幻夢界③
それは大きな体躯を持つ死の権化。
そいつの身体を守る鎧は──数々の死者が張り付いているかのような、気味の悪い見た目をしている代物だった。
おぞましいその鎧は剥き出しの肋骨や人の顔の皮、背骨などで作り上げられている。言わば──死霊の鎧である。
「なっ、こいつは……!」
黒猫のウシャナが後退る。
離れた位置に出現した奇怪な姿の死霊だったが、まるで瞬間移動するみたいに右に左に移動しながら近づいて来る。
『これはこれは、懐かしい者が居るな? 猫に憑いていても分かるぞ、魔導師エンファマーユよ。かつて死の呪いを受けた小さき魔導師。今は魔神の犬となっているのか? 憐れなものよな』
そいつの声は、腹の底から頭に響いてくるみたいな──異様な場所から聞こえてくる低い声であった。
対峙した瞬間から分かっていた事だが、この存在は──俺のような生命を持つ存在にとっては致命的なものになるだろう。……それは即ち「死」の具現化に他ならない。
しかもこいつはウシャナ──真名をエンファマーユと言うようだ──の旧知の者であるらしい。「死」が言った、彼女の受けた「死の呪い」がどんなものかは知らないが、その言霊には不吉な響きが込められていた。
「死の使いよ。名も持たぬ黒き死の影に過ぎないお前に憐れまれるような事はなにもない。私たちは速やかにここを離れるだけだ、魔神の不興を買いたくなければ、ただちに立ち去りなさい」
エンファマーユの言葉に「死」が不快な笑い声で応える。
『フアッ、ファファファファ! 魔神ラウヴァレアシュがいかに強力な闇の神であろうとも、ここ幻夢界に居る我等になにができよう。この領域には生命と死の理にある者しか入る事はできぬ。だからこそ貴様をここに送り込んだのであろう』
急激に周囲の温度が低下したみたいに感じた。
俺は寒さに震え出し、毛穴という毛穴から体温と共に水分が蒸発していくかのような、体内の血がゆっくりと流れ出し、徐々にその温度が下がっていくみたいな──奇怪な死の体験を味わった。
「死」が、暗い虚しかない眼孔で俺を捕え、俺の身体から急激に生命を吸い取っているみたいだ。──逃げようと足を動かそうとした俺は、その場に膝から崩れ落ちる。
「止めなさい! この人間は、まだ死ぬ運命にはないわ! あなたに勝手な真似はさせない!」
「黙るがいい、小さき魔導師。この領域は我の支配にある。お前はそこで座して見ていろ」
その強力な言霊に支配されたみたいに、黒い猫は微動だにしなくなった。地面に腹を付け、じっとこちらを見ている。
「なに、命までは奪りはしない。その左目の魔眼を貰い受けようではないか。その力があれば、我も新たな領域を持てるであろう」
そう言って一瞬で近づいて来た「死」──俺は巨大な手に掴み上げられて、死の暗い虚を間近で覗き込む事になった。
「さあ、その眼を頂くとしよう」
そう言いながら奴は、右手の三本の指を伸ばしてくる──俺の左目に狙いを付けて。
「冗談じゃない」
はっきりとした口調でそう言うと、俺は魔眼を使って瞬間的に魔法を放った。
『グガァアァアァッ⁉』
左目からついさっき覚えたばかりの、光属性の攻撃魔法を撃ち出したのだ。かなり無茶なやり方で魔術の門を開き、識閾下に複写した魔法を自分の技術として強制的に使用する。──本来なら魔術の門を開いている時に何度か練習をしてから実戦で使うのだが、今回はそんな余裕はなかった。
伸ばしてきた手を貫通し、鋭く尖った光の槍が奴の眼孔に突き刺さっている。
振り払われた手から投げ飛ばされた俺は、弱り切った力を尽くして、なんとか地面に身体を打ち付ける事だけは避けた。
「死」の視線から逃れた為だろうか、体力や力が一瞬で戻って来た。どういう理屈かは分からないが、奴の暗い穴でしかない眼孔を向けられると、生命はその力を弱めてしまうみたいだ。
「今のうちに逃げましょう!」
黒猫のエンファマーユが動き出して俺のそばまで来て、そう言った。
「死」の頭蓋骨に突き刺さった光の槍は後頭部を貫通し、未だに金色に光る火花を噴き出しながら、死の使いに損害を与えている。
「冗談、ここで奴を仕留めるべきだ。死に睨まれたまま現世に戻っても、またここへ招かれるだけだろう」
この時の俺は冷静さを欠いていた。あとになって思えば、よもや「死」の権化とも言うべき「死の使い」相手に挑もうなどとは……正気ではない。
俺は小物入れに入った青い宝石を取り出そうと手を伸ばす。
「駄目よ、今は引きなさい! この領域では、奴を倒す手段はないのと同じよ!」
──確かに、確実に「死」を退ける事はできないかもしれない。しかし、光属性の攻撃などはしっかりと効いている様子だ。
エンファマーユの言葉に冷静さを取り戻した俺は、青い宝石を小物入れに収めたまま、識閾下に集中する作業を始める。
俺はもう一度、無茶をする事になった。逃げるにしても戦うにしても、このままでは「死」に追いつかれるだろう。
魔術の門を開くとできる限りの集中を行って、手に入れたばかりの魔法を使用できるように作業する。即席だが──問題はないはずだ。
「古き盟約、天の支配。理を以って神威を示せ、神々の標、邪悪なる魂を封じる神霊の檻。『光輝の封陣』!」
仮にここが冥府だとしても、上位存在の権限を──そのほんの一部だけだとしても──扱う魔法であれば、危険なる「死」を一時的にでも封じる事は可能なはずだ。
そして、その読みは的中した。
光の檻に包まれた「死の使い」を──球形の結界の中に閉じ込める事に成功したのだ。
「逃げるわよ! ついて来なさい!」
俺と黒い猫は緩やかな坂を下り、氷漬けになった死霊たちの横を駆け抜けながら、幻夢界を脱出する歪みの下へ走り続ける。
後方から、死の使いが結界の中から声を上げているのが聞こえた。
『ぉおのれぇえぇぇ! 小賢しい人間め! 命までは取るまいと思っていたが、貴様は我の下僕として、この幻夢界に永遠に閉じ込めてくれるぞぉおぉ!』
その言葉を背中で受けながら、俺は懸命に走る。今はここを抜け出る事を最優先にして、次の夜までに──死の使いを退ける方策を考えなければならない。
*****
──この時、俺たちを見つめる四つの瞳があった事に気づかなかった。それは離れた場所から、あるいは異なる領域から、俺と死の使いのやり取りを見ていたのだろう。
魔眼ですら容易には捉えられない死の領域を自由自在に移動し、認識し、その力を使って不条理なる死を彩る魔導の一端。それを扱う存在が──俺を見ていたのである。
*****
砦の向こうにある小さな丘を越えると、黒い縁取りをされた鏡のような物が宙に浮いているのを発見した。表面はまるで水鏡に似た──微かな風や振動を受けて揺らぐ、青白い鏡面を思わせる。
しかし不思議な事に、その風景を反射する空間には──俺の姿が映っていないのだ。
「あの中へ、早く!」
黒猫は俺の後ろで死の使いを警戒しているようだが、奴は結界を破れていない。術者の俺にはそれが分かっていた。
「いいから、お前も早く来い!」
そう言いながら風景を映し出している揺らぎの中へと身を躍らせる。
目の前の風景が一瞬で変わる。いや、厳密には同じ──似たような風景なのだが、色が違うのだ。
あの奇怪な幻夢界の空に浮かぶ赤暗い、薄紅色の光を放つ月。その光に照らし出された──異様な空気感を持つ世界。
それが今は──銀色の月に照らし出された暗い、夜の中に立っている。
幻夢界も冷たい空気に満ちていたが、こちらの現実界の夜の空気には、鼻腔を満たす若草の匂い、朝露を含んだ匂いなどを感じる──今思うと、幻夢界には匂いといった物が存在していなかった。
まさにあの領域は、死を体現しているかのような場所だったのかもしれない。
「なんとか逃げ切れたわね」
やけに高い位置から聞こえた声に振り返ると、そこに黒い猫はおらず、代わりに色白で、どんよりと虚ろな目をした女が立っていた。
長い黒髪は緩やかな波を打ち、身に纏った灰色の法服が足下まで伸びている。──容姿は悪くないが、いささか目の下の隈や、病的に青白い肌などが目を引き、長い間牢獄に監禁されていた囚人を思わせる女だ。
「エンファマーユか」
そう呼び掛けると、彼女は小さく舌打ちをする。
「あの『死の使い』め、余計な事を……そうよ。私はエンファマーユ。かつてはあなたと同じく人間の魔導師だった女よ」
その言葉にはどこか「不本意ながら」といった響きが隠されていた。彼女の事情は分からないが──なんとなく、死の使いが言っていた「死の呪い」が関係していると思われた。
「あの死の使いとは知り合いだったのか」
「……昔、一度だけあいつと接触した事があるわ。私がユフレスクの宮廷魔導師だった頃、私に王宮一等魔導技師の座を奪われると考えた──同じ宮廷魔導師から古い術式の呪いを受けてね、それで私はあいつから呪いを解除してもらったの。大きな代償を支払ってね」
昔の事を思い出したのか、彼女の語気には怒りの感情が滲み出していた。
「ユフレスク王国の宮廷魔導師か……はっ、あそこに行かなくて正解だったな」
どういう事かと尋ねてくる彼女に、エインシュナーク魔導技術学校でユフレスクの宮廷魔導師への推薦を勧められていた事を説明する。
「そう、あなたも優秀な魔導師だったのね。──それで、今では魔神との駆け引きに夢中という訳? ……危険よ。魔神ラウヴァレアシュは好んで人間を滅ぼしたりするような魔神ではないけれど、あなたの進んでいる道は──とても危険だわ」
薄暗い表情をさらに曇らせて彼女は警告をする。俺は「それは分かっている」と応え、まずは身近な危険をどうやって乗り切るかが問題だと、彼女の協力を求めた。
「……仕方ないわね。こうなった以上、次の──つまり今日の夜までに準備を整えて、幻夢界で死の使いを討ち滅ぼす事を考えましょう。──それは容易な事では無いけれど、死の使いはあくまで冥界の神の僕、不滅の存在ではないのだから」
遠くの空が徐々に明るくなって来た。──朝日が空を群青色や青色に染め、それは大地の一部に光を降り注ぐと、夜の闇を遠ざけ、新しい朝を迎え祝福する暖かい光で満たしながら、風の中に微かに感じる──生命の息吹を乗せて、俺とエンファマーユの間を吹き抜けて行った。
「死の使い」は俗に言う「死神」という感じの奴ですが、神の使い、という立場です。命ある存在にとっては抵抗できない力を持って現れる、という感じですかね。次話は少し脱線するかも……




