを向いた。
「げ」
アタシは顔をしかめた。爺さんの扮装をしているが、こいつは近所の鄭九だ。
「何でもない。ちょっと見に来ただけ」
アタシは咄嗟に嘘をついた。と思う。聞こえねえ。
それでも、鳴り物連中は演奏をやめやしない。鄭九はアタシに向かって何か言ってるが、アタシ自身の声が聞こえないんだから、奴さんの声が聞こえるワケない。聞こえないから、西日に照らされた奴さんの顔が、いつもよりも暑苦しい。
たぶん、元気かい、とか、そんな所に登って危ないよ、とか、いつも通りの無駄話だ。
「一生やってろ。そしてもう二度と来んな。ウチに」
爆音にかこつけて、胸のむかつきとともに本音をぶちまけた途端、まあ、こういうもんだよね、世の中って。鳴り物が一斉に鳴り止んだ。
当然、アタシの言葉の途中で鳴り止んだわけで、一番聞かれたくない部分だけが向かいの板間……というか、媽祖巷じゅうに響き渡った、と思う。
「阿慈」
泣きそうになった鄭九が、やたら芝居がかった声で呼んだ私の名前も、媽祖巷じゅうに響き渡った、と思う。
「Sucks」
今日、3度目のSucks。先様同様、衷心からのSucksだった。
***
その晩、鄭九が絶対に来るだろうと思って、奴さんのねじ込みに対してどうやって言い返そうか、そればっかり考えて過ごした。
でも、奴さんは来なかった。代わりに近所のガキが、こういう場合は100%オスのガキなんだな。必ず2~3人の小隊を編成しては店先に現れ、うれしそーに「阿慈」と叫んでは逃げて行く。
ブチ切れたマダムが、ガキ共に本気で使用済みの料理油をぶっかける。数分後、料理油まみれのガキ共がわざわざ戻ってきて、もう一度アタシの名前を叫んで逃げていく。
「男って、ほんとにしょうもない。それとも、アタシの男運が悪いだけ?」息を切らして戻ってくるマダムに、私は言った。
「あんたの場合、自分から引き寄せてんのよ。しょうもない面倒ごとを」巻き煙草に火をつけて、マダムはソファに腰を下ろした。
「ひっど。……まあ、それもそうか」
「運だの、男女の相性だの、そういうぼんやりした話じゃなくてね。もうちょっとちゃんとしなさい。生活習慣とか」
「正論すぎて、ぐうの音も出ないわ」アタシは苦笑した。
「そしたら、相手もちゃんと惚れてくれるわよ」
「……ちょっと待って。それじゃ鄭九がアタシにつきまとうのも、アタシのせいみたいじゃん」
「誰も、鄭九だなんて言ってないわよ。さっきのガキも含め、男全般」
「……」
「そもそも、あいつ妻子持ちでしょ」マダムは笑う。「アンタがちゃんとしたら、アンタに甘えることもしなくなるわ」
「あいつ、アタシに甘えてるんだ……」
「はたから見れば、そう見えるわ。アンタ達のしてることは、恋愛とは全く関係ない」
マダムの放った言葉は、ここ最近で一番グサッときた。
そして、グサッときたことにも、グサッときた。アタシは鄭九と恋愛してるつもりになってたってことじゃん……。
はあ、ちゃんとしよ。アタシ。
***
翌朝。
……じゃないや。もうPM2だ。今日は階上からドタバタは聞こえて来ず。
代わりにキョーレツな線香の匂い。生理痛と寝不足にはキツいだろうって思うよね?でもアタシはこの匂い、結構、好き。
胸いっぱいに吸い込んで布団の中で丸くなると、生理痛の「虫」みたいな奴がいぶされて、ウヘエって顔してるのが想像できるからね。
小さい時、お祖母ちゃんに連れられて金蘭観に行った時のことを思い出す。
お祖母ちゃんは呂洞賓の木像を前にひざまずいて、ずーっとお祈りしていたっけ。あまり長いことお祈りしているので、怖くなったアタシは拝殿を出て、近くにいる大人を呼びに行ったことさえあった。「お祈りしてるだけだよ」と、その大人は言った。
そりゃ、そうなんだけどさ。頭を拜垫に圧しつけたまま動かないお祖母ちゃんを見て、アタシは死んだと思ってたのかも。
やがてお経を読む道士の声が聞こえてくる。昨日のドタバタより100倍、脳にやさしい。
九天玄女娘娘。急急如律令。九天玄女娘娘。急急如律令。
アタシは素直に起き上がって、買い置きしてたクラッカーをミネラルウォーターで胃に流し込み、土間に下りた。
マダムはいないみたい。
アタシは玄関を出て素直に梯子階段を使って拝殿に上がってゆく。
昨日ほど西日はきつくない。
「nitti-gritti」は開店中の様子。何を売ってるか気になったけど、わざわざ通りに出て見に行くのも
億劫だな。それにオシャレな店に行くような衣装、そもそも持ってない。
拝殿にひょっこり顔を出すと、板間では丁度お経が終わったところだった。が、道士はたくさんいて、誰も声一つ発しない。
豚の丸焼きが、静止した道士たちの肩越しに見える。その向こうに、線香が山のように刺さってる。
何をしてるのかよくわからないけど、声をかけるような雰囲気じゃなかった。
まあ、鄭九が来てないことがわかっただけで充分だ。
***
たまに近所の人が来て、それよりももっと稀に旅行客が来て、奥の間でおしゃべりする。
気が向けば抱かれたし、けっこうもらえることが多い。
コロナだ何だで、今はみんな大変そうだけど、お嬢の仕事は意外と通常運転だ。
ただ、コロナのおかげで、おごってもらうことも減ってしまった。お客にしてみれば、同伴して、ある事ない事を言い散らしてこその女遊びだ。
UberEats使って、廓の中で食事するなんて、さえないもんね。
そういえば、前のあの一件以来、階上のドタバタも聞こえない。もう二週間になるだろうか。
午睡を邪魔されなくなって、アタシにとっては願ったりかなったり、だけど。
「――あれ?」
そこまで考えて、アタシは布団の中から顔を出した。鄭九、来ないな。
***
「何?」新聞から目を上げて、マダムがこちらを覗く。
「……葉巻、ある?できれば、キャメルじゃないやつ」
「ないわよ。……それで、何か用?」と再びマダム。
Sucks。
それとなく聞き出せるような人じゃなかった。
ていうか、アタシの切り出し方も、大概だわ。素直に、マダムに訊くことにした。
「いやぁ……鄭九、どうしてんのかなって」
「そういや、来ないね。アイツ」灰皿から紙巻タバコを拾い上げて、マダムは再び新聞に目を落とす。「聯誼会に聞いたら?」
それが、嫌だからマダムから聞き出そうと思ったのに。
アタシは言い返そうにも、うまい言い方が見つからなくて、ただ頭を掻いた。
***
案の定、聯誼会に行ったら入り口の掲示板に「公演中止のお知らせ」と張り紙されていた。
Sucks。
予定通り芝居が行われてれば、あれこれ聞き出すきっかけもあったのに。アタシは廓に向かって歩き出した。
「阿慈」
突然、名前を呼ばれて硬直した。
いや、驚いたからじゃない。昼日中の往来で源氏名で呼ばれたのもあるけど、これ、明らかに子供の声じゃん。
振り向くと、知らないガキが立ってた。
いや、知っててたまるか。
ガキには、飴も鞭も使うことなく、鄭九の近況を知ることができた。
あの日以来、鄭九は寝込んだらしい。しかも、最初のうちはコロナじゃないかと大騒ぎになって、病院で何とかいう検査まで、受けさせられたって。
まずその噂が流れてることだけで、死にたいくらい恥ずかしいと思ったけど、聞いた途端アタシは爆笑していた。
ひとの口には戸は立てられぬとは言うけれど、それ、肌身に感じた。
「阿慈はいま何してるの」
ガキは口が軽い分、空気も読まなかった。
「うるせえよ。ガキは家に帰ってマスでもかいてろ」
アタシは可哀そうなガキに、心からの悪態をついた。
***
そんな事があるまで、アタシは鄭九が来なくなって、心底せいせいしてた。
……いや、ホントだってば。鄭九の動静が知りたくなったのは、アイツが来なくてせいせいしたにしても、突然来られてもイヤだから、せめて来なくなった理由を知っておこうと思っただけ。それに。
それに、アタシは生来、しつこい男が嫌いだし、たとえお嬢だろうが、女の子には話しかけていいタイミングと内容ってもんがあるでしょ?
鄭九はそこらへん、全然デリカシーがないし、脈絡もない由なし事を話しかけられても、一向に気分は上がらない。
だから、確かにアタシは、鄭九には嫌悪感を抱いてた、それなのに。
誰かが言ってた通り、憐憫と愛情は紙一重だったみたい。アタシはガキとの邂逅を境に、もう四六時中、鄭九の暑苦しい顔を思い浮かべては、会いに行きたい、しょうもないことで話しかけられて、鼻であしらいたい。そんなことばっかり考えるようになった。
***
生理痛の波がおさまるのと、コロナがひと段落して、廓のまわりにも人出が戻り始めるのは、だいたい同じくらいのタイミングだった。
鄭九は依然、アタシの前には現れなかった。
「アンタがちゃんとしたら、アンタに甘えることもしなくなるわ」
マダムの言葉はいつまでもアタシの心に突き刺さったままだったけど、アタシは故意にそれまでの自堕落を通そうとした。
だって、鄭九に会いたいから。朋輩お嬢とは明け方までダベったし、「nitti-gritti」も覗きに行かなかった。そうすれば、すぐにでも鄭九が会いに来るような気がしたから。
でも、願ったときほど、うまく進まないのが浮世の常ってやつ。ひと段落したとはいえ、聯誼会の掲示板に再公演の掲示が出されることもなかった。
Sucks。
多分アタシは、掲示板を前にしては、ひと月で150回くらい悪態ついた。
***
「自堕落にしてたって、鄭九は会いに来ないわよ」
生理痛の波がすっかり引いたころ、マダムはそれまでの世間話と全く変わらぬ口調で、アタシに宣告した。
「え」
アタシは目の高さに挙げたまま箸を止めた。ビーフンが音もたてず全部箸の間から抜け出して、テーブルの上にきれいにとぐろを巻いた。
「何それ……」
はぐらかす気満々で言い返したはいいが、勝ち目のないアタシはすぐに素直になった。
「……わかる?」
「わかる。どうせ私が言ったこと、逆手に取った気になってんでしょ」すっごいドヤ顔で、マダムは"鶏とエビのチリソース炒め"を頬張った。
「奴さんね、芝居か職場か知らないけど、大目玉喰らったらしいわ。いつまで引きこもってるんだって」
マダムはそれを聯誼会の人から聞いたらしい。
「へえ……」
こいつだけは、敵に回したくないな。アタシは改めて目の前の年増に恐怖を感じ、テーブルの上のビーフンを紙ナフキンに包んだ。
「建築業も少しずつ動き始めてるからね。今は大忙しらしい」
話が逸れはじめたことにホッとしたアタシは、改めて人目を忍んで鄭九に会う方法を考え始めた。
***
劇的な展開を期待してた人してた人には悪いけど、アタシは普通に朋輩お嬢に相談して、鄭九に引き合わせてもらうことにした。
作戦を立てたりするのが苦手なの、アタシ自身よくわかってるからね。
ただ、知恵の回る朋輩お嬢の提案で、例のガキ2、3人を引き入れて走ってもらった。それだって、別にここであえて話すほどハデなもんじゃない。
ただ、鄭九が帰ってくるタイミングですかさず走って行って、ちょっと耳打ちするだけの事。それを2、3人に交代でやらせただけ。
もちろん、今回は飴を使って。
女郎が、一人の客とヨリを戻すだけ。
こんな他愛ない話、アタシだったら聞く気も起きないわ。
でも、それがアタシ自身となると話は別。
「nitti-gritti」の店内。予想通りのオシャレな内装。嗅いだこともない上品な、柑橘系の香り。そして、相変わらず小さすぎるショーケースには
何が売られてるかわからない。
「来た」
そこへ精一杯身ぎれいにした朋輩お嬢が入ってくる。
なんでお前が身ぎれいにしてるんだ。アタシは可笑しくて、思わず噴き出した。もちろん、「nitti-gritti」に相応しい、いけ好かない笑い方で噴き出したのでございますよ。
「あいつ、アンタにぶん殴られると思ってる」可笑しくてたまらない様子で、朋輩お嬢は述懐した。「可笑しいったら」
ふた言目でお里が知れるのも、アタシら媽祖巷お嬢の面目躍如といえる。
「任しといて。うなりをつけてビンタくれてやる」
アタシは腕をまくって、想い人を出迎えるために、席を立った。
終




