窮地に魔神の援護
俺や全身鎧の虚兵たちの周辺に、異様な雰囲気が漂い始めた。
灰色の石壁や石柱、赤茶色の煉瓦を積み上げた壁が現れた所為ではない、もっと別の理由がある。
戦士たちの背後に現れた建造物──それは、石の階段が積み上げられ、灰色や白色のしっかりとした足場の上に神殿が建てられていた。
それほど高い位置にある建物ではなく、十数段上にある高台の上に建てられた威厳ある古びた神殿。
柱にある装飾は草と樹木を描いた浮き彫りに、小さな梟らしきものも彫られていた。
神殿の扉は白い石の大きな扉に、蔓草の浮き彫りと、数々の銀と宝石で彩られている神秘的な装飾。青や緑の宝石がちりばめられた美しい扉が、ゆっくりと開かれていく。
重い音を響かせて大きく開放された扉の向こうに、なにか大きなものが居る。
『なにやら懐かしき気配を感じるのぅ』
どしん、どしんと音を立てて神殿の中から現れたものは、大きな梟──? だった。
『戦っておるのか? わざわざ異界におびき寄せてまで人間を襲うなど……ふむ、人間よ。なにやら訳ありのようじゃの? 加勢してやろう』
戦士の虚兵らがその言葉に反応したのかは分からないが、奴らの標的はいまや俺ではなく、大きな梟に向けられたようだ。
石の階段を駆け上がって攻撃しようとする傷ついた虚兵たち。折れた剣を捨て、手練れの剣士は落ちていた槍を手にして、突然あらわれた異界の支配者に襲いかかっていった。
『ふンむ』
どすん、と梟が足を踏むと、虚兵たちが弾け飛んだ。大きな金属音を立て、剣を持った片手の虚兵が頭を失い、ガラガラと崩れ落ちる。
槍を構えていた剣士はなんとか見えない攻撃を受け止め、槍をへし折られただけで済んだらしい。
『ほほっ、やりおるわ』
梟は老人の声を頭の中に響かせる。
大きな梟が神殿の中から完全に姿を表すと、それは茶色い布みたいな羽に覆われた、奇怪な梟型のなにかだった。
『ほれ』
折れ曲がった槍を捨て、倒れたばかりの戦士から剣を奪うと、剣士は階段を駆け上がって梟に迫ったが──周囲から緑色の蔦が飛び出し、虚兵を捕らえた。
腕や足、体全体に蔦が巻き付くと、鈍い金属音を響かせて全身鎧が捩じ切られる。
絡み付いた蔓草が虚兵の装甲を簡単に引き裂き砕くと、鎧の中から光が溢れ出て上空へ飛んでいった。蔦は神殿の周りにしゅるしゅると戻っていく。
『ほう、逃げ去ったか。器用な奴め』
巨大な梟は飛んでいった光を見上げて呟き、階段の下に居る俺の方を見下ろした。
『人間よ、お主の左目から──懐かしい感じがするのぉ』
俺は激痛を放つ左目を押さえながら相手を見上げる。
左手を離すと、左目から一筋の血が頬を流れ落ちた。
『魔眼から魔力の集積体を放ったか、お主にはちと、早かったのではないか?』
ほっほっほっ、そんな笑い声が頭に響く。
高台に完全に姿を現した梟型のそれは、明らかに魔神と呼ばれる存在だった。左目の魔眼──それに懐かしさを感じる者が居るとすれば、「闇の五柱の王」に近い存在だと考えられた。
翼を動かすと、足下から黄緑色の蔓草が伸びてきて、俺の足から胸へと伝って上っていく。
『じっとしておれ、大丈夫じゃ』
梟がそう呼びかける。
蔓草が左目の近くまでくると、淡い光を発して俺の左目を修復する。痛みが消え、視界が元通りに回復した。
体を這う蔓草が光ったまま地面に戻っていくと、虚兵たちとの戦いで受けた痛みが嘘のように消えていく。
「感謝する、古き神よ。あなたの名は?」
両の目で魔神を視認すると、梟の姿がはっきりと見えてきた。
茶色い羽だと思っていた物は、それぞれが微妙に違う色をした皮──それも人皮であるようだ。
翼の先には人の手の形をした皮がぶら下がっており、一目見ただけでは、それは小さな手袋にも思える物だ。
『儂か、儂は──いくつかの名前で呼ばれもしたが、アーブラゥムという響きが気に入っておる』
梟の身体は人の顔の皮が集まってできており、この魔神が一気に不気味な存在に見えてくる。大きな体を支える脚は銅の右脚と青銅の左脚からなり、爪は真っ赤な紅玉であった。
ぎょろりとした眼は、濃い紫水晶みたいな光を放ち、ときおり薄目になったり、眼を閉じて沈思するみたいに動かなくなる。
お前の名は? と尋ねられたので、警戒しつつも「レギスヴァーティ」だと答えた。
するとアーブラゥムは『そうかぁ』と興味なさそうに言葉を返し、真っ黒な嘴を動かして見せる。
黒檀みたいな嘴に金色の筋が入っているが、装飾という訳でもなさそうだ。
周囲の景観の変化に目を向けていると、アーブラゥムはもぞもぞと頭を上下に動かす。
『ここはなぁ、以前にあった街の跡じゃよ。小さな、小さな街じゃったが、人も多く住んでおった。もうずっと前、ベルニエゥロが儂の力を奪いおったあとの事じゃ』
魔神ベルニエゥロがアーブラゥムの力を奪い去った。重要な事だと思うのだが、この魔神はまったく意に介さないみたいだ。力を奪われても、未だに人間を圧する気配と力を宿しているのは間違いない。
「力を奪われて、取り返そうとは思わない?」
『ははぁ……なんの為にじゃ? あやつが儂から奪った力は、水と植物に関する──儂が持ち得る程度のものじゃよ。儂の力の根源たる部分を奪わなかったのは、あやつなりの慈悲なのかのぉ』
そう言って笑う魔神。
魔神にも色々な存在が居るのだろう。
この老体のような魔神に、何故この荒野に居て、自分を助けたのかを尋ねると、眼を閉じてからぽつりぽつりと話し始めた。
『この荒野に居る理由? そんなもの、動くのが面倒じゃからじゃよぉ。せせこましく動き回って、いったいどこへ行けと言うんかのぉ。──おお、退屈じゃと言われれば、そういえば退屈なような気もするがなぁ』
俺を助けた理由は? と、もう一度問うと、アーブラゥムは紫色の眼を見開いて、うんうんと頷く。
『はぁぁ……うむ、助けた理由か。ラウヴァレアシュと関わりを持っている人間じゃからかの? そうじゃろ? あやつもまだ人界に留まっとるんか? 儂も他の連中の事は言えんが、人間なんぞに関わったところで、ちょいとした暇つぶしにしかならんじゃろう。はぁぁ……徒労じゃ、徒労』
なんとなく、その「徒労」という言葉に引っかかりを感じた俺は、以前は人と関わっていたのかと尋ねた。
『うンむ……そうじゃ、儂は古い時代から人間に魔術や呪術の知識を与えておった。争いに使わず、平穏に暮らすようにと言い含めてな。ところがじゃ──まあ、人間とは争いが好きな生き物じゃのぅ。やがて近隣の町や村を襲い出し、挙げ句の果てにやり返されて滅びたりのぉ……』
そこまで語ると『ぁあ、つまらん奴らじゃ』と愚痴をこぼす。
『何度もそうした事が起きたのじゃよぉ。平穏に暮らせと言われても、自ら力を得たと思い込むと、他者を攻撃してなにもかも奪い取ろうとしよる。……はぁ、小さき者よ、無知なる者よ。何故、己が他者を傷つけて、己は傷つけられぬと思うのか』
徒労じゃ、徒労。と繰り返すアーブラゥム。
彼の厭世主義的な態度は、元来の性質に加え、そうした人間の愚かさに付き合わされた反動なのだろうか。
眼を細めていた巨大な梟が、じっと大きな眼でこちらを見つめてきた。
『それで……ラウヴァレアシュは息災か?』
「むしろ魔神が息災でない時は、どういった状況なのですか」
その皮肉に異形の梟は、ひゃっひゃっひゃっ、と声を上げて笑う。
『お前はおもしろい奴じゃのぉ、ラウヴァレアシュが目をかけるだけはある。魔眼を人に与えてなにを企んでいるかは知らぬがな』
最後の方の言葉は、やけに冷たい──物事の核心を見抜こうとする、冷徹な魔神の知性から発せられた言葉のように感じた。
この魔神は自分自身にも、その他の存在に対しても興味がなさそうな、そんな態度を取り続けているが、本質的な部分では上位存在である自身の力に、なにか思うところがありそうだ。
「魔神ラウヴァレアシュは、その多くの力を失っているらしいですが。正直に言うとよく分かりませんね」
梟は『うンむうンむ』と頷き、『それでお前はなにをしに、こんな場所を彷徨いておるのか』と問いかけてきた。
「ええ、そのラウヴァレアシュに言われて、『闇の五柱の王』の魔神を捜し出す旅をしています」
『ははぁ』
やはり興味のなさそうな返事。しかし梟は、じっと考え込んでいるらしい。目を閉じて思案を始めている。
『あやつは未だにミラスアセレトに固執しておるのかのぉ。人間どもの管理に当たった者同士とはいえ、難儀な事よのぉ……』
その名前は初めて耳にした。
それにしても「人間どもの管理」とはいかなる役職なのか……
「やはりあなたがた魔神と呼ばれる存在は、天上の神に仕える上位存在だったのですか」
大きな梟は己の言葉に首を傾げるみたいに『そんな事を言ったかのぉ……』と、とぼけている。
「それでは──あなたから見て、魔神ディス=タシュとはどういった存在ですか」
そう問いかけると、梟は大きな眼を細めて、じっと冷たい眼でこちらを見る。まるでこちらの意図を読み取ろうとして、心の中を覗き込むかのように。
『そうか……知らぬのか……いや、人間には過ぎた事よ。それを知ったところでなにができよう』
アーブラゥムはそう言うと、ディス=タシュにも会いに行くつもりかと尋ねてきた。
「──いえ、危険な存在だと聞いていますので、いまのところは近づきたくありませんね」
『それがいい、今のあ奴にとっては、人間すらも仇敵のように思っているかもしれぬからな。近寄らぬ方が賢明じゃ。奴は神への復讐に囚われ、もはやそれを変える事はできまいよ』
その神によって作られたという人間も、魔神ディス=タシュには忌々しい存在だという事になるのだろうか。
『ぉお、憐れなものよ。我らは人間のように曖昧なままではいられぬ。然りとて憎しみに囚われたまま、永劫に燃え盛る憤怒の情念に焼かれ続けるなど……あまりに憐れではないか』
神を呪い、神によって呪われた──そんな風に述懐するアーブラゥム。
上位存在の霊的なありよう──人間に例えるなら「心」の部分──は、人間のそれとは異なるらしい。
このアーブラゥムが己の存在についても、他の存在についても関心を持たず、永きに渡って幽世に身を潜めていたのも、そうした霊的な性質によるものなのだろう。
魔神アーブラゥムの特質が「徒労」だとすれば、魔神ディス=タシュの特性は「憤怒」なのだろうと思われた。
そう単純化して考えるものではないだろうが、彼ら上位存在のありようとは、知性体の究極化が進み、たった一つの「個」がすべてのものを包含し、ある一点への執着心に特化してしまうものなのだろうか。
究極的な独善者としての個。
それが「執着」によって固定化が定まる。
アーブラゥムの言った「神を呪い、神に呪われる」とは、神格を持つ上位存在ならではの現象なのかもしれない。
「私は『闇の五柱の王』の一柱、アウスバージスの下へ向かっている途中なのですが、彼の神は安全な魔神なのでしょうか?」
自分で口にしながら、危険でない魔神とはなにかと自問する気持ちになる。
『アウスバージス、ふぅむ……そうか、あ奴は確かにここから南にある島から繋がる幽世に居るはずじゃな。危険かどうかじゃと? 奴は儂と同じで、以前は人間と関わりを持つほど人に近い存在でもあった、危険はなかろう』
うんうん、と頷くみたいに揺れながら言葉を紡ぐ梟。
この梟の躯を覆っている人皮はもちろん半物質としての身体なので、現実の物としての人皮ではないだろうが、この魔神が荒れ地と化す前の土地に暮らしていた人間たちとの関係で、なにか言い知れぬ事があったのだろうと思われた。
この梟型の魔神を神殿に祀っていた人々が、魔神から受け取った魔術や呪術。そうした力で彼らは自らを繁栄させ、そして滅びへと導かれた。──この魔神ものほほんとしているが、人にとっての叡智であり、禍の種ともなり得るのであろう。
力や知識をどう受け取り、どう扱うか。その事としだいによっては、人は自滅への道を転がり落ちるのである。
梟魔神はちょっと変な老人ぽいキャラ。
次話では、あるキャラも再登場します。クセのある連中が出る展開。
ミラスアセレトという名の存在について言及された会話。実はいままでも、この事について語られています。今回の会話の中にある言葉は、あとになって「そういう事だったか」となるような部分もあったり……
❇第六章の最後をここに設定しました。(五章も短くしようか迷いましたが……)




