第七夜|ドラーゴシュ・ペーテル社長の設計競技
author: 権兵衛
おれが独り身だったころ
家のおもてで ちょっとおどけて
一声 二声 騒いでやれば
皆すぐに おれに気づいたものだった
おれが妻子を持ったなら
家のおもてで うんとおどけて
ああだ こうだと 騒いでいても
もう誰も おれの声だと気づかない
――ハンガリー民謡 "おれが独り身だったころ"より
***
「朝から、実に不快な外観だ。甚だ、不快だ」
窓台に手をつき、"あの建物"を苦々しい顔で見下ろしつつ、人差し指の先だけで続けざまに音を鳴らす。
この慣習のおかげで、窓台のある部分の漆喰だけが円く剥げ落ち、組積造の地肌が見えてしまっている。
「アンタル君、あれが見えるかね?」
不意にドラーゴシュ社長が振り返る。怒気をはらんだ声が傍らに佇むアンタルの耳を轟かせた。
「わざわざ、窓際に行かねば見えぬものを……好き好んでそこから覗き込むことはないだろ」
アンタルは苦笑して、主人にすすめられることなく部屋の椅子に掛けた。
ドラーゴシュ社長はそれについて特に気に留める様子もなく、ただ友人と分かち合う事のできなかった苦悩を持て余したように大げさに天を仰いだ。
「少なくとも、君はあれを不快に思っているということだ。覗き込む必要すらない、と。そうだろ?」
「まあ、それについては、その通り。そうでなければ、今日こうして君と話はしていないよ」
永年の付き合いでこの大音声にも慣れてしまったアンタルは、熱いコーヒーを出してくれる事務係でも通らないものかと
そればかり気にしながら、先程からちらちらと廊下の方へ目をくれるのだった。
文字にしてしまうと判りにくいが、冒頭の独白部分を含め、ドラーゴシュ社長の音声は大変大きく、ホルド通り1号の4階に位置するこの建築事務所から、同区画のいくつかの建物を隔て、ちょうど対角線上に位置するカフェの店員がドラーゴシュ社長の怒鳴り声を聞いたというから相当なものである。
「私はあれを、幼いころから見ていた。幼心に、本当にひどい意匠だと思った。新古典建築だか何だか知らないが……」
「あれをもって一概に新古典建築を悪しざまに言うのは、あたらないとは思うがね」
ドラーゴシュ社長の息継ぎする瞬間を狙って、アンタルは斯界の人士としての務めをなんとか果たしてみせた。
しかし、それをドラーゴシュ社長が聞き入れるかどうかは、話が別である。
「私はあの建物を憎むあまり、二年半前にこのホルド通りに事務所を構えたのだよ。あの呪われたバスチーユを日々目の当たりにすることによって、私の闘争心は弥が上にも……」
「ペーテル、悪いけどコーヒーくれないか?熱いの」
ドラーゴシュ社長は息継ぎの狭間を突かれて、腕を広げた姿勢のまま、幾度か目をしばたたかせた。
***
「まあ、君が"あの建物"に費やす情熱のほどは、よく理解しているよ」
ようやく熱いコーヒーにありついたアンタルは、目を細めながらカップを傾ける。
「わが東都一円の石工連中は言うに及ばず、商工会議所、果ては西都のやんごとなき向きからも、君の名前が出てくる。東都ホルド通りのドラーゴシュ・ペーテル社長は、相変わらずあの"バスチーユ"牢獄の再開発にご執心らしいね、と」
「それだけじゃないぞ。国内外のユダヤ人協会にも照会している。"あの建物"に関わる新規の再開発、入札、売買の動きがあったら、すぐこのドラーゴシュ社長に伝えるようにと……奴らこそ、最も情報が早いからな」
ドラーゴシュ社長は言いながら、ドイツ語で書かれた趣意書を革の封筒から引っ張り出し、アンタルの前に放り投げてみせた。
アンタルは眉を寄せて書面に目を走らせた。西都出身の国王陛下が東都の聖職者たちに膨大な額の融資をする代わりに彼らの資産の大部分を抵当に入れてしまった前世紀の顛末から始まり、受戻し金の使い道として、国王陛下が東都に"奇抜かつ用途不明の"四角い建物を建設するに至った経緯まで、事細かに記されてあった。
「……」
アンタルにとって、この文面は真新しいものではない。必ず一回は東都の人間の口の端にのぼる話題であったし、何よりも聞き飽きるほどこのドラーゴシュ社長から聞かされていたからである。
***
「少し話は戻るが」書類をドラーゴシュ社長の方へ押し戻しながら、アンタルは言った。「商工会議所にも、君はこの件を照会していたっけ」
それがどうした、とばかりにドラーゴシュ社長は首をかしげる。旧友にそれ以上の反応がないことを確かめると、アンタルは続けた。
「かの会頭の反応はどうだったね」
「話すほどの事はない。情報を入手次第、お知らせする、とか何とか言っていただけだ」
「もしや、頭の禿げた爺さんだった?」
「いいや、そいつの息子だ。すでに仕事を引き継いで、いっぱしの会頭として動き始めていたようだな」
「それは何より。……それだけかい」
「何だよ、それだけかい、てのは。俺はあったことを伝えたまでだ」
ドラーゴシュ社長は、早くも苛立った様子で身体を左右に大きくゆすった。それを明示的な警告と受け取ったアンタルは、急いで話題を変えた。
「いや、結構。ところで、本日お呼び立ての理由は何だい」
「そうだ、よく聞いてくれた。アンタル、旧友のよしみで、君に一肌脱いでほしいのだ」
「俺にできることなら、お役に立つよ」
ひとつの企みが、少しずつ形になるのを心のうちで感じつつ、アンタルは気のない返事を返してみせた。
***
その日、朝からドラーゴシュ社長は不機嫌であった。
石工のひとりとして他社の現場に紛れ込むということは、若い頃西都で見習いとして働いていた時と同様、あの悪夢のように不潔な飯場宿に寝泊りすることにほかならない。彼は万事うまく取り計らってくれるようアンタルに折り入って頼み込んだあとで、ようやくそれに気づいたのだった。
数十年のうちに不潔な宿に対する法制度も整えられ、いくつかの本当に危険な害虫の餌食になることは免れたが、石工たちの恐ろしく汚い寝床や、そこから突き出た素足の臭気は相変わらずだった。
さらには、その現場の石工頭は根っからの右岸気質で、ドラーゴシュ社長の片言隻語を耳にするや、立ちどころに彼が左岸育ちであることを見抜き、「マルク、あれを見ろ。わかるか?自動車といってな、お前の家のロバとは比べ物にならんくらい速いんだ」とからかった。
アンタルが苦し紛れにつけたと思しき、マルクという偽名もドラーゴシュ社長にとっては業腹だった。それはドラーゴシュ社長の跡取りとなる息子につけられるべき名だったのだが、結局のところドラーゴシュ夫妻に男の子は生まれることはなく、ようやく授かったひとり娘も親権とともに母親が持ち去ってしまっていたのである。
***
そんなことが立て続けに起きた朝のことであるから、上述の恐ろしく汚い飯場宿の前庭に連れてこられたドラーゴシュ社長も、内面の不機嫌さをあからさまに表情に出してそこに突っ立ったまま、居並ぶ石工たちを前に元気に自己紹介をしようなどとは思いもよらぬのであった。
一方、普段なら新入りが入ってきた日の朝は、そいつの帽子を取り上げたり、容貌を何か別の動物に例えて嘲笑したりするような、そんないわばありふれた伝統を持っていた石工たちも、ドラーゴシュ社長のひときわ魁偉な容貌と、前庭一帯に漂う正体不明の緊迫感のために、いずれもが些か居心地悪そうに、ただお互い怪訝そうな顔を見合わせるのであった。
ひとり件の石工頭だけは、久々に骨のありそうな左岸出身のこの見習いには、多少荒っぽく扱ったところで逃げ帰るべき故郷もなし、工期も若干押していることもあり、いよいよ張り切ってドラーゴシュ社長に対してあれこれと指図を出しはじめた。
もとより、目的を達するためなら多少の不自由は承知の上とて、ある程度腹をくくって現場に下りたドラーゴシュ社長であったが、前述のとおり、そもそも旧友に頭を下げたところから今に至るまでケチのつき通しである。挙げ句の果てに息子に名付けるべく後生大事に心に秘めていた名前でぞんざいに呼ばれ、言いつけられたことといえば石膏屑たたき、解体された旧い建物のがら出し、地中深く基礎を打ち込むための穴堀り等々、およそ建築に関係のない、思いつく限りの平凡な雑役であった。
もしかしたら、と後にドラーゴシュ社長は回想するのである。仮に、その日の不運がそこで尽きていてくれていたら、つつがなく目的を達成した俺は再びホルド通りの事務所に戻り、何事もなくいつも通りの生活に戻っていたことだろう、と。
しかしながら、現実はそのようにならなかった。その日の終業まぎわ、石工頭の直属の見習いが大きなへまをし、あろうことかそいつの名前がペーテルだったのである。
***
現場は大通りに面した大変に賑わいのある一角で、二階から上は恐らく客室に使われるのだろう、5つの金縁の華やかなアーチ窓と、均等にそれを隔てる窓あい壁によって外壁が形づくられていた。
そのもう一方のペーテル君は、一階の外壁の粗塗りをさっさと終えるために、座り込んだ姿勢のまま石膏の入った槽が載った幅広の天板を自分の傍らに引き寄せようとしたのだが、二階のアーチ窓に木枠をはめこんでいた指物職人が使っている梯子の片脚までが、その上に載っているとは思いもしなかったのである。
結果として、指物職人が畜生め、と思ったときにはすでに彼の鼻はしたたかに作りかけの窓台に打ちつけられており、うめき声を立てる暇もあらば、倒された梯子がそれよりも何倍も派手な音を立てて歩道の上に転がった。
「ペーテル、何してる。この唐変木の穀つぶしめ」
二階の内壁に切り石を積み上げていた石工頭が目ざとくそれを見つけ、階下の弟子を怒鳴りつける。幸い指物職人は後生大事に自分の鼻を両手でかばいつつ、地面の上を転げ回る程度のけがで済んだのだが、もう一方のペーテル君は極まりが悪いやら、申し訳ないやら、その場から動くこともせず、ただ指物職人を助けに集まってきた仕事仲間を呆けたようになって眺めるのみであった。
読者諸兄にはもうお分かりの事と思うが、割を食ったのは他方のペーテル君ことドラーゴシュ・ペーテル社長である。丸一日というもの、石工頭にあごで使われ、目的の建物はといえばちらりとも見ることができず、ようやく槽四杯分の割り栗石をドゥナ河沿いの資材置き場から現場まで運び終え、へとへとに疲れた状態でどっかと石膏粉の山の傍らに腰を落ち着けた途端、頭上から石工頭にどやしつけられたのである。
のちにドラーゴシュ社長の述懐するところによると、その時は自分が本当はペーテルで、あくまでもその場しのぎにマルクと名乗っていたことなどすっかり忘れていた云々というような、理性的な回想の及ぶ余地は一切なかったという。つまり、彼はこの出来事そのものを覚えておらず、後日まったく腑に落ちないとでも言いたげな顔つきで、当時の同僚の目撃談に耳を傾けるしかなかったのである。
いわく、彼は石工頭の怒鳴り声を聞くや、今までの疲れなど消し飛んだようにうっそりと立ち上がり、指物職人が落とした梯子を無言で立て直し、落ち着いた足取りでゆっくりとそれを上り、階上に立ちすくむ石工頭の両肩をがっしりと鷲掴みにし、「お前、これからいい子にするか、明日の夕方まで俺の折檻を受けるか、どっちがいい」と耳元でささやいたという。
かすれた声でいい子にします、と石工頭は答えたにもかかわらず、あるいはドラーゴシュ社長の耳には何も聞こえていなかったのか、あるいは端から選択肢などというものはなかったのか、次の瞬間、石工頭の口の中に、石工頭の口の二倍の容積をもつ切り石が差し入れられ、その次の瞬間、石工頭の身体は階下にうず高く積み上げられた石膏粉の山の中にあった。
「今でも思うのは」石工頭は回想する。「俺んとこのペーテルがのろまで、一階の石膏粉の山を片付けないでいてくれて本当によかった」
***
医者と看護婦が、少し遅れて巡査が駆けつけて騒ぎを収拾し、そのまた少しあとになって雇用主と、彼に呼びつけられた顧問弁護士と施主が散り始めた群衆の肩越しに建築現場をのぞき込んだ。
雇用主は、負傷した指物職人が無事病院へ運び出されつつあるのを見て胸をなでおろし、顧問弁護士は残された使用人や通行人の間に諍いがないのを見て胸をなでおろし、施主はといえば、何はともあれ建物には特に瑕疵が及んでいないのを見て胸をなでおろした。
「――おや」
雇用主も、顧問弁護士も、施主も同時に声をあげた。
雇用主がよく見ると、階下の大広間にあたる場所に、石膏粉が山と積み上げられている。それが時折わずかに崩れ落ちては、さらには中から声がした。
顧問弁護士がよく見ると、落着したように見えた使用人たちの間に緊張感が残り、彼らはじりじりと階上にたたずむ大柄な石工を中心に徐々にその輪を狭めつつあった。
施主がよく見ると、その標的たる階上にたたずむ大柄な石工には見覚えがあった。
「――お父様?」
出し抜けに施主が漏らした、その言葉があまりにも唐突すぎて、その場にいた全員の視線が彼女――施主はまだ若い女性であった――に集まった。
***
応接室に通されたそれぞれが、それぞれ自分の言い分を述べ終わると、巡査はそのいずれもが民事事件に属するものであり、あえて自分が介入する必要がないと知り幾分気を楽にした。
「さて皆さん、少し一息入れませんか。何か冷たい飲み物でも」巡査は言った。
「いらないわ」施主の女性が、ため息とともに言う。「何が起きてるか、ちゃんと頭で理解するまではね」
「冷たいものは結構、コーヒーを」顧問弁護士は言う。「申し上げた通り、ドラーゴシュさん。検事が動かないにしても、民法に基き、シュミットさんからあなたに釈明を求めることはできるんですよ」
「炭酸水をくれ」シュミットと呼ばれた雇用主が言う。「その通り。身分を隠して他社の現場に潜り込むなど、道義上いかにしても許容できるものでは……」
「ビール。……駄目?ではコーヒーを」とドラーゴシュ社長。「民事訴訟なら、そこの弁護士さんを通して、うちの弁護士さんに伝えてくれ。今は聞く耳もたん」
「酢を」部屋の片隅にうずくまった石工頭がさえぎる。「まだ口の中に石膏が。中和したい」
「……であるにしても」
部屋をあとにした巡査を目で追って、シュミットは低い声でつぶやく。
「せめて、何のために潜り込んだか話したまえよ。こちらとしても、それで手打ちにしようと提案してるのだから……」
「民事訴訟なら、そこの弁護士さんを通して、うちの弁護士さんに伝えてくれ。今は聞く耳もたん」ドラーゴシュ社長は全く同じ口調で繰り返すと、どこから取り出したのか、もはや手元の組木パズルに全神経を集中している。
「さっき、あの男性を"お父様"と呼んでしまったこと、取り下げられないかしら」
しばらくの沈黙の後、施主の女性が弁護士に向かって口を開いた。
「驚きのあまり、つい習慣的に呼んでしまったの。今後の調停に影響しないといいのだけど」
その場の全員の視線が施主から、ドラーゴシュ社長へ向いた。ドラーゴシュ社長は組木パズルを繰る手を停め、目前の壁の何もない一点をじっと見ている。
「経緯を存じないので、何とも」居心地悪そうに、弁護士が口をはさむ。「失礼ですが、どのような件で?」
「家の資産をめぐって、私と……」
「やめろ」ドラーゴシュ社長はひときわ大きな声で遮った。「その件は既に審議中だ。そいつに言ってどうなる」
ドラーゴシュ社長の音声に反応して、びりびりと廊下に面した側の窓枠が震え、そのうちの立て付けの悪い窓枠が一枚、床に落ちて派手な音を立てた。
***
盆の上にさまざまな液体を載せた巡査は、応接室の扉を開けると、突然足を止めた。
「何か?」
巡査の後ろを歩いていたアンタルが尋ねる。巡査は肩をすくめ、アンタルに道を譲った。
「なるほど……」
一歩入ったアンタルは、巡査が何も言わなかった理由を知った。
室内にいる面々は、あらかじめ聞かされていた通りである。
旧友の建設事務所の社長。彼の娘。彼の競合であるところの、西都出身の建設事務所の社長。そこに雇われている石工頭。
さらに、ひとり見知らぬ男がいたが、これが巡査の言う弁護士氏であろう。
しかしながら、彼らの様子はといえば、異状そのものであった。
そもそも、アンタルが扉を開けた真正面に、彼の旧友が腕組みをして立っていた。こちらの顔を認めても、眉一つ動かさずに不機嫌そのものの表情を湛えている。
その肩越し、窓際の一角に、お白粉でも塗ったかのように頭から爪先まで真っ白の石工頭がうずくまっている。一見しても誰かわからないが、幸い唯一の石工の衣装を着ていたため、彼を見出すことができた。
もう一方の窓際、つまりドラーゴシュ社長の対角線上には彼の実娘のニコラが、壁にもたれて天を仰いでいる。それを弁護士であろう男がなだめすかすように「ゆっくり、落ち着いて」などとしきりに話しかけている。どうも、呼吸の仕方を教えている様子である。
最後の、廊下側の一角では何か粉々に砕け散ったガラス片のようなものを、ここの巡査が二人で黙々と片付けている。
一人だけ椅子に掛けていたシュミット――つまりニコラの依頼を受け、繁華街の一角に彼女のために店舗の建設を請け負った建築業者――も、
残り少なくなった頭髪を両手でくしゃくしゃにかき乱しては、うんざりしたようなため息を吐き出している。
その誰もが、アンタルの姿を認めるや、「何をしに来た」と言わぬばかりの視線で彼を射抜くのであった。
「……落ち着け。今から、説明するから」
銃を向けられたわけでもないのに、アンタルは高々と両手を挙げて、大げさに降伏の意図を示した。
***
「忙しいのは喜ばしいことだが」
ホルド通りの事務所からほど近い目抜き通りの建築現場。石工たちと挨拶を交わしつつ、ドラーゴシュ社長は後ろを行く旧友に話しかける。
「まさか一か月ぶりとはな」
「お互い様」アンタルは前を行く旧友を見失うまいと、足早にその背中を追いかける。「こちらも時間を作って、何回か君の事務所に出向いたんだがね」
活気のある現場は石を打つ音が響きわたり、ともすると自分の声はかき消されてしまう。
「ともあれ、君の用件はわかってるよ。ご覧」歩みを止めたドラーゴシュ社長は、頭上の梁骨を右手で支えて振り返った。
旧友に促されるまま、アンタルはその階の内壁を形づくる組積造の工程を覗き込んだ。
「おや」設計を生業とするアンタルは、その新奇な工法を目にし、おそらくその場にいる誰よりもその機序と採算性に気がついた。「これは、モルタルだな」
「そう」話の早い友人に機嫌をよくしたドラーゴシュ社長は、先程とは打って変わって晴れやかな表情になる。「中を空洞にした組積造の中に、粘性の低い配合のモルタルを流し込んでしまう。すべてを切り石積にするよりも、余程早いんだ」
「なるほど、シュミットのやつ、巧いこと考えたな……」
アンタルの言葉を聞くと、内壁に粗塗りを施していた職人が振り返った。
「これはシュミットの発案じゃ、ありませんぜ。西都の誰やらが、英国で学んできたんですと」
「おや、聞き覚えのある声だと思ったら」アンタルは顔をほころばせた。「俺たちのこと、恨んではいないかい」
「これっぽっちも。おかげさんで、今までの二割増しの給料で、使ってもらってんで」
左官職人……否、先般の石工頭氏は、そう言ってドラーゴシュ社長に片目をつぶって見せた。
「俺がシュミットの現場に潜り込んだ理由が、わかったかな」
敷地を出ると、ドラーゴシュ社長は満足そうに傍らのアンタルに顔を向けた。
「ああ、君の智謀には心底敬服するよ。それに、その成果を一か月と経たず自分の現場で実現する行動力についても、同様」
「いや、すべて君のお蔭だよ、アンタル。今やうちで取り扱う案件のすべてにこの工法を採用すべく、奔走中だ」
「君が全然事務所にいない理由がわかったよ」
「そういうことだ」
笑みを浮かべて視線を前に戻したドラーゴシュ社長が、不意に歩を止めた。
「ペーテル?」
アンタルがドラーゴシュ社長の視線を追うと、彼の鋭い視線の先には、一か月前に警察署の玄関先で見かけた一台の自動車が停まっていた。
「そうそう、もうひとつ用件があるんだよ」アンタルも旧友に合わせて歩を止め、前方の自動車から降りてくるニコラ――ドラーゴシュ社長の実娘――に
目を向けた。「俺がここ一か月、忙しくしてた理由だ」
***
「アンタル、言ったはずだぞ」
ドラーゴシュ社長は、視線を目前のニコラに向けたまま言った。
「君の気遣いはありがたいが、俺とこいつは……」
「早合点なさってはいけないわ、社長」微笑を湛えつつ、同じくらい冷たい口調でニコラは答えた。
「アンタルさんは、確かに私と引き合わせるつもりで、うちのお店の工事に社長を送り込んだ」ニコラは、自動車から降りて来る一人の若い男に振り向いた。
「でも、つまらない親子喧嘩に口をはさむために、そんなことしたと思う?」
「君は……商工会議所の」ドラーゴシュ社長は、数か月前に会った青年の名を思い出そうとする。
「ヤーノシュです、会頭のナジ・ヤーノシュ。お久しぶりです」ヤーノシュはドラーゴシュ社長に向かって、手を差し伸べる。
「もっと、ロマンチックな形で引き合わせたかったんだが」傍らでアンタルが苦笑いする。「結局、やっぱり工事現場か」
「……」ドラーゴシュ社長は、目の前に寄り添う男女を交互に眺め、記憶をたどるように視線を宙へそらすと、低い声で唸った。
「ああ、ああ……そういうことか!」
こらえきれずに、ニコラが噴き出した。
「ようやく気づいた」アンタルも可笑しそうに笑う。「お父様が全く取り合ってくれないと、ヤーノシュが俺に泣きついてきたんだよ」
「直截的に言ってもらわねば、困るのだ」極まりが悪そうに、ドラーゴシュ社長は頭を掻いた。「特に俺のような男にはな。行間を読むような機微は、あいにく持ち合わせない」
「それでは、父上」横から、一気にアンタルが畳みかけた。「お二人の縁談に、異議はないね」
「これ以上、沙汰を増やしたくないしな」旧友の気迫に圧され、ドラーゴシュ社長はため息とともに答えた。
「本当に、素直じゃないのね。おめでとう、くらい言えない?お父様」
ニコラがそう言うと、作りかけの外壁の奥で石を叩く音が止み、代わりに小さな喝采が聞こえてきた。
***
「朝から、実に不快な外観だ。甚だ、不快だ」
大きなため息とともに、窓台に手をついたドラーゴシュ社長は言う。
三年にわたる慣習は、すでに組積造の地肌にまで大きなくぼみを作っていた。
「色々とあって、君の心境にも変化はあったはずなのに」後ろには旧友のアンタルが控えていた。「それだけは相変わらずだね。大したもんだ」
「つまり、私は本気だということだ」ドラーゴシュ社長は、不機嫌そうに旧友を振り返る。「見たまえ、あれを。本当にひどい意匠だと……」
「君に反対なら、今ここに僕はいないだろうよ」アンタルは遮って、ドラーゴシュ社長の目の前に一通の手紙をかざした。「ニコラから、これを預かってきた」
封筒は、「ご招待」と書かれた文字に草花をあしらった、華美な飾り紙でできていた。
いかな無骨者とて、それが何を意味する手紙なのか、さすがのドラーゴシュ社長にも理解できた。
「何だ、また謀りごとか」呆れたようにドラーゴシュ社長は身を引いた。
「君に言われるとは心外だ」旧友は笑って旧友に封筒を押し付ける。「俺が君のためにたくらみ事をしたのは、後にも先にも一回だけだぜ」
「その一回が、まだ終わってはいないんじゃないかと…」ため息をついて封を切ったドラーゴシュ社長は、中の便箋に視線を落としたきり沈黙した。
***
「……どうした、ペーテル」
長すぎる沈黙に不安を感じ、アンタルが立ち上がりかけたとき、ドラーゴシュ社長がつぶやいた。
「"バスチーユ"跡地の設計競技……」
「何だって」
妙な姿勢のまま再び立ち上がろうとしたアンタルは、均衡を失って敷物の上に座り込んだ。
「……ふん」
読みながらドラーゴシュ社長はほくそ笑んでいる。アンタルは立ち上がり、横から手紙を覗き込んだ。
***
"バスチーユ"跡地の設計競技について
ドラーゴシュ・ペーテル建築事務所
代表取締役 ドラーゴシュ・ペーテル様
謹んでお知らせいたします。
貴殿が永年、消滅することを願ってやまなかった"バスチーユ"こと「新しい建築」が解体され、新たな左岸の繁栄の象徴として整備されることになりました。
どうして、貴殿よりも私の方が先にそんなことを知っているのかって?
それは、私とヤーノシュが先日西都に出向いた時、しかるべき筋に確認したの。あれをお建てになった先王陛下もとっくの昔にお亡くなりになっていることだし、そろそろ撤去しようという話が出てるよ、って。
その方には口外無用だよ、と言われたけれど、結婚に反対しないでくれたお礼に、お父様には一足先にお知らせするわ。
さて、上述の通り、公平を期するため本件は貴殿にとどまらず、近日中に両岸のあらゆる建築事務所に、東都商工会議所より正式に本件告示致します。
当然、シュミット建築事務所も例に漏れません。
当社といたしましては、是非とも設計競技を勝ち抜いた優れた建築業者様に当社が建設予定の百貨店の設計をお任せしたく存じております。
当然、当該案件を無事に落札できれば、の話ですが。
当社といたしましても、選考にあたり私情に走ることなく、公正なる審査を経て、優れた設計案を採用するつもりでございます。
ついては、振るってご参加いただきたく、謹んでお願い申し上げます。
追伸
私たち結婚します。裏面の開催概要をお読みの上、婚礼会場に本状ご持参ください。
百貨店"ミクローシュ"
店主 ドラーゴシュ・ニコラ
***
書簡の結語を読んだアンタルは、思わず噴き出した。
「あれのする事だ。嘘や思い違いということはないだろうが、念のため裏は取る」
ドラーゴシュ社長はそう言うと、手紙をアンタルに預け、身支度を始めた。
「どこへ行くんだい」
「商工会議所だ。君も来たまえ」
有無を言わせぬ口調で、ドラーゴシュ社長は答えた。顔には不敵な笑みを浮かべて。
アンタルは、今しも執務室を出ようとするドラーゴシュ社長と、手元の手紙とを見比べて、言った。
「待てよ。俺は、9時から人と……」
「代わりを立てろ。俺には君が必要なんだ。アンタル」
その言葉の意味を知ると、アンタルは手紙を文机の上に丁寧に置き、旧友を追いかけた。
「開催はいつ?そもそも、あの"バスチーユ"はいつ解体される?」
ホルド通りに出たアンタルは、自分より先を行くドラーゴシュ社長の背中に声をかけた。
「それも、ヤーノシュに訊く」背後を走る路面電車よりも先に停留所に到着すべく、ドラーゴシュ社長は走り出した。
「あれだけの代物だ、二~三年では片付かんだろう」
「そうだといいが」アンタルは慌ててドラーゴシュ社長を追いかけた。「おかげさんで、向こう三年、仕事には事欠かないんでね」
「期待してるぞ」ドラーゴシュ社長はにやりと笑い、背後のアンタルを振り返る。「シュミットなど、君の敵ではない。是非とも左岸……いや、東都に冠たる豪華な図面を引いてくれ。王妃様の"夏の宮殿"にも負けぬような、な」
アンタルの足が止まる。
まさか……まさか君は、"夏の宮殿"とアール・ヌーヴォーを一緒にしてはおるまいね?
喉元まで出かかった叫びをぐっと飲みこんで、アンタルは旧友の背に向かって走り出した。
終




