霊獣の楽園
俺は木の根本に腰かけると、水の精霊を前に目を閉じる。俺の肉体は水の精霊が守ってくれるとディナカペラは説明するが、それを手放しに信じるようでは上等な魔術師とは言えない。
疑ってかかるのが逆に礼儀とも言える。
「油断させてあなたの命を奪い、あなたの持つ力や知識を我が物にしましょう」そう言ってくる相手に。
「ならば我は油断すまい。あなたの魔術に対抗し、我が身を守りましょう」と返すのが、魔術師の礼儀だとでも言うように。
(こうした逸話が書かれた魔術書なら枚挙に暇がない)
俺は自分の身体を守る為に光の精霊を守護者として用意しておく。──しかし、あくまで予備的な対策だ。敵対的な存在が現れた場合に備えて防衛する行動は普段、俺の無意識が対処しているのだから。その延長に光の精霊による防衛措置を準備しておいたのだ。
──ディナカペラが魔神ラウヴァレアシュとの繋がりを持つ俺に、敵対的な活動をするとは思えないが。実際、彼女の盟約者である魔神ツェルエルヴァールムが、俺に報酬を与えよと彼女に命じたのだから、それに反して攻撃してくるなど、まずあり得ないだろう。
水の精霊を通して俺を精神世界に導いているディナカペラの意識に合わせる。
意識空間の帳を越えて、無限の闇の中へと落ちて行く。
時も質量も存在しない領域を越え出て、霊的境界に入り込む。
己のもう一つの体を纏い、闇の中に無数の光源が移ろうのを見る。ぼんやりと光る──近くて遠い、世界の断片が彷徨う闇の中。
現れては消えていく光源の間を移動する。……こうした光源の中には、未熟な魔術師を引き寄せる誘惑に満ちた罠もあるのを覚えておかなければならない。
都合の良い光ほど嘘に塗れているのだと警戒して当たらなければ、意識は闇の奥底へ留まり、永久に己を見失う。
あるいは自らを破滅へと導き、魔神や邪神の生贄として捧げる結末になるかもしれない。
精神世界は常に危険に満ちている。
無限の創造と破壊をも繰り返し、次元の歪みで新たなる世界が誕生する。──そんな夢の世界。
魔術の根源となる世界。まさに魔術師にとって始まりの場所でもあり、終わりとなる世界だ。
そこでは虚偽が真理へと変わり、夢が現実となって現れる。
現実世界で死から生へと導かれるものがあるように、ここでは表と裏が渾然としている世界。
呪いと祝福はここでは等価なのだ。
あらゆる可能性と滅びが一体となった場所。
進化への可能性の代償に、自らの存在の根源を消失した者たちが消え去った領域。
虚無の向こう側には、いったいなにが待ち構えているのか? 魔術の深奥には、いつだって深淵が潜んでいる。足下に広がる広大無辺の暗闇、音無き雷鳴が木霊する無限の暗雲。
滅びた歴史を知らしめる情景が映し出されては消えていった。
俺とディナカペラは暗闇の中を連れ立って進んで行く。
彼女は青や灰色の緩やかな衣を身に着けていた。
彼女が指し示す方向に光が見えてきた。緑色と青色と茶色、そうした大地の色合いが多く見て取れる。
光へ近づいて行くと、その空間は青空が広がる美しい自然の楽園であった。霊的な力に満ち、それでいて空気や水が大地を包み、潤している。遠くの山脈の麓に雨が降り、まるで白滝の飛沫みたいな靄を伴った雨が、森林に降り注いでいるのが見えた。
「ここが私たちの眷属が使役獣を探すのに訪れる場所、古くから『霊獣の楽園』と呼ばれているわ」
広々とした世界は、いつも旅している世界と変わらぬ情景を持っていた。ここに居る獣たちが魔獣や霊獣といった、特異な存在であるとは。
周囲の景観に圧倒されていると、遠くから奇妙な音が聞こえてくる。まるで振動する──いや、これは羽音? 耳障りな羽音は次第に大きな音となって聞こえてくる。
「気をつけて、蜂よ」
蜂だと言ったそれは、体長が三十センチ以上ある大きな蜂。
赤や橙色の体を持った大きな蜂がこちらに向かって飛んで来る。どうやら俺たちを襲おうとしているらしい、一直線に向かって来ているのだ。
「鉄、鋼、大気、風は刃となり、剣となり槍となれ『風斬』!」
ディナカペラが呪文を口にして魔法を使った。俺も魔法を撃とうと行動したのだが、魔力との繋がりが上手く機能しない。魔法の集中をおこなっていたのに、まるで空虚な場所を手で掴むみたいな、手応えのない状態だったのだ。
「でしょうね」
その事を彼女に話すと、ここでは独特な精神世界用の魔法を構築する必要がある、と言うのだ。
「それは……厄介だな」
「だからこそ私が一緒に来たの。ほら、そこに落ちた蜂を使役獣にするといいわ」
彼女は地面の上に転がった蜂を指差す。
蜂は羽を半分ほど切断され、地面にひっくり返っていたが、近くの大きな石に脚をひっかけると起き上がり、こちらに向かって走り出す。
「往生際が悪いわよ、ここの生き物の多くはね」
俺は透明な羽をばたつかせながら駆け寄って来た蜂を蹴りつけた。加減が分からなかったが、相手を気絶させる事に成功したようだ。
「良し、今のうちに霊的拘束をおこなうといいでしょう。やり方を教える」
気絶してひっくり返った蜂の側に来ると、魔女王はふと、地面に転がった虫の前で立ち止まる。
「待って──あなた、影の魔術が使えるようになったの?」
「ん? ああ……少し前にな。こちらも色々な経験を積んでいっているのさ」
俺の返答に彼女は考え込む。
「それなら、影の魔術を応用したやり方の方が楽だし、多くの使役獣を獲得しておく事もできるでしょう」
そう語ると、こちらの領域内と物質界の間に繋がった影の空間を作り出すように言う。
「ここでなら影の倉庫とは違う系統の影の魔術が行使できるはずよ。その空間に取り込んだ使役獣を物質界に呼び出す時に、魔素や魔力を使って肉体を生成するので多少の魔力は消費するけれど、呪文を毎回となえたり、魔法陣を用意しなくて済むから楽よ」
俺はしゃがみ込むと、自分の影に手を触れて、そこから新たな影の領域を作る。ディナカペラに霊獣として拘束、契約する術式を教わると、蜂の下に影を伸ばし、影の中に魔方陣を浮かび上がらせ、蜂を使役獣として拘束した。
「良し、あとは影の中で傷を癒す術式を掛けてあげなさい。こうしておけば傷ついた使役獣を影の中に戻して、傷を治したら再び活動させられるでしょう?」
影の空間に治癒術式を組み込む方法も講義を受け、俺は新たな影の魔術「影の檻域」を手に入れた。
物質界に呼び出せるよう扉も作製し、その影の中に昏倒したままの蜂を回収する。
「さて、それでは戻りましょうか。あとはあなたの精神領域から『霊獣の楽園』へ来るようにすれば、いつでもこちらに来られるでしょう。けれど、いくつか注意しておくわ。こちらの獣や虫は魔術師や魔女によって作り出された物。危険な物が多いから注意しなさい」
そう言うと今度は、遠くにある山脈を指差す。
「あの山脈の向こうにある樹海の中に、この領域唯一の建造物がある。そこには近づかない事ね、そこはこの領域を管理する力の源があり、そこを守る存在が、あらゆる魔術師を寄せつけないから。この楽園を創造した十数人の魔術師や魔女の力によって作り出された、恐ろしく強い魔獣よ。倒しても益はないし、近づかないようにね」
彼女の警告に俺は頷く。
この領域を作り出したという魔術師たちは、後世にも使役獣を残してくれたのだ。その世界の中心に何があるのか気になるところだが、その秘術の正体よりも、まずは己の力となる使役獣を集める方がいいだろう。
*****
現実の方へ戻って来ると、池の上に浮かんでいる水の精霊がこちらを振り返る。
『では──レギ、私の……私たちの同胞が世話になったわね』
「いや、大した事はない」
立ち上がりながらそう応えたが、そういえば脇腹が痛くなってきている。触手で打ち据えられた損傷がいま頃になって痛み出してきた。
その様子を察したのだろう。水の精霊が手を伸ばすと、俺の体をぼんやりとした光が覆い、ひびの入った肋骨を治癒してくれた。
「感謝する」
ぽんぽんと肋骨を叩くと、水の精霊は頷いて、手を軽く振りながら池の中へと消えて行く。
池の中に波紋だけを残し、辺りには簡易結界による静けさだけが残された。
背嚢を背負い、簡易結界を解くと、森の外に向かって歩いて行く。手に入れた使役獣よりも今は街に戻って、ウーマ風穴に現れた未確認の魔物について報告する内容を考えていた。何故なら下手な事実をギルドに説明して、レファルタ教に怪しまれたくないからだ。
魔女との関係や、レファルタ教の行いについてギルドに話す訳にはいかない。きっと奴らの手の者がギルドを監視していて、レファルタ教の立場を怪しくする者を見張っているはず。
邪神の妖卵を使うような真似をしておきながら、あとは現地の布教神官らに全て任せる、といった考えをするとは思えない。そこまで身勝手で愚かな連中ではあるまい。
自身の信じる宗教で「禁忌」としている呪術を使ってまでした、手の込んだ謀の結末を確認する草(密偵)が居る、と考えて間違いないだろう。
権力の中枢に位置する者の考えとは、どの国の人間であっても似通った部分がある。
実行力と結果に齟齬が生じるのを嫌い、自分が行使する人脈が正確に、自分の思う通りに動いたか、活動の結果が自分の思う通りの展開になったか、そうした事に執着するものだ。
間違いなく今回のような事を起こそうと策謀した者は、自らの背信的行為を自覚して行っている。その策謀を見抜いた者が居ると知ったら、確実に追っ手を差し向けて殺しにかかるだろう。
そんな危険は負いたくない。
もしかすると今回の事件も、ここ最近の不運つづきも──レファルタ教の仕業なのかと疑ってみた。
もし奴らが俺を殺そうと目論むのなら、魔女を捕らえて魔物と化し、それを使って襲わせるような面倒な真似はしないだろう。……そもそも、連中と敵対するような事柄に憶えがない。……いや、一つあった。
連中お抱えの「秩序団」の聖騎士たちを全滅させている。──俺が手を下した訳ではなく、中級魔神によって殺害されたのだが。
もしあの殺戮の場面を誰かに目撃されていたとするなら……
いやいや、それはあり得ない。いったいあの僻地に偶然やって来ていた旅人が居て、一部始終を目撃し、それをレファルタ教に密告した。とでもいうのか。
「ありえんだろう」
連中が「異端者」と目した相手に回りくどい手を使うとは思えない。やはり最近の不運は偶然であるのだろう。
巨大な権力を有し始めた教会に盾突こうとは思わない。教会の不正や悪事を暴いて正義の鉄槌を喰らわしてやろう、などという正義感は持ち合わせがない。
俺の正義は俺の手の届く範囲で手一杯なのだ。
降りかかる火の粉は払うが、わざわざ火中の栗を拾うような真似をするつもりはない。
正義などというものは、個人と集団──その双方が食い違いを起こさぬよう見張る、価値観のすり合わせ以上のものではないだろう。
規則や法といったものが人間集団に必要なのは、個人の主張する意見が、多くの個人と対立するから必要なのだ。
しょせん人間の自我とは利己主義の権化になりがちだからだ。自分の意見を押し通せるのなら、権力や暴力(武力)に訴える連中がなくならないのは、元々の性質が「対話」や「協調」といったものからかけ離れているからであろう。
組織的な陰謀など勝手にやればいい、それに加わっている連中を相手にするなど有害無益。
邪魔になりそうならそれなりの手を打つところだが、巨大な組織が相手では──思うような対策は取れない場合がほとんどだ。
個人の正義とは、己の価値判断を以って他人を裁く事ではない。己自身を守る為に奮う力の総称、あるいは志そのものだろう。──それらを「尊厳」などと呼び──場合によってはその正義を守る為に、人は一時的な自由を手放さなければならない時もあるし、その正義によって死ぬ事もある。
個人にも正義があるのなら他者にも当然、その個人特有の正義がある。
ところが多くの人々は、他者との関係なしには生活する事もままならない。それゆえに人々は群れを成し、社会としての共同生活をおこなう個人として、生活の基盤を作ろうとする。
こうして個人は、集団の中で対立しないでいよう常識や、規範を作る事を余儀なくされる訳だ。一人一人の正義が対立しない為に。
それら大勢の意識が争い合う事なく集団を築くのならば、集団の正義が必要となる。そうした集団の正義は多くの場合──利害関係の一致や、共通する世界観(宗教観や思想観)といったものを生む。
その組織的正義(共通認識)の個人個人への広まりが、より広範な正義となり得るのだろう。それゆえに、(力のない)個人の正義は、(力のある)集団の正義によって塗り潰されてしまうのだ。
そして人間同士の争いの始まりとは、互いの思想や利益の対立が起こり、これが歯止めの利かないほどに不満や、怒りの感情を増大させて起こるのである。
だがそれ以前に、正義を持たない人間もまた居るものだ、そんなモノにはなんの価値もないと言わんばかりに。そうした連中にとって、自分に都合の良い事が「善」すなわち正義となるのだ。
利益にしろ正義にしろ、人間はしょせん──言葉を扱う獣に過ぎないのだろう。
「良し(リージュ)」とは魔女達の間で交わされる言葉、くらいの理解で。
別段意味はありません。雰囲気ていどのものです。




