死からの再生
目覚めると、そこは見知らぬ場所だった。
まだ日が登っていない──街道らしいものもなく、冷たい夜の空気に満ちた草原の中に、ぽつんと取り残された……エンファマーユの姿もない。
なのに、生きている喜びを感じていた。ただそれだけで救われた気持ちになっていた。命とは、動物的感覚とは、こういった程度のものなのだろうか。
生きているだけで充分だなんて──今までの俺からは想像もできない考え方だ。
死者となった俺だからこそ感じる──生命の喜び、と言ったところだろうか?
身体の状態を確認してみたが、確かに俺は生きている。
衣服には穴が空いていたが、身体の傷は消えており、痛みもない。
すると俺を照らす銀色の月から、足下に落ちる影の中に何かが浮かび上がって来た。……それは黒猫だった。
「レギスヴァーティ、無事なのね」
その声はエンファマーユだった。どうやら使い魔を寄越して来たらしい。俺の影に予め仕込んでおいたのかと問うと、今日一日だけよ、という曖昧な返事が返ってきた。
あの双子を危険だと言っていたエンファマーユだが、影の中に使い魔を忍ばせているなんて──この女も相当である。
「人の事を監視する気でいたのか」
「だから、今日一日だけよ」
黒猫はそう言いながら毛繕いを始めて誤魔化す。
「それよりも、あの双子とあんな約束をして……本当に大丈夫なの?」
彼女はそう言って、幽鬼の領域に遺跡が現れたのだって、あの双子が仕組んだに違いないわ、と口にする。
「そうだろうが、あの遺跡のお陰で助かった事はあっても、危険にはならなかっただろう。彼女らに感謝すべきでは?」
黒猫はそう言われ、ぷいっとそっぽを向く。どうも彼女は死の使いとの経験から、冥界に関するものに否定的な感情を抱いているらしい。魔導師としてはどうかと思われる感情的意見だ。
「だいたい私があなたの影に使い魔を忍ばせていたのは、魔神ラウヴァレアシュ様が貸し与えた物を返してもらう為よ」
そう言われ、自分が黒い刃の短剣を握り締めている事に気づいた。この神殺しの武器があったお陰で、楽に死の使いを滅ぼす事ができたのだ。
「そうだったな、ラウヴァレアシュに礼でも言っておいてくれ」
俺はそう言いながら屈み込み、黒猫の前に短剣を差し出す。
「なにを他人事みたいに……」
黒猫は短剣を口にくわえると、それを影の中にしまい込んだ。エンファマーユの影を自在に操る能力は興味深い。この技術は影の魔術であろうか? 影に物理的に干渉し、別の次元に繋げる呪法……高位の魔術だ。
精神的な技術である基礎的な魔術から、霊的な力を行使する魔術まであるが、物理的な領域干渉を行う結界や、高度な次元まで干渉する技術は、高位の魔導師でなければ到達できない領域である。
「凄い魔導だな。その影の魔術……ぜひ『四界の霊域』と共に、その技術を学ばせてほしいものだ」
彼女はあっさりと「ダメよ」と応える。
「あなたは誠実さを持っている──まともな人であるらしいけど、危険な奴でもあるわ。あの魔神と取り引きして、援助だけを受けながら活動をしているなんて。……しかも、冥界神の娘と言われている『冥府の双子』にまで気に入られて──いったい、あなたはなにをするつもりなの」
黒猫はまっすぐにこちらを見て、そんな事を尋ねてきた。
「なにを……? 愚問だな。俺は魔導の道を探求する者。自らの力となるものを求め、真理へと繋がるあらゆる道を歩むのみだ」
それは──あらゆる魔導師に通ずる想いであるはずだ。自らの欲するところを為せ、という──傲慢な思想の発露。それでいて留まるところを知らぬ切望は、自らを滅ぼす誘因となるのだと教える魔導の教義。
対立し、影響し合う物事の多い現世での活動と、その終着を決めるのは、己の意思と運命である。
そして魔導は、その運命をもいずれは支配し、自らの欲する通りに舵を取り、操る事にあると言える。
「……そうね、確かにあなたの言う通りだわ」
エンファマーユはそう呟くと、暗い夜の向こう側を前足で指し示す。
「向こうにあるのがブレアノスの街のようね。どうやらあなたが居る場所は、あの双子によって街の近くへと降ろされたらしいわ」
夜空に浮かぶ月はまだ満月になっていない。湖へ行く前に──満月になるまで、数日を街の中で過ごす事になりそうだ。
「満月まで、あと三日くらいあるでしょう。その前に黒宝玉を封じる手立てを取るべきでしょうね」
また危険な幻夢界に引きずり込まれ、死の使いとは別の危険な存在に目を付けられては敵わない。
「なにか、良い手段はないのか?」
俺はそう言って、革帯に絡まった白い布を取り外す。
「それよ、その白い布に掛けられた『隠匿の呪符』の効果を解析し、自分で作り出しなさい。それで黒宝玉を覆い隠せば、おそらくは平気でしょう」
「おそらくとは曖昧な」
黒猫はまるで舌打ちしたみたいに顔をしかめ、「後は自分でなんとかしろ」とでも言い出しそうな鳴き声を上げた。
「ま、なにはともあれ、いろいろ世話になった。感謝する」
ぽんぽんと黒猫の頭を叩いてやると、黒猫は「すんすん」と鼻を鳴らし、吐き捨てるみたいに言った。
「あなた、血の臭いが凄いわ。早いところ落とした方がいいわね、獣が嗅ぎつけて来たら厄介でしょう」
確かにそうだと立ち上がると、立ち眩みを起こしてよろけてしまう。……血を流し過ぎた。
「『死』の権化から九死に一生を得ておきながら、獣ごときに命を奪われてはやってられない。すぐに街へ入るとしよう」
俺はそう言うと背嚢を背負い直し、エンファマーユが示した方向へ向かって歩き出す。……するとどういう訳か、黒猫もてくてくと歩いてついて来た。
「せっかく助けてやったのに、野犬にでも襲われて死なれたら──それこそやってられないわ。街まで護衛をしてあげる」
こうして俺と黒猫は月夜の中を歩き、草原から街道を見つけると、道なりに歩いて進み続けた。林の陰になって気づかなかったが、ブレアノスの街は割と近くにあった。──街へ続く折れ曲がった道の先に囲壁が見え、薄暗い夜空の中に微かな光を発している。
深夜ではあるが、門がある場所に篝火が焚かれ、番兵らの姿も見えた。俺は街へと続く道を進む前に後ろを振り返り、黒猫のエンファマーユに礼を言い、もうここで大丈夫だと告げた。
「そう──それではここで。機会があれば、また会いましょう」
彼女はそう言葉を残し、影の中に溶け込むと──影も形も完全に消え去っていた。
「影使いの魔導師」が去り、肌寒い夜道を歩きながら街へと向かう。なんだか生き返った気分だ。……実際、生き返ってここに居る訳なのだが。
街の門に近づくと、三人ほど居た番兵がこちらに気づいて、少し警戒する構えを見せる。──たった一人が相手だと知ると、おそらく彼らはほっとしたのだろう、気配に安堵の色が見られる。
しかし彼らに近づいて行くと、俺の様子を見た番兵の一人が驚きの声を上げたのだ。
「おっ、おい。お前……! 大丈夫なのか──?」
鉄の鎧などを身に着けた番兵の男が言うと、他の二名の兵士らも驚き、一人は不死者が現れたのかと思って剣の柄に手をかけたほどだ。
「え、ああ……この血か。──大丈夫、見た目ほど酷くはないです。怪我も治しましたし」
穴の空いた服などを追究されると困るので、なるべく問題はないんだと装って、兵士らを安心させる。
「そ、そうか……? ずいぶん血が付いているようだが……」
松明を掲げながら、俺の血の付いた衣服などを調べ、まじまじと観察する。少なくとも「死霊」の類ではないと確認すると、彼らは夜遅くに現れた冒険者を訝しみながらも、銅貨数枚を受け取って通してくれた。
今の俺は生きている喜びに溢れ、何だったら銀貨を兵士諸君に与え、一杯飲みに行こうと誘いたいほどの気分でいたが──止めておこう。そんなのは自分らしくない。
俺は兵士に通行税を払い終えると、開かれた小さな扉を通ってブレアノスの街の中へと入って行った。
宿屋の場所も聞いておいたので、すぐに宿屋へと向かう。──そこは小さな宿屋だったが、冒険者が多く泊まる宿屋の一つだと番兵が説明してくれたのだ。
宿屋のドアを開けると呼び鈴が鳴り、カウンターの前で待っていると、眠そうな男がのっそりと姿を現す。
「泊まりですか……ぉわぁっ⁉ あんた、その怪我……!」
「平気です。申し訳ないが、風呂の用意はできますか?」
宿屋の主人は驚き、血の気が引いた顔で、俺の血だらけの胸元と顔を交互に見ていたが、裏手の水洗い場なら自由に使って構わないと言ってくれる。
俺は銀貨を彼に渡すと「釣りはいらない」と言って二階へと上がって行く。
部屋の鍵を開け中に入ると背嚢を床に置き、中から下着と代わりの衣服、石鹸などを取り出して一階の水洗い場へと向かった。
裏手の勝手口を開けて水洗い場に来ると、井戸の前に来て置かれてある大きな木の桶に井戸水を流し込む。井戸は水が豊富で、滑車で引き上げる時間も短く水を溜める事ができた。
外は寒いが仕方がない。水に手を翳し、水をお湯へと変える。湯気が立ち上ると俺は衣服を脱ぎ、まずは身体に付いた汚れや血を洗い流し、幽鬼の領域で起きた戦闘を思い出しながら、穴の空いた服を見る。
自らに死霊となる呪術を掛ける日が来るとは想像もしていなかった。基本的に他者の身体(死体)を使って行う呪術だ。
古代の魔術師は冥府から呼び戻した死者の霊魂は、過去や未来についての事柄に通じるというので、未来の予言や、過去の出来事の真偽などを確かめるのに使っていたのだとか。──今ではその技術は失われている訳であるが。
何故、死者が未来の事柄について知り得るのか? それは「冥府の双子」が口にしていた「死は時を超えて顕在する」や「死は遍く広がっていく」という言葉に表れているのだろう。
死に時間的な制約はないのではなかろうか。
死んで生まれ変わる者が居るとして、それの魂が過去へ生き返ったり、未来へ生き返ったりする事があり得るのではないか。
そして魂は無意識領域と同じで、根源を一つにして、全ては繋がっているのだとすれば──それらは単一の、絶対不可分の理の中にあるのだ。
永遠流転の生命と魂。
それは十二分にあり得る事だ。
何者かの死が、誰かの生の糧となるように。
あの幻夢界で不死者となった俺は、どのようにして元に戻れたのであろうか? あの双子の魔導の技。それは神にも近き高位の魔導に違いない。
彼女らから、その叡智の一端でも譲り受けたいところである。
この後は少し寄り道的なお話かな……




