出現するもの
敵の動きは、素人に毛が生えた程度の剣技しか身に付けていないものだった。殺気だけは一人前だが、そんな攻撃は目を瞑っていても受け流し、反撃できるくらいだ。
相手の三撃目の攻撃を剣で弾き飛ばすと、男の右肘辺りを狙って剣を振り下ろした。その一撃で腕を切断された男はよろよろと後退して、がっくりと膝を突いた。
「いったいお前は何者だ、ここでなにをしたのだ」
俺が問いかけると男は大きく口を開き、耳をつんざくほどの悲鳴と、咆哮の入り混じった、奇怪な叫び声を上げた。とても人間の発せる声ではない。危うく剣を手放して、耳を塞ごうとしてしまうほどの──怒りに満ちた吠え声だ。
剣を手にしたまま耳をなんとか塞ぎ、数歩後退して相手の咆哮が収まるまで堪えた。
相手の様子から目を逸らさずに警戒していると、男の顔はしだいに狂気に満ちた俺の顔ではなく、皺が寄り、青い目を持った──年老いた老人の顔になって、前のめりに倒れ込んだ。
見かけによらず重々しい音を立てて倒れ込んだ男は、口を大きく開いたままぴくりともしなくなった。腕を切り落とされたから死んだという訳ではあるまい。
この奇妙な出来事を起こしているのは、明らかに人間ではない。いま自分が踏み込んでいるのは、人外の存在が関わっているのに違いないと直感した。
「この奇妙なものを見せているのは何者だ? いったいなんの為に、こんなものを見せるのか」
俺は剣を構えたまま、見えざる存在に向かって呼びかけた。返事はなかったが、相手がどこかからこちらを見ているのは確信が持てた。
数秒、あるいは数分が立った頃、周囲の様子が段々と変化してきた。灰色の壁がめりめりと音を立てて変質し、黒い異質な壁に変化していったのだ。それと同時に辺りは暗くなり始め、自分が危険な状況に追い込まれている事に気づいた。
携帯灯を無くしているが、荷袋には小さな松明が入っている。俺はそれを手に取ると慌てながらも、小瓶の中身を乾いた布に振りかけ、松明の柄に付けた燐寸を擦って、松明に火を付ける。
完全に室内が闇に落ちると、辺りを松明の火で照らして見回すが、倒した男の姿も、男に倒された女たちの姿も消え去っていた。──やはり幻影だったのだ。
恐怖が周囲の闇から染み出てきた。
比喩ではない。松明に照らされた闇の一部に、炎の放つ明かりを受けてもなにも映せぬ真なる闇。暗闇の中の漆黒の影が現れ出たのだ。
それはぶすぶすと、あるいはぐじゅぐじゅと音を立てて集まり、大きな影の塊を作り出した。
それは天井に届くほど大きな、黒い獣に似た存在であるらしかった。身体の輪郭がぼやけて揺らめき、顔と思わしき部分から覗く、六つの黄色く輝く大きな猫科の獣に似た眼が、こちらを見つめている。
頭が三つある訳ではない、一つの頭に六つの眼孔があるのだ。
『人間か』
それは言葉ではなく、頭に染み入る冷気に似たなにかで語りかけている。冷気というのは例えだが、頭の中が妙な感覚になるのだ。
「そうだ、人間……だ」
言葉に出して、正直に答えて良いものかどうか迷ってしまった。いま対峙しているのは生物ではなく──魔物ですらない。初めて目にするし、これらの存在に詳しい訳でもないが、それが上位存在──つまり、神などと呼ばれる存在であるのは、はっきりと分かった。
ただしそれは、魔神や邪神と呼ばれる、危険な──あまりに危険な存在である事は明白だった。
もちろん普通の人間なら、失禁して逃げ出していたとしても恥ずかしい事ではない。これと向き合ってなにも感じずに平静でいられる者が居たとすれば、それは狂人に他ならない。
『ふぅむ』
それはじっと、巨大な黄色い眼でこちらを窺いながら思案し始めた。
『名は何という』
その言葉はまるで、無関心な虫を見ながら「これはなんと呼ばれているのだろうか」とでも問いかけているみたいな、冷ややかな声を頭の中に響かせてきた。俺は腹を据えて口を噤んだ。
『名は』
苛立ちに似た響きを持って、今度はかなり威嚇的な感じで、頭の中に無数の小さな棘を感じた。俺はそれでも首を横に振り「答えるのを拒否する」とだけ口にした。
その言葉を吐き出すのに、根性を振り絞る事になった。上位存在の威圧的な気配の前に立たされた事のある哀れな人間にしか、この気持ちは分かるまい。相手の求めを拒絶するだけで、あるいはしようと考えるだけで、膝が震え出してしまうのではないかと思ったほどだ。
『ほう、名乗りたくないと。──何故だ』
今度は面白そうにそれは尋ねてきた。頭の中に発生した無数の小さな棘が消えてほっとしたが、受け答えには少し間を必要とした。
「上位存在に迂闊に手の内を晒さない方が良いというのは、魔導を知る者なら当然だ。あんたが何者かは知らないが、無闇矢鱈に人間に接触しようとしない事が、返答の代わりになるのでは?」
俺が慎重に答えを考えて発した言葉を受けて、漆黒の影がゆらゆらと揺れ、六つの眼がすぅっと細くなる。
しまった、挑発しすぎたか?
そう考えたが、どのみち死ぬか生きるかしかないのだから、ちっぽけな人間の、個人としての存在の意地を賭けて相手と対峙する事を選んだ。
天井まで届く巨体を持った真っ黒い獣は、ゆらゆらと体を揺らしていたが、しだいにそれを笑い声に変えて、頭の中に響かせてきた。
それは老人の、あるいは若者の、あるいは男の、あるいは女の声で、高く、低く。大声で──もしくは小声で笑っていた。
『そうか、確かにな。いや、その通りだな。我々は何時でもお前を殺そうと思えばそうできるが、それを実行するには理由がいるからな。ああ、確かにそうだ』
そこまで言うと、その頭に響く声が一変した。今度は冷たく無関心で、無機質な響きを持っていた。
『しかしお前は、我が領域で殺人を犯したではないか? お前はお前自身の手でお前を殺したのではなかったかな?』
一瞬ぎくりとしたが、努めて冷静を装って一呼吸間を置いて返答する。
「腕を切り落としただけで、殺害はしていない。それに死んだのは見た事もない老人で、彼は老衰かなにかで死んだのでは?」
獣はまたも、ぐつぐつと体を揺れ動かせて笑っているらしい。しばらくそうしていると、それは大きな口を開いてしゃべり始める。
『面白い奴だ。それに警戒心も強いようだ、慎重さは臆病でもあるが、強い意志も持っているらしい。……いいだろう』
上位存在は自らの口から声を出し続けて言う。
『まずは私が名乗ろう。先にお前を安心させておくが、これは契約ではない。とはいえ、ただ自己紹介するというものでもない。──私はお前の願望が叶うよう力を貸そう、その対価として私の慰みに協力してくれないか』
驚いた事にそれは対話を求めてきた。上位存在からこのような申し出を受けるとは予想していなかった。──俺はあえて考える時間を作ってから「わかった」とだけ応えた。
危険ではあるが、上位存在がここまで譲歩しているのだ、ここで拒否などすれば英雄ではあるが、愚か者でもあるだろう。その先にあるのは、たとえ生き長らえても──自らの不運を呪う。災いと徒労に満ちた人生があるのみかもしれないのだ。
『私は魔神ラウヴァレアシュ。今は力の大部分を失っているが、人間の行く末を守り導くくらいは造作もない。闇に沈みし暗き力ある五本の柱の一柱、それが私だ。──お前の名は?』
「レギスヴァーティ」
そう名乗りながら、魔剣を鞘に戻す。
『レギスヴァーティか、ふぅむ……。お前は何故このような場所までやって来たのだ、ここは見ての通り何も無い、ただの廃墟だ。しかも人里からも離れている。何を求めて、ここへ来たのだ』
天井まであった獣の姿が段々と縮み始めた。それは黒いドロドロのヘドロみたいになって、やがて人型を形作り始め──最終的には灰色の仮面を付け、黒い衣服を着た、自分と同年代くらいの男の姿を取った。
全身黒ずくめで髪も漆黒、ただ肌の色だけは青白いほどの白。それが魔神の顕現した姿であった。
「古い地図を見つけたのでここへ。近くの都市にある伝承から、ここにはかつて街があり、語り継がれるほどの莫大な富、または魔法に関する知識を手にした王がいたとか。その遺産──できれば、魔法に関する方を期待して来た訳だが……」
なるほどと魔神は相槌を打った。肩を竦める俺になにを思ったかは分からないが、ラウヴァレアシュは手を翳して銀の燭台や、綺麗な木の丸テーブルと椅子をどこからともなく出現させると、部屋中の燭台に火を点け、俺が手にしている松明の火を消し去った。
読んでくれている人ありがとうございます。できれば最後まで読んでほしいですね。
ついに出現する圧倒的存在。これと対峙するのは死を覚悟できる者のみか──
斜に構えた主人公も内心は(本能的なもの)恐怖しています。