第五十三夜|Ponso-no-Tao
author:権兵衛
「暁慧?さっき日本人が二人来た。飛魚賓館だってさ」
「オーケー」
暁慧の返答だけ聞き届けて、電話を切る。同じようなやりとりを続けて、もう一か月。驚いたことに暁慧の企みは少しずつ功を奏し、けっこう彼らと意思の疎通ができるようになってきている。
港湾局に弁当を届けてしまうと、信安は防波堤の内側、環状道路より少しだけ道幅の広くなった場所まで最高速度でスクーターを走らせる。空き地いっぱいにゆるい弧を描いて、その勢いのままわが家へ続く坂道を上がってゆく。
――今さら日本語、ねえ。
***
「聞けば日本はもう、そう魅力的な労働市場でもないみたいじゃない?何だって、今さら」
このルーチンを始めたばかりの頃、信安は暁慧に率直に訊いたことがある。頭の中で経済及時の記事を思い出しながら。
信安はiPhone画面の上半分に、常にニュースブログが表示されるようにカスタマイズしていた。こうすれば台東の仕入れ先と連絡を取るたび、折々の真新しいニュースを手に入れることができる。唐揚げの配達先のおっさん、おばさんにとって新鮮なニュース屋さんで居つづけることは、信安にとって大事な営業活動の一環だった。
「日々の糧だけじゃないの。ひとの行動原則なんてものはね」
暁慧は「行動原則」の部分をまず英語でMotivation、と言ってから、改めて国語で答え直した。
彼女の耳には、五度目の北海道で買ったラベンダーの飾りが光っていた。
「原則、ねえ」
「そう。やっぱり心の声に常に耳を傾けていなければね。自分の心を楽しませてくれるものは、いったい何か」
彼女はCry of my heart、と言ってから、心の声、と言い直した。
彼女の発音が正しいのかどうか、機械科出身の信安にはよくわからない。わからないが彼女の会話にたまに出てくる英単語は、信安にはなんだかとても可笑しく聞こえた。でも笑っちゃ彼女はきっと傷つき、悲しみ、そして怒るだろう。
「よほど暁慧を楽しませたんだろうな。その、ラベンダー畑は」
「ええ、そうよ」
首をかしげて耳飾りをのぞきこむそぶりをしながら、信安はなるべく平静を装った。末永く続く、友情のために。
***
対向車線から赤のKymcoが来る。とはいえ、こっちも黒のKymcoだ。ノーヘルで安全運転。それだけで島民に間違いないと信安にはわかった。さらに昼でも灯火で走るのは──そうだな。暁慧と、うちの爺ちゃんくらいだ。
「飛魚賓館って言ったろ」
路肩にスクーターを停め、信安は見当ちがいの方向へ進む暁慧に声をかけた。
通年安全運転の暁慧のKymco は、ブレーキを軽く握るだけですぐに停まった。
暁慧が振り向く。ラベンダーがいつもどおり、耳元で揺れた。
「市場に寄るの。トイレットペーパーに、お酒。それと"時尚魔女"7月号を買いに」
「あ?!そうか」
火曜。港の会所に市の立つ日だ。
──モーター用オイルと、から揚げ用サラダ油。くそ。カレンダーにまで書いといたのにな。
「忘れてた?買っといてあげようか?」
「大丈夫。港まで、一緒に行こうぜ」
──ついでにパーツと、業務用洗剤もだ。強い酸性のやつね。
暁慧と並んでスクーターを駆りつつ、信安は忘れないように頭の中で復唱した。
「勝率は、どのくらい?」
伴走する暁慧にむかって、信安はおどけて訊いてみた。
「今んとこ八割、くらいかな。日本語しゃべれるの、て言ってみんな喜ぶわ」
暁慧は「八割」の部分をまず英語でEighty Percents、と言ってから、改めて国語で言い直した。
「Percentにsはつけない」工学部の面目躍如とばかり、信安はすかさず突っ込みを入れた。「いいね。少しの勇気で、大いなるコスト削減」
「もう本当」大げさにうんざりしてみるのは、彼女の可愛らしい習慣だった。「ほかにいくらだって、コストなんてかかるんだから!」
「はは」
それきり、見通しの悪い下り坂に注意を集中させるふりをして、信安は自分の貸しスクーター業、および軽食デリバリー業のために何を買っておくべきか、改めて思い出しているのだった。
***
「ふう、重い!!」
ガレージ兼仕込み場に、信安は買ってきたエンジンオイルとサラダ油のボトルを並べる。
――一か月、持つと思ったんだけど。
結果は「はずれ」だった。故郷の島で商売を始めるにあたり事前に取りそろえた備品は、ありがたいことにデリバリーの唐揚げ業も貸しスクーター業も予想外の反響を呼び、一週間で底をついてしまった。
「まずは唐揚げから、かな」
火曜市では、新しく四道溝の農家の人がお客についた。少なくとも信安はそう踏んでいた。
連れがデリバリー唐揚げの馴染みと知れば、自分も馴染みになりたくなる。信安が一か月足らずの商いを通じて知り得た、それはひとつの原則だった。
――何と言っても、小さな島だ。島民全員に営業かける気構えでなければ、恐らく続かない。
暁慧の申し出を断ってまで、信安が火曜市にまで引き返した本当の理由がそこにあった。
業務用フライヤーの栓を抜き、バケツで廃油を受ける。その間に"新鮮な"鶏を肉とガラに切り分ける。ちょうど切り終わったあたりで、フライヤーのタンクが空になるから、真新しいポリ容器の蓋を開け、真新しいサラダ油を注入口に注ぎ込む。
「……」
作業中から感じていた小さな違和感は、空いたポリ容器と廃油で満たされたバケツを信安が持ち上げた瞬間、はっきりと言葉になった。
「これ、捨てちゃマズいだろ……」
改めてポリ容器を手に取り、思ったままを口に出す。野菜を包むときに使った自由新報。火曜市で買った牛乳の、中身を飲んだあとの紙パック。そして、夥しい量の鶏の骨。家の裏手のゴミ溜めの中、そんな普通のゴミに混じってポリ容器があることに、おそらく台東に住んでいた時ならすぐに違和感を感じただろう。
――それを言うなら、こっちもだ。
信安はもう一方の手に提げたバケツに目をやった。朝の洗顔。夜の風呂。仕込みで使う料理の水。そして買いそろえた貸しスクーターを定期的に洗う、大量の水。そんな普通の排水に混じって黒々と使い古された料理油を捨てることに、おそらく大学に通っていた時なら……。
「うん。捨てちゃ、ダメなんだ」
開業当初から感じていた小さな違和感は、仕事に追われすぎた一か月を経て、ようやく信安の中でひとつの、強い意志に変化していた。
***
「昔からよね、信安」ひとしきり笑ってしまうと、いかにも呆れたという口調になって、通話の向こうの暁慧は言った。「それ、今思いついたの?」
「まあ、今っていうか。うすうす俺の中で、そういう兆候はあった、んだけど」
つい先刻ガレージで不退転の決意を抱いた信安も、暁慧の天真爛漫な反応を前に、すでに及び腰の体であった。
「商売はじめるときも、ほんと急だったしねぇ」笑い疲れたのか、暁慧はイヤにしみじみとした口調になっていた。「唐揚げデリバリーと貸しスクーター両方やるなんて、あらいやだ信安、ついにおかしくなっちゃったのね、ってみんな言ってた」
「ついに、ってなんだよ」暁慧の繰り出した冗談に乗っかって、信安はわずかに攻勢に出た。「実際、うまくいったろ」
「そりゃ、あんだけ働けばね」多少改まって、暁慧は続けた。「オーケー、わかった。心当たりをあたっとく」
「心当たり?」自分で相談しておきながら、信安は素っ頓狂な声を上げた。
「何よ、私にツテがあるかどうか訊いてきたんじゃないの」いつもの、大げさな呆れ声。「私のこと、ただの聞き役と思ってたわけ!」
暁慧は「ツテ」の部分をまず英語でConnection、と言ってから、改めて国語で言い直した。
「めっそうもない、暁慧公主」端末を首元に挟んで、信安は見えぬ相手に向かって拱手した。「ツテがあるならば、ぜひお力におすがりしたく」
「あら、言うようになったじゃない、阿信」
攻守交々、幼馴染ならではの気の置けないやりとりは、いつもどおり。しかしながらこの一見他愛のない通話が、小さな島のエコ史にとって、実に大きな転換点となったのであった。
***
「ネクタイとか、しなくていいの」
「バカ。それこそおかしくなったと思われるわ」
10坪はあろう大広間の熱気には、送風口からフィルターがはみ出たボロ空調ではとても太刀打ちできない。暁慧からの電話を受けて自宅近くの会所に呼び出された信安は、ポロシャツ姿でなお首筋にいくつもの汗の滴を浮かべていた。
「日本人は、夏でもネクタイするって聞いたけど」
「そんな話もはや、都市伝説よね。昭和のころならまだしも……あ」
「あ?」
普段であれば果てしなく続いたであろう無邪気な諍いも、きっかり約束の時間に現れた客人によって不意に終了した。
「CSR?」
「いやだ信安、そこから説明しなきゃいけないの?」
客人が卓上に示した冊子を前に、早くも幼馴染ふたりは普段通りのやりとりを再開しようとしていた。
「いいですよ。だって今日はそれをしに来たんだもの」馬海嶼と書かれた名刺を冊子の横に差し出した客人は、すでにその口調を打ちとけたものに改めつつあった。「まあ、簡単に言えば、企業も社会貢献しなさいよ、てことです」
「うわ、さっすが」暁慧に至っては、そもそも開始からよそゆきの口調になってなどいなかった。「今までで一番、簡にして明だわ。その説明」
「ふふん」客人も負けじと力を抜いて話す。「こればっかりやってるからね。普段から」
「でも、この名前」暁慧はひょい、と客人の名刺を手に取る。「もしかして馬さん、島の人?」
「海嶼でいいよ」まずは前置きしてから、客人は続けた。「うん。一目で出身がわかる、いい名前だと思ってるよ。我ながら」
「なんだ。緊張して損した」と暁慧。
「緊張してた?」と信安。
「あっはっは」と海嶼は自宅にいるような笑声をあげた。「つまりその、なんだ。信安が寄せてくれたアイデアが、ちょうどウチの会社が期待してたような宣伝効果を生むんじゃないかと思ってね」
「あまり歯に衣着せぬのも、考えものよね」冷徹に批評したつもりの暁慧の声も、最後は笑い声のために裏返ってしまっていた。
「もういいじゃん、ウチ来ない?」会所の暑さに耐える意味を見失った信安は、うっそりと立ち上がった。「ヒマワリの種もあるし」
残る二人に、異論のあろうはずがない。三人は信安のガレージで、夜半まで歓談することになった。
***
「お久しぶり」
「ちょっと海嶼、びっくりした!」
開元港の係船柱に腰かけてぼんやりしていた暁慧は、まんまと背後から忍び寄った海嶼の不意打ちに遭う形となった。
「お目当ての日本人じゃなくて、悪かったね」
「ちょっと待って、その、いろんな意味でびっくりした」
信安のエコ事業案が採用されるまでの数か月、それこそ海嶼は日をおかず二人を訪れていた。しかし一たび当該事業が採用と決定するや、彼はぱたりと姿を見せなくなっていた。
その代わりのように次々と運び込まれる廃油回収桶の山を前に、信安は本業を一旦休止し連日、島中の青盟を訪ね回る生活に切り替えざるをえなかった。
「さ、行くか」
「え……何?どういうこと?」
「さっき信安から電話あったんだろ、次の連絡船で日本人がわんさか来るって」
「なな、何で知」
「あれ嘘」
「は?」
「俺がいきなり来たら面白いだろうと思って」
「う…そ…?」
「あ、俺の入れ知恵ね。今日来ることは信安にはちゃんと……わ、ちょっと!」
「てめぇ海嶼、海落ちろ!」
暁慧は「海」の部分をまず英語でOcean、と言……う余裕もあらばこそ、もはや炎天下にいても何の意味もない、海嶼を伴ってさっさと集落へ引き上げた。
***
「ほんと、久しぶりよね」
先程の騒動などなかったかのように、海燕窩の入っていない海燕窩飲料を飲みながら涼しい顔で暁慧は笑った。
「本当だよ。仕事が終わったらそれきり縁切れとは、なんてひどい奴だ」傍らの信安も援護射撃する。
「ひどい言われようだな、俺も遊んでたわけじゃないの」暁慧の祖母から、同じく海燕窩の入っていない海燕窩飲料を受け取り、海嶼は続けた。「馬公とか、金門とか。いろいろ飛び回ってたんだぜ、俺も」
「なんでそんな、離島ばっかり」暁慧は思わず笑いだした。「もしかして海嶼、流放組ってやつ?」
「失礼なっ」一気に飲料を飲み干して、海嶼は居直った。「タフな奴ほど、辺境に行かされるんだよ」
「それってつまり、そういうことじゃ?」
ぼそりと信安は、二人のやりとりに嘴を入れた。
「で、だ」暁慧の祖母が応客に出た頃合を見計らって、海嶼は声を落とした。「今回も別に、遊びできたわけじゃない」
「珍しく真面目な顔して」
暁慧が混ぜ返す。海嶼も負けじと口調を変えず続ける。
「四道溝の農家のおっさん、なんだけど。ほれ、あの遷址運動してる」
「知らない」本当に知らない暁慧は、素直に所感を述べた。
「知ってる。いつも唐揚げを売ってるからね」信安も正直に供述した。
「その、なんだ。いいか?行間を読んで聞いてくれよ」海嶼は一層声を落とした。
「水臭い」暁慧は引き続き混ぜっ返す。実際何も知らぬ以上、気楽そのものといった風情。
「……」と、薄々は話の流れを察した信安。
「遷址運動は、個人の自由だ。わが国は民主国家なのだから」
「大仰な」相変わらず、天真爛漫な暁慧の受け答え。
「しかし青盟のエコ予算の名目で色々と動かれた日には」海嶼はあくまでも声量を抑えつつも、出来る限りの力を込めて、続けた。「もっと色々、隠し様があるんじゃないかと思ってな」
2010年。
島のエコ史は、まだまだ始まったばかりである。




