第六夜|亀の飛来
author: 紋甲メリー
近所の畑に甘夏の木が生えている。正確には畑ではなく、かつて畑だった場所である。それでもわたしはもう少しだけ畑と呼んでいたい。ちょっとした野球場並みの広さはあるかもしれない。新旧の住宅地が節操なく入り混じる中に残された地図の空白。わたしがまだ幼かった頃には、黒い土の上を眠ったような速度の耕運機が走っていて、トマトや長芋、枝豆などを並べた無人販売の小屋もあったと記憶しているが、いまは作物のかわりに高圧線の鉄塔が遠く腕を伸ばしている。甘夏の木は鉄塔の脚を半月状に取り囲み、「のぼってはいけません」と書かれた挑発的な看板を隠すような形で植えられている。土からの栄養が足りていないのか、甘夏の実はどれも痛々しいほど小さく痩せており、まばらな梢の節々にやっとのことでしがみついているように見える。それをいまから盗みに行こうと思う。
畑から道を一本隔てたところに年季の入った小豆色のアパートが建っていて、甘夏の木立はそこから目と鼻の先にある。いつ見てもアパートの戸口はだらしなく開け放たれている。そこに誰かの気配を感じてわたしは立ち止まる。郵便受けと自動販売機のあるタイル張りの玄関ロビーに子どもたちが数人、無言のまま座っているのが見える。子どもたちの視線はもっぱら手元のスマートフォンと携帯ゲーム機に注がれている。もう長いこと授業が中断したままなので、きっと彼らも時間を持て余しているに違いない。いまどきの悪童たちは甘夏の木などには見向きもしないかわりに、無料wi-fiが使える場所を探し出すことにかけては誰よりも敏感で、ルーターの設定をおろそかにしている家を見つけては、家主の知らないうちに巨大な巣を作ってしまう。そんな怪談めいた味付けの話を以前どこかで聞いたことがある。
見えない蜜に群がってくる油虫のような子どもたち。彼らが小さな画面の中を飛びまわる光に魅了されている隙に、わたしは忍び足でアパートの前を通り過ぎる。すると予想したとおり、力尽きて枝から落ちた甘夏の実がいくつか道に転がっている。なに食わぬ顔を装ってそのうちのひとつを拾う。たかが甘夏のために他人の土地を踏み荒らすのは気がひけるが、こうして道に転がってきたものを失敬する分にはかまわないはずだ。それに、どうしても甘夏を食べたいと言い出したのは亀のほうであって、わたしはただ手を貸してやっただけにすぎない。
持参したトートバッグの中に注意深く戦利品を隠してしまうと、わたしの行為を咎められる者はもうどこにもいない。はるか頭上で鉄塔の先端がジジ、と鳴り続けている。
亀は水槽の底で首を長くしながらわたしの帰りを待っていた。せめて殺風景に見えないようにと入れておいたミニチュアの石灯籠が、嵐の吹き荒れた後のように根こそぎ倒れて砂利の中に埋もれていた。
わたしが分厚い甘夏の皮に苦労しながら爪を立てている間も、亀は水槽のガラスに硬い甲羅をせわしなく打ちつけている。そうかと思えば太い前脚で水槽の縁にすがりつき、爪を立てて力まかせに這いのぼろうとするので、いずれ本当にガラスを割ってしまうのではないかとひやひやする。普段は草と穀物を押し固めたペレットを文句も言わず食べている亀だが、こうして特別な餌を目の前にしたときだけ火が付いたようになる。たしか前回は金華ハムだったし、その前はピエール・エルメの、薔薇とフランボワーズが入ったチーズケーキだったはずだ。
鼻先に差し出した甘夏のひと房を、ぐっと喉を鳴らしながらあらかた飲み込んでしまうと、亀は満足したのかようやく動かなくなった。ちょうど水面の高さにある口から気泡がぶくぶくしている。
「最近のあなたはずっと家にいますね」だしぬけに亀が口を開いた。「冬眠にはまだ早いのに」
わたしはあいまいに笑うことしかできなかった。会社を辞めたとは言えなかった。これからはずっと家にいることにしたのだ、そう簡単に告げておいた。
耳ざとい亀は人間のニュースをよく知っていた。「ステイホームというやつですか」
わたしが黙って頷くと、亀はぶくぶく笑いながら甲羅の中に首を引っ込めてしまった。
「われわれと同じです。いつでもステイホーム」それは亀なりの冗談であるようだった。
渦を巻いて白熱する紫外線灯の光を亀と一緒に浴びていると、わたしの脳裏に古い電子ゲームの記憶が戻ってくる。それは宇宙を泳ぐ孤独な探査船を操作するゲームで、プレイヤーはくるくると頼りなく回転する船の舳先を制御しながら、画面内にひしめく小惑星めがけて弾を打ち込み破壊しなくてはならない。小惑星は弾が当たるごとに細かく崩れ、そのぶん狙いを定めるのが難しくなっていく。標的をすべて破壊すると次のステージ。いつまでも終わらない単調な繰り返し。アステロイドと名付けられたそのさびしい宇宙を、今はもう廃業してしまった駄菓子屋の隅で眺めたことがある。陳列棚を並べるだけ並べた狭い店内を苦労して通り抜けると、通路の奥が納戸のような空間に通じていて、そこでは眉の細い年嵩の学生たちが煙草の箱を握りながら、ありあまる時間を目の前の筐体に惜しみなく捧げていた。暗い水槽を覗き込むような姿勢で。
わたしの指からはまだ甘夏の匂いがする。甘夏の皮からささやかに分泌された精油の、刺のある揮発性の匂いが指紋深くにまで染みついて、石鹸で洗ったくらいでは落ちない。「悪事に手を染める」という言葉があるが、亀の共犯であるわたしを罰するには何色の染料がふさわしいのだろうか。
あなたについての話を書いてもいいか、とわたしは亀に尋ねた。尋ねながらも心の中では、たぶんうまくいかないだろうと感じていた。わたしは何度も脱線してしまうだろう。おとぎ話の兎のようにあちらこちらに飛び跳ねて、肝心なことはなにも書けないまま息ばかり切らして、最後は両方の肺が真っ白に塞がってしまう。それでも書かなくてはならないと思った。なにしろ時間だけはたっぷりあるのだから。
「どうぞお好きなように」と亀はこともなげに応じた。「できれば血なまぐさい話がいいですね」その言葉が決め手だった。
亀が寝床の中で白黒の夢を見ているうちに、甲羅を持たないわたしは早々にステイホームを切り上げることにする。縮んだ両脚の腱を大きく伸ばして歩くと、記憶の水底に沈んでいた物語の断片が砂とともに巻きあがり、そのまま尾鰭が付いて泳ぎはじめるような気がする。わたしの物語は孵化したばかりの亀の形をしている。その身体には炎を噴く恐ろしげな口も、空飛ぶジェット噴射も備わっていないように見えるが、だからといって油断してはいけない。
最寄りのコンビニでペットボトルの炭酸水と塩大福を買うために坂を下る。かつて畑だった場所には巨大な爪で抉り取ったような断層の裂け目ができていて、巣穴からあふれた子どもたちがもの珍しそうな顔で集まってきている。ちぎれ飛んだ電線の残骸がわたしの足元で鞭のように跳ねて火花を散らす。湿った風が砂煙を運んでくる。どこか遠くで地響きとともに鉄塔が崩れる。わたしだけが犯人を知っている、そんなふうに始まる物語だ。




