プロローグ
謎の奇病が世界中で流行りだしたとき、このまま世界が滅びればいいのに、と願った。
僕もみんなも、全員が病気になればいい。そのまま死んで、つらかったことも苦しかったことも、全部全部、跡形もなく消え去ってしまえばいい。
人も動物もいなくなった世の中は、どんなに美しいだろう。
どうせ生きていても楽しいことなどない。まあ死んだからと言って楽しいことがあるのかは分からないけれど、僕はとりあえず、早く死んでしまいたいと思うほど人生に飽き飽きしていたんだ。
だから、君がふわりと花びらのように舞い落ちてきたとき、ああついに僕も天国へ辿り着いたのか、と笑ってしまったんだ。
ーーーーある春の日ーーーー
「それでは、明日からオンライン講習になるので、全員しっかり家で自粛して勉強するように」
教授はそう言うと、口元に下がりがけていた大きめのマスクをぐいっと片手で引き上げた。
人間、鼻と口を隠すと、どんな顔だったか分からなくなるものだな、と僕はぼんやり思った。
日頃から教授の顔などじっくり見たことはなかったが、マスクをしていると、余計誰だか分からない。
毛量や目元のシワからなんとなく歳は想像できるが、そこから下はあまり思い出せない。
ワシ鼻だったような気もする。少し出っ歯だったような覚えもある。いや、あれは違う教授だったか?
と、まあそんなことはどうでもいいか、と我に返った。
周りの学生たちが教室からずらずらと出て行くのに気がつき、僕も立ち上がった。
明日からこの大学に来なくてもいいのだ。無論オンラインで受講しろと教授は言っていたが、言われた通りしっかりパソコンの前に居座る生徒はどのくらいだろうか。
「やだー、明日からみんなとここで会えなくなっちゃう」
「ねー、居酒屋も閉めるらしいしー」
「大丈夫だよぉ、あたし一人暮らしだから!うちで飲み会しよ!」
「あーいいねそれ、じゃあ今日?明日?」
「今日も明日も!毎日ぃ〜」
「いぇーーーい!じゃあ友達の男子たちにも声かけるよ」
「イケメンだけにしてよー?」
「おっけー!」
前を歩いていた女子たちが、高い笑い声を上げた。
まったく耳障りで、なんの意味もない会話。
そもそも病気を広めない為の自粛なのに、その根本さえも分かっていない。
かくいう僕も、マスクをしていない。どの店も売り切れているから。
というのは建前で、本当のところ、病気になったって良い、と思っているからだ。
くだらない。人生は本当にくだらない。
女子たちの会話を聞きながら、校舎の外に出た。
ふと、異臭が鼻をついた。春の木漏れ日に似合わず、なんだか嫌なにおいだ。
見渡すと、犬を連れた老人が片手に黒い袋を握っている。
あいつか、とため息がこぼれた。
大学の敷地内で犬の散歩は禁止だと言われているのに、呆れたジジイだ。
犬のフンに混じり、女子たちから香水のにおいが漂う。僕は少しだけ吐き気を催しながら、駅までの道を急いだ。のろのろと歩く女子たちの横を通り過ぎ、追い抜かす。
その瞬間、またも意味のない会話が耳に飛び込んできた。
「ねえ、なんか臭くない?」
「くさーい。あいつじゃない?」
「うん、あいつがうちらの横歩いたときから臭くなったもん」
「だよねー、犬のウンチみたいなにおいがする」
「きもー。あいつ、うちらのクラスにいたやつじゃん」
「さいあくー。前からキモいと思ってたんだよね。いつも一人だし」
ぐっと拳に力が入った。後ろから聞こえてくる会話に怒りを覚えながら、歩くスピードを上げた。
ーー僕じゃない。僕じゃないのに。
悔しさを感じながら、大きく鼻で息をした。気持ちを落ち着ける為に、何度も何度も呼吸を繰り返す。
・・・・・・こんなこと、慣れっこじゃないか。
ふと、虚しさにも似た感情が湧いてきた。
「こんなの、初めてじゃないだろ。僕はいつだって、ひとりぼっちで、キモくて、最悪で・・・」
自分に言い聞かせるように、自分をいじめるように。
歩く足を止め、下を向きながら、つぶやいてみる。ぽつぽつ発する悲しい言葉たちは、もう幾度となく、たくさんの人から言われてきた言葉だ。
その都度、悔しくて涙が出そうになるのはどうしてだろう。
何度言われても慣れないのは、なぜなんだろう。
ああ、こんな人生はくだらない。早く終わらせて、楽になりたい。
生きていても良いことなんてない。死にたい。死んでしまいたい。
そうだ、ひと思いに死んでしまえばいいんだ。
「どこか飛び降りれる場所は・・・」
ドスンッーー。
決心して顔を上げた瞬間、目の前になにかが落ちてきた。
それは鈍い音を立てて、地面に叩きつけられた。
同時に、赤いような黒いような血がじんわりと広がり、僕の足元まで伸び、やがて、僕の靴をじっとりと赤く染めた。
ーーあの時僕には、君が花びらのように思えたんだ。ふわりふわりと、ひらりひらりと、とても綺麗に舞い落ちてきた。死のうと思っていた僕だけど、もうすでに死んでいたのか、と思ってしまうほど、美しい光景だった。