魔神ベルニエゥロとの謁見
『待て』
俺の周りを取り囲んでいる十体以上の妖人や魔物が、その声を聞いて静まり返る。
次の瞬間、俺を取り囲んでいた連中が壁際に素早く離れて行き、俺は気配を感じて高い天井を見上げた。
赤と紫に光る水晶の天井の一部が黒っぽく滲んでいったと思ったら、そこから灰色のなにかが降ってきた。
ずしぃんと重い音を響かせて床に着地したのは、灰色の皮膚に青い魔術の紋様を持つ──ぶくぶくと太った醜い化け物。そう、以前俺に黒宝玉を手渡した中級魔神だ。
『来たか、人間よ』
威圧的なその気配を前に、多くの妖人や魔物は震え上がるみたいに壁際に寄り、中にはひざまずく者すら居る。
ここに居る妖人や魔物の多くは、大した力を持ってはいない者ばかりのようだ。少なくとも以前に会った蛇の下半身を持つような、危険な妖人の姿はまったくない。
『やれやれ、襲ってくる者は容赦せず倒せとは言ったが、ずいぶん派手に暴れたものだ』
「あんたが来るのが遅ければ、こいつらは全滅していたところだ」
俺は精一杯の虚勢を張った。
もちろん実際はどうなっていたかは分からない。俺が数の力に圧倒されて倒されている場合もあり得る状況だった。
『ふぁっはっはっは! ……まあそうだな、ここに居る連中は揃いも揃って塵芥のような者ばかりよ』
ついて来い、そう言って巨大な躯を持つ魔神が俺の横を通り過ぎ、先へと進んで行く。
背中から突き出た青い棘、尻の上にある場所からは太く、短い槍の穂先状の尻尾が生え出ており、歩く度にそれが左右に揺れ動いている。
どすっ、どすっ、と音を立てて歩く先に折れ曲がった階段があり、そこをゆっくりと上がって行く。
先程の戦闘ではっきりした事がある。
それは死の使いから得た結晶核の効果だ。──この結晶の力のお陰で死の危険を感じ取り、素早く危険から逃れる行動が取れるようになったのだ。この能力──「聴死」──の力があれば、感覚的な戦闘においては相手よりも優位に立てる機会が増えるだろう。
四階に向かう階段の途中に小さな小部屋の前を通ったが、そこには蛇の鱗を持つ妖人アガン・ハーグの姿が二体あった。
そいつらは中級魔神の後ろをついて行く人間を訝しそうに見ているが、襲って来る気配は微塵も見せない。
四階に来ると、また塔の中央にある広間を通って別の階段を上る事になった。
四階に居る妖人や魔物は、二階や三階に居た者とは違って、かなり強い魔力を感じる──危険な手合いが多いと感じた。
その姿も不気味で、頭を二つ持っている大きな人型の化け物や、巨大な獣の胴体に人間の上半身を持つ異形の魔物などが多く存在している。
その中に──美しい人間の女の姿があった。青地の礼装婦人服を身に着けた、品の良い貴族を思わせる姿だが──その下半身は大きな無数の蛇であり、太い胴体を持った蛇の頭の一本が、通り過ぎるこちらをじっと見つめ、「しゅるしゅる」と音を立てながら舌を伸ばし、鎌首をずっとこちらに向けているのだ。
女王のような姿をした妖人アガン・ハーグの親玉──そんな雰囲気がある。
水色の冷たい瞳でこちらをちらりと見ると、彼女は意味ありげに笑いかけ、俺はぞっとしながらも軽く頭を下げてそこから立ち去った。
目が合った時、すぐにその危険な妖人の気配に気づいたのだ。
膨大な力を秘めた瞳。
もしかすると魔神から与えられた魔眼を持つ存在だったのかもしれない。危険な気配がその視線から感じられたほどだ。
まだまだ世の中には魔神以外にも危険な存在が居るのだろう。改めて肝が冷える思いがした。
ここは幽世なのだ。
しかも魔神の領域なのである、危険に決まっているではないか。
俺はもう一度気を引き締め直すと、魔神の後を追って五階への階段を上がる事になったのである。
五階は赤や紫に光る水晶の壁の通路に、黄色や黒い色が混じる通路が続いていた。捻れた柱が橙色や朱色に光を放って天井まで伸びている。
通路には黒水晶で作られた扉や、紫水晶の扉などもあり厳かにも見えるその内装は、美しさの陰にある──不気味な魔性の部分が浮き上がって見えるみたいな。不安を掻き立てる装飾が施されていた。
『あの扉の先に魔神ベルニエゥロ様が居る』
灰色の化け物はそう言いながらどすん、どすんと歩いて行く。歩幅は短いが躯が大きいので、歩く速度は大して変わらない。
その大きな扉は青や赤、紫や緑など多くの色に変化する光を放つ──奇怪な色合いと意匠の成された扉で、他の物よりも圧倒的に巨大な扉であった。
灰色の魔神はそれを片手で開けると、数本の捻れた柱が高い天井を支えている場所に出た。その広い空間の壁際には灰色や黒い色の石像が立ち並び、それらは異形の妖人や魔物の姿を象った物であるらしい。
広間の先に水晶の段差が数段あり、その先に巨大な水晶の玉座があった。あまりに異質なそれを「玉座」と称するのはどうかと思われたが、そう言う他に思いつく言葉がない。
紫色や赤色の水晶の肘かけや背もたれがあるその玉座に座っているのは──巨大な蟇蛙。
そう、胴体は蟇蛙を思わせるぶよぶよとした、疣のある気味の悪い茶色の躯で、その短い脚は肥え太った牛や山羊を思わせる、大きな黒い蹄のある灰色の毛が生えた脚。
白い腹部には大きな銀製の帯に似た装具を身に着け、それは数々の宝石や水晶がちりばめられた豪奢な物だった。
腕は四本あり、脚とは違って細長いそれらは──大きな手の指に、無数の宝石類が付いた金や銀の指輪を嵌め、目映く飾り立てている。
首は見えないが、首から胸にかけても宝石や金銀製の首飾りを下げており──もはや蛙が、王や女王を気取っているのではないかと思えるくらいだ。
そしてその頭部だが──それは長い鼻を持つ馬に似ていた。だが……目が横に付いていない。
しかもその目は馬の物ではない。明らかに猛獣の持つ眼。あるいは人間の目に似ているのだ。
巨体の上から見下ろすその目は、通常は白い部分が黒く、いわゆる「黒目」の部分は白色、または銀色の月のようだ。
二つの不気味な眼の上、その間にも──もう一つの大きな目があり、ぎょろっとしたその赤く光る眼球に睨まれると、それだけで前に進もうとする気持ちが削がれる思いがした。
馬の頭からは短い角が横から生え、直ぐに上へと伸びた白と黒の二本が左右から突き出ている。
白い方の角には銀製の冠がぶら下がっていて、よく見ると白い角の先端は途中で折れて無くなっていた。
『なんじゃ、そやつは』
緑色の衣を纏う、その巨大な化け物が口を開いた。その声は老躯から発せられた──男とも女ともつかない声色であった。
周囲には数体の魔物や妖人の姿が見えたが、そのどれもが強大な力を秘めた上位存在であるのは明白だ。
中には人間に近い見た目の男や女の姿もあるが、角や翼を生やした異形の容姿を持つ連中である。
『はい、我が王。こやつは魔神ラウヴァレアシュの使いだという者です。その左目の魔眼には、確かにラウヴァレアシュの力が秘められております』
灰色の中級魔神が言うと、四本の腕を持つ魔神ベルニエゥロが一本の腕を使って手招きをする。
俺は恐怖を感じながらも大胆に一歩、二歩と踏み出して、その異様なる魔神の前に進み出た。
ぎょろりとした三つの眼を俺に近づけるみたいに屈み込むと、ぶよぶよの腹がたわんで脇腹が膨れ上がる。
『……なるほどの、確かにその魔眼はラウヴァレアシュの力によって生み出された物に違いあるまい。しかしまさか人間をここに寄越すとは、いったい何用なのじゃ。それに貴様のしている指輪は確か……ツェルエルヴァールムが手元に置く魔女の、手下の証ではないかのぅ』
発言を求められているのだろうか? 俺は黙って立っていたが、ベルニエゥロは『まあよいわ』と言って玉座にもたれかかった。
『ツェルエルヴァールムは冥府の牢獄にその魂を封印され、奴ら<理力の魔女>共も魔神の庇護をなくし、怯えておるじゃろう』
そんな事を言うので俺は一呼吸おいてから、その発言を否定した。
「それは違う。ツェルエルヴァールムは冥府よりその魂を奪還し、今や現世に復活している。何故なら冥府から彼の魔神の魂を取り戻したのは、この俺なのだから」
俺の言葉に周囲に居た魔物や妖人がヒソヒソと話し合うのが聞こえた。魔神ベルニエゥロは眼を細めてこちらを見つめると──顎に手を当てる。
『ほう、そうか。奴が復活を果たしおったか──人間よ、その小さな身で、よくぞ成し遂げたものよの。……そうか、ラウヴァレアシュが貴様を遣わし、五柱の魔神の動向を探らせているのじゃな? もしやディス=タシュの下にも行くつもりなのか、小さき者よ』
魔神はディス=タシュの危険については話さずに、その魔神の状態について説明を始める。
『魔神ディス=タシュはその躯を三つに引き裂かれて、様々な場所に封印されているらしいのじゃ。一つは物質界に近い幽世に、一つは魔界に、一つは冥界にあると考えられておる。──まあ、それも以前の事ではあるがの。もしかすると貴様のような命知らずな者がディス=タシュの封印を破っているかもしれんがなぁ』
まるで咳込む雄牛を思わせる笑い声を放つ魔神。
その笑い声がしだいに小さくなると、ベルニエゥロは灰色の中級魔神を下がらせた。
『もしや……ラウヴァレアシュは五柱の魔神の内の四柱の力を以って、<破滅の暴君>に止めを刺そうと考えているのじゃろうか』
それで貴様に他の魔神と接触させているのではないか? と聞いてきたが──自分には分からない事だと説明する。
『ふぅむ、なるほどのぅ。貴様はラウヴァレアシュの配下という訳ではないのか、変わった奴だとは思っていたが。ツェルエルヴァールムにも協力したと言うし、貴様は何を望んでラウヴァレアシュやツェルエルヴァールムに協力しているのじゃ?』
俺は正直に魔導の探求の為と答えた。すると魔神ベルニエゥロは『ふぅむ』と頷いて三つの眼を閉じる。
『……いいじゃろう。貴様に力を与えてやっても良い。ただし、この儂の頼みも聞いてもらおうではないか──どうじゃ?』
その申し出は唐突なものだった。魔神ベルニエゥロはどちらかというと危険な魔神だと聞いているので、俺は慎重に考えて答えを出す。
「俺にできる事であれば──しかし、俺はあなたの配下にはならないぞベルニエゥロよ。こう言ってはなんだが、俺は妖人や魔物などになるつもりはない」
周囲の妖人や魔物からは不満を表す溜め息のようなものが聞こえてきたが、魔神ベルニエゥロは違った反応を見せる。
『ぶわぁっっははは! なるほどのぅ、小さな人のままで力を手に入れたいと、そう言うのじゃな? 魔導の極致が人智を超えた先にある場所だと知りながら、なおもその道を進むと言うか! はぁっははははぁ! よい、よいぞぉ!』
げらげらと笑い声を響かせる蟇蛙の魔神。
ところで「破滅の暴君」とは魔神ディス=タシュの事かと尋ねると、蟇蛙は『そうじゃ』と答える。
それで、頼み事とはどういった内容のものか、そう警戒しながら尋ねた。
『うむ。儂の配下の魔神が、契約を破った魔導師の魂を奪おうとしたところ──どうやら、逃げられたらしいのじゃ。どうやって契約から逃れ得たかは分からぬが、その魔導師を捜索する者を探しているのだという。どうじゃ? やってみるか?』
魔神との契約を破棄すれば、自ずとその魂は魔神のものとなる仕組みのはずだが──いったい、その魔導師はどうやって逃亡を成し遂げたのだろうか。
俺は興味を引かれ、その依頼を受けてもいいと返事をする。
『そうか、それはいい。その魔導師が人間界では、そこそこ名の知れた者であると聞いておる。貴様にとっても其奴の事を知るのは、魔導の道を志すなら良い経験になるじゃろう』
急に魔神ベルニエゥロは静かな口調で語った。まるで小さな鼠がうろちょろとするさまを見て『好きにするといい』とでも言うみたいに、その口調からは慈悲に似た響きが感じられた。──気のせいかもしれないが。
それでは配下の魔神の場所へと案内する者を呼べと、近くに居た者に指示を出し、人間の男の姿を持つ──大きな蝙蝠の羽を生やした妖人を謁見の間より退出させる。
大きな扉が開き、しばらくすると──出て行った者とは違う、別の誰かが大きな広間に入って来て、大股で水晶柱の間を歩き進めて来る。
『むぅ……貴様は……!』
黒い仮面に黒い衣服を身に纏う、色白の肌をした若者が巨大な蟇蛙の前に立ち──低いが、辺りに浸透するような良く通る声で「久しいなベルニエゥロよ」と呼びかける。
その異様な雰囲気を纏う若者は、魔神ラウヴァレアシュ。
かつて俺の前に姿を現した、人の姿を取った魔神に間違いなかった。
「中級魔族」としていたものを「中級魔神」としました。
蟇蛙は「ひきがえる」としましたが「がまがえる」の方が一般的なのかな? どちらの読み方でもいいみたいです。




