レインスノークの歓楽街
多少時間はかかったものの無事に、レインスノークの街に辿り着く事ができた。途中で二度の魔物の襲撃を受けたが、そこは四人の護衛がしっかりと仕事をしてくれた為、馬車に乗っていた俺は恐怖で震えている少年と、その母親を宥めながら座り続ける事ができた。
魔物除けの魔導具を馬車に使っていたとしても、完全に魔物との接触を防げる訳ではないのだ。
馬車を降りると、そこは街の中心にある大きな十字路のある馬車待合所だった。広く作られた街の中央部は開けていて、十字路の先にある街並がよく見えた。
新しい街の空気はやや乾燥し、涼しい北風が吹き込んで来ていた。まだ冬には早いだろうが、風の匂いの中には、雪山から吹き下ろして来たような冷気を感じる。
他の馬車からも次々と人が流れ出て行く、まるで牧羊犬に追われる羊の群れだ、どういう理由かは言うまでもないが、彼らは一様に同じ方向へと歩いて行くのである。
もちろん俺は彼らのあとを追う牧羊犬だ。
大きな十字路で区分けされた、北西区画一帯が歓楽街となっているようだった。街全体から見れば四分の一の大きさしかない訳だが、この区画は所狭しと建物が建ち並び、細く入り組んだ路地がそこかしこに延びている。
石組の建物に石畳の通路が多い場所と、赤い煉瓦を組み上げて造られた建物と、煉瓦を敷き詰めた通りがあり。この狭っ苦しい歓楽街の裏通りにも、等級めいたものが存在しているのかと気になってきた。
金もあるし、高級な店で酒を呷り、いい女を侍らせて愉しむ。……そんな風に考えるのは、急に小金持ちになった愚か者の考える事だ。そういった人間は、自分が求めているものがなんなのか知らず、常に周りの環境や状況に流されるだけのつまらない人間。
いや。ただ物事に反応を返すだけの、自分の頭で考える事を知らない獣と大差ない。
俺は一等地にある高級な店だろうと、場末の粗末な店であろうと、好みのものがあるか無いかで判断する人間だ。
……とは言うものの、ここはそんな風に堅苦しく考える場所でもあるまい。気の向くまま風の向くままに行動して失敗してみるも、一夜の素晴らしい巡り合わせに心踊らせるのも良いではないか。
しょせん人の感じる一喜一憂の感情など、その場その場で更新していくだけのものなのだ。辛く苦しい経験も、その後の糧となり得るし、楽しかった思い出など露の如く消えゆく、一時の空しい感情かもしれないのだ。
まだ昼日中だ。狭い路地に佇む娼婦や客引きの姿も、それほど多くはない。だがさすがに多くの観光客──風俗店を目当てにした行動を「観光」というのはいかがなものか──を招き入れる歓楽街だ。そこかしこで娼婦に手を引かれて売春宿に入って行く人の姿が見られる。
そう語る俺も、表通りと裏通りのどちらでも娼婦や客引きに何度も声をかけられた。だがこの街に来る前は、あれほど愉しみにしていた歓楽街巡りも、実際に歩いてみると拍子抜けな感じがした。好みの女が見当たらなかったのもそうだが、まだ昼なのだ。性欲よりも食欲を優先すべきであろう。
すると歓楽街の外れに出て来てしまったみたいだ。街を囲む壁が目の前に来て、急に立ち止まる羽目になる。
地面は剥き出しの土、周りを見れば人の姿はほとんどなく、寂れた売春宿の裏口で煙草を吹かしている四十を過ぎた売春婦などの姿が見えるだけだ。
声をかけられるのも面倒なので、外周区を回って表通りに出ようとしたその先で、薄汚れた格好の少女に出会った。壁を背にした少女は虚ろな瞳で地面に座り込み、道行く人を遠くから眺めていたが、俺が少女に気づいている事を知ると彼女は立ち上がり、こちらにてくてくと歩いて来た。
「わたしをかってくれませんか?」
少女はか細い声でそう言った、別に珍しい事じゃない。時には十歳の少女が売春宿で働かされている事もあるのだ。この娘はおそらくだが十四、五歳であろう。体を売るには遅すぎる事はあっても早すぎる事はない──すまない、これは言い過ぎた──、などと言うつもりはないが、この娘は自らの意志でそう決めたのかは甚だ疑わしい。
まあ俺としては年若い少女だろうと、ちょっと盛りを過ぎた熟女であっても、場合によっては(気分とも言う)頂いてしまうのだが、この日は違った。そういう気分ではなかったようだ。
「そうだなぁ……その前に君は汚れを落とした方がいいと思うよ。この辺りで水浴びさせてくれる場所はないの?」
俺の問いに少女は「あるよ」と言って小さな手で俺の手を引き、煉瓦と木材で辛うじて組み上げられたぼろ売春宿に招き入れる。
玄関口に立っていた化粧の濃い淫売が、少女と俺を交互に見ると大人しく脇に退いて、少女と俺は狭く薄暗い通路の奥へ向かって進み、二つの売春宿の間にある石組の井戸の前にやって来た。
その水浴び場には木桶がいくつも置かれていて、自由に使う事が許されているようだ。少女は井戸の中に縄の付いた木桶を投げ込み、水に落ちた音が聞こえてからしばらくすると、滑車を通る縄を引っ張って桶を引き上げ始める。
うんしょ、うんしょと、引っ張り上げる彼女の腕は細く、ぼろぼろの衣服の下に見える体つきも痩せ細っているようだ。
俺は彼女の手から縄を奪うと、からからと滑車を回して桶の水を、近くの綺麗な桶の中に移し入れた。
「その水を使って顔や体を綺麗にしなさい」
そう言ってもう一度、桶を井戸の中に投下する。
「これを使って体を洗うといい」
少女の手に荷袋から出した小さな石鹸を渡す。少女は言われた通り石鹸を泡立てて体を洗い始める、白い泡はすぐに灰色の汚れた泡となって近くの排水溝まで流れていく、彼女が体を洗うのを手伝い、小さな綿織物で背中などを綺麗にしてやる。
髪も洗い汚れた灰色の髪を、銀色の綺麗な光を反射する、少女本来の髪色にまで蘇らす事ができた。
「くしゅんっ」
彼女が控えめなくしゃみをしたので、すぐに荷袋から乾いた綿織物の手拭いを取り出し、体を拭いてやる。
体が乾いたので服を着せてやったが、まあ最初の頃よりかは見れる少女になっていた。次は服を買いに行こう。俺はそう言って少女の手を引いて歩き出す。
少女は抵抗する事なく俺に従い、よろよろとした動きでついて来た。外周区を回って歓楽街を離れ商業区を目指す。少女は商業区の場所を知っていたので、迷わずに目指す場所に辿り着いた。
いくつか並ぶ仕立て屋を見て回り、庶民の少女が着る様な服が飾ってある店に入り、店主の婦人に銀貨の入った小さな皮袋を手渡して「この娘に下着や着る物を見繕ってくれ、あと靴もな」と言って店を出た。
数十分後に婦人と少女が店の外に出て来て、これでいいかと尋ねたので、一応の満足げな頷きを見せて彼女を店に帰してやる。
さて今度は腹ごしらえだ。
少女は着慣れない服を着せて貰った事に違和感しか感じてない様子でまごついている。
「さて、どこかの料理屋に行こう。なにか食べたい物はあるか? ご馳走するよ」
少女は無言で立ち尽くすだけだ、好きな食べ物と言われても思いつく物がなにもないのであろうか。
「よし、では適当な店に行ってなにか食べよう」
俺はそう言うと少女の手を引いて、細い路地から大通りに出て料理屋を捜す。美味しそうな匂いを出している一つの店に入ると、奥まった場所にある小さな席に座り、給仕が持って来た献立表を少女と一緒に見ながら、いくつかの料理を注文した。
まずは飲み物をと言うと給仕の女は丁寧に、かしこまりましたと頭を下げて厨房へ向かう。体を温める紅茶が運ばれて来ると、俺は少女の分も注いでやってそれを飲む。
少女は熱い紅茶をちびちびと口にしながら唐突に言った。
「わたしと、しないんですか?」
「あ──、そうだな。今日は止めておくよ。君はこれからどうしたい?」
「おなかいっぱいたべたい」
少女の言葉は簡潔だった。俺はそうだなと相槌を打ち、少女の今後についての案を提示する。
「食事をしたら君を孤児院にでも連れて行こうかと考えている。けどその前に、君に仕事を与えている人と話しておかないとね。──孤児院の方が今の生活よりは、まだマシなんじゃないか?」
俺の言葉に少女は、よく分からないと口にしたが、他にも子供たちが居るの? と言うので孤児院について少し説明すると「いってみたい」という答えだった。
食事が運ばれて来ると、少女は目を輝かせて一つ一つの皿を眺めて「たべてもいいの?」と尋ねてきた。もちろんだと答えて、大きな煮込んだ肉の塊を切り分けて少女の皿に乗せてやる。
料理はどれも薄味で、個人的には物足りない味付けであったが、少女はとても喜んで料理のほとんどに手を付けた。よほど腹が減っていたに違いない、彼女の体は栄養失調一歩手前の貧弱な体つきだったのだ。
少女はがっつくでもなく、一つ一つの料理を味わうようにゆっくりと食べて微笑んだ。可愛い娘だ。もう少し肉付きが良くて女らしいくびれが腰にできていたら、俺は彼女の誘いに乗って売春宿に入っていただろう。
俺は弱い者を痛めつけるような真似はしない主義だ。──おっと、これも時と場合によるのだが、それを事細かに説明する必要もあるまい──
ともかくこの貧弱な少女を性の対象とする事には「気分が乗らなかった」のだ、しかし何故に服を買ってやったり食事を与えたりしているかというと、俺は弱いままの状況に甘んじている美女や美少女を放っておけない性分だからだ。
その為には当然こちらも金銭的、肉体的、精神的な安定状態にある事を前提としてはいるが──。何故なら俺は、自己中心的な快楽主義者であると同時に、世界主義的価値観をも否定しない男であるからだ。どちらが良いという事ではなく、その場その場で優先すべき事柄を、自分の状態と比較して可能かどうかを判断し結論を出す。
できない事はやらない、やりたくてもできないならやらないの精神だ。
自らの信じる正しさに従って、最善と思える行動を取って生き延びる。そうして冒険し続けているのだ。
食事を終えた少女を連れて売春宿に行き、少女を雇っている雇用主を訪れた。それは元売春婦のばあさんであるらしかった。
ともかく少女を気に入ったので購入したいと言うと、下卑た笑みを浮かべながら「五千ピラルだよ、払えるかい」と言ってきた。こんなばあさんに金を払うのは癪だったが、ここは開き直る事にした、それに少女の前だ。少しカッコ付けておこうじゃないか。
「へえ、ずいぶん安いんだな。この娘になら俺は三倍は払ったね」
そう言って五千ピラル分の銀貨を取り出し、椅子に腰かけたばあさんの膝にそれを放ってやると、少女の手を引いて颯爽と、そのぼろい売春宿をあとにしたのである。
一部の表現を変更しました。