幻夢界①
「起きなさい、レギスヴァーティ」
それは女性的な声色で呼びかけている。だが……なにかおかしい、頭の中で反響するみたいな声だ。
「早く。このままでは危険よ、起きなさい、レギスヴァーティ」
その声はもう一度、俺の名を呼ぶ。
「なんだ、いったい……誰だ? 俺を呼ぶのは」
上半身を起こし、周囲を見回す──おかしい、誰も居ない。……いや、なにか様子が変だ。宿屋の部屋の窓はわずかに開いており、秋の夜のひんやりとした空気が流れ込んでいる。──その外が奇妙な色をしているのだ。
「なんだ……? 外の様子が──」
寝台から起き上がろうとすると、床に居る小さな生き物に気がついた。それは一匹の黒猫だ。
「レギスヴァーティ」と、その黒猫が喋りかけてくる。その猫の瞳は片方が青、もう片方が銀色に光って見える。
「うん? まだ夢の中なのか? 猫が喋りかけてくるとは」
俺はそう言って猫に手を伸ばす。
「ある意味では、そうね。でも、あなたの意識も肉体も、ここ幻夢界に捕われかけているわ。このままでは──あなたは一生、ここから出られなくなるわよ」
幻夢界? なんの事だ。……いや、その前にお前は何者だと、意識がはっきりしてきて、そう尋ねる。
「私はラウヴァレアシュ様の使いとして来たの。あなたを幻夢界から連れ出す為にね。名前は──ウシャナとでも呼べばいいわ」
ウシャナ……ある魔法の術式で使われる「配下」を意味する言葉だ。彼女(?)が名前を有する魔の眷属であり、軽々しく名前を明かせない身分にある(名前で支配される事もある)という事を意味しているのだろう。
「……それで、幻夢界とはなんだ? 識閾下の世界を統合する無意識領域に、そうした場所があると言われているが」
「まさにそれよ。あなたも魔導に組する者なら、それがなにを意味するかくらい知っているでしょう」
つまり睡眠状態から俺の肉体と意識が、次元の異なる空間に取り込まれ、元居た次元に戻れなくなっている、という訳だな。……一大事だ。
「何故だ。俺は『魔術の門』を何度も開いているが、こんな事になったのは初めてだぞ」
黒猫は、動作で苛々した様子を示す。
「あなた、魔神の下僕から妙な物を受け取ったでしょう。それが、あなたを夜になると幻夢界に引きずり込むのよ。これからあなたはここを出る為に、出口まで行かなければならないわ。その道案内として私が使わされたのよ」
あのデブ魔神、そんな事は一言も言わなかったぞ。──まあ、上位存在にあたる者が、下等な魔術師風情に危険な物事について警告するかと言われれば、そんな事はしないだろう。
「幻夢界は危険な場所なのか? 幽世と同質の領域だと思うが」
まあそれでも、その領域を支配する存在が危険な者なら、必然的にその場所は危険な領域になり得るだろう。
「ここは幻夢界の中でも『死』に関わりのある領域よ。幽鬼の領域……生き物にとっては、もっとも危険な場所と言えるのではないかしら」
幽鬼──死者の領域、という意味だろうか。黒猫のウシャナは「音を立てずに窓の外を見なさい」と警告するので、そっと窓から、奇妙な薄紫色や薄紅色に染まる空や、街並に注意を向ける。
薄暗い色に染まる世界。街の通りには数人の人影がある。──その連中は、重そうに身体をやや前屈みにした格好で、通りを彷徨いている。その内の一人が建物の影から、気味の悪い月明かりのような光が射す場所に出て来た。
そいつは青白い顔をした生気のない目で、周囲を見回している。その頭からは出血した痕が残り、腕も片方がなく服は血に濡れ、どす黒い痕が残されていた。
俺はそっと窓から離れ、どういう事かと尋ねる。
「だから、あなたは死の領域に捕われているのよ。あいつらは、この辺りで死んだ者たちの死霊。魂魄の残像が彷徨い歩いている──と言った方が正確かしらね。身体がここにある訳ではなく、半物質化した半霊的なものよ。ここは夢の世界ですもの」
肉体を持っているのはあなただけ、と黒猫は警告する。
「なるほど、事情はだいたい分かったが、どうすればここを出られる?」
「北に向かった先に出口となる歪みが発生しているわ。ここから数十キロ先になるけれど、そこに行くまでにできる限り、奴らには見つからないように行動しましょう」
そうだな、と応えようとして──なにかが引っかかった。死霊の世界……この辺りで死んだ者──半霊的な存在。
「いや、待ってくれ。あの死霊どもは、生前の記憶やなにかを持っているという事か?」
「そうね、ただ──そうしたものは時間と共に劣化し、失われて行くでしょう。新鮮な死者なら記憶との繋がりは保持されているけれど、会話にはならないわよ」
死んでいるからね、とウシャナ。
「ウシャナ、君は幻夢界に詳しいのだろう? ここで魔眼を使い、死者の記憶を読み取って、能力や技術を解読したり、奪ったりする事は可能か?」
「それは……可能だけれど。ちょっと、なにをする気なの?」
俺はある死者から魔法技術を奪いたいので、そうした魔眼の使い方を教えてくれと言うと。
「ただで教えろと? 舐められたものね」
「分かった、ほら、喉を撫でてやるから教えてくれ」
そう言いながら喉に手を伸ばし、指先で優しく撫でてやる。
「ちょっ……猫扱いするなぁ!」
そう言うが、彼女はゴロゴロと喉を鳴らしている。彼女の正体は分からないが、今の彼女は猫に憑依した霊体のようなものであるらしい。
「……はっ、しまったわ。まさか猫の性質が残っていたなんて……」
ひょいっと抱き上げると、お腹をくすぐりながら「教えてくれるよな?」と言うと、彼女は思い切り指に噛みついてきた。
「本当にふざけた奴ね、ラウヴァレアシュ様が配下にする訳でもなく、何故あなたを優遇するのか、まったく理解に苦しむわ」
床に着地した黒猫が耳を後ろ足で掻きながら言う。
「まあ、そう言わないで──魔神の配下なら、主の気に入りの相手の頼みくらい、聞いてくれてもいいんじゃないのか」
そう言うと彼女は「調子に乗るな」と威嚇してきたが、本気で抵抗する気はないらしい。
「分かったわよ、教えるわ。魔眼の左目を近づけなさい」
手招きをする黒猫に顔を近づけると、その肉球が左目の瞼の上に置かれる。
「『魂魄学習』というやつね。『吸魂秘術』なんて気取った呼び方もあるらしいけれど、どっちでもいいわ。死んで逝く者からも同様に、その記憶の一部を吸い出して、無意識領域に複製を作り出す事ができるようになるわ。──巧く使う事ね」
俺は彼女に感謝する為に黒猫の体を抱き上げて、柔らかい腹部に顔を埋めて頬ずりしたが、額を引っ掻かれてせっかく治療した、光の精霊の守護者にやられた傷が開いてしまう。
ともかく、これで外に居る連中から魔法を奪える訳だ。俺は黒猫を抱き抱えると、宿屋の窓枠にある縁に置いて、そこで待つように言う。
「だいたい、その目的の相手がどこに居るか分かっているの? ……そうか、魔眼で捜す気ね?」
その通りだ。魔眼で強化した探索魔法で、あの特徴的な法服姿の女神官を捜し出す。おそらくだが魔女の集会場に行く前に、このドナッサングの街に来ていたはずだ(馬の足跡の残り方から推測すると)。
死霊たちは生前の記憶を頼りに、人の多く居る場所に戻って来ると考えたのだ。完全に腐敗した死霊と化した者は、そうした行動は取らないが、新鮮な死体が蘇生し、飢えを感じながら街に戻って来る、という例が何件か報告されている。
大抵の死者が、そんな風に短時間で生ける屍となる訳ではないのだが。
「そこからなら、通りの様子が見やすいだろう。そこから俺が戻って来るのを待っていてくれ、なるべく早く片づけて戻って来る」
「本当よ、時間がないのだから。ここに捕らわれたくないなら、十分以内に戻って来なさい」
黒猫に頷くと、すぐに魔眼を使って周辺の探索を開始する。──動いている人影は、それほど多くはない。街に残っている者が少ないのだろうか?
そんな事を思いながら周辺を見回していると──法服を着た女神官を見つけた。同一人物かは遠目で分からないが、あの時にあの場所に居た、二人の女神官のどちらかであるだろう。
俺は背嚢を手にして部屋を出ると行動を起こし、宿屋の入り口に背嚢を置くと、死霊のたむろす街中へ慎重に出て、今さっき見た人影の方へ小走りに向かう。
十字路に来た時、横の方から「ぉおぉぉぅ──」という呻き声が聞こえて振り向くと、宿屋の裏手から現れた男の死霊が俺に気づいて向かって来るところだ。
片手を前に伸ばし、折れ曲がった片腕をプラプラと揺らしながら、こちらに迫っている。
「黙って死んどけ」
俺は魔剣を素早く抜き放つと、首を一撃で打ち落とし、武器を手に持ったまま女神官の追跡を始める。
動く死体の一匹や二匹で恐怖していたら切りがない。俺は各地を探索して、遺跡や迷宮で腐るほど、そいつらを見てきたのだ。
「さっさと片づけてしまおう」
周囲を警戒しつつ、建物の中に入って行った女神官のあとを追う。彼女が向かった先にも数体の人影が見えるが、なるべく静かに倒し、女神官から「光輝の封陣」を奪い取るのだ。そして素早く黒猫のウシャナを連れて脱出しよう。
気味の悪い赤暗く光る月を見上げながら、俺は建物の扉を静かに開けた……
ラブクラフトのドリームランドも似たような発想なのかな? 詳しくは知らないので……ゾンビの領域──という訳でもなく、時間が経つと徐々に、死霊は別の次元に消えていく──そんな場所を想定しています。ここの死霊はあくまで記憶の残像のようなものなので。(幽霊みたいなもの?)




