山中にある神殿
第十七章「魔神の欠片を巡る光と影」開幕です。
このお話の最初の方で語られた「ある物」が登場し、レギがピンチに……
彼は生還できるのか⁉
死の魔導書の写本を巡る一連の不可解な動きについて、冥界の巫女とも言われるグラーシャとラポラースに伝えるべきかと考えたが、彼女らはすでに何者かの暗躍を見越しているとも思われた。
ヴァルギルディムトを倒し、写本を回収した彼女らが、上位存在の動きについて関知している事は十分に考えられる事だ。──だが今回の件は、どうも上位存在の手引きしたものなのか、疑いの余地がある。
それは明星の燭台のような魔術師も関与している事からも分かるように、現世からの魔術的な支援が感じられた。
冥界の力に対する接近は遥か昔からおこなわれている事だが、写本を巡る今回の動きには奇妙な類似と、謎に満ちた存在の影がちらついている。
骸の王に写本を与えた法衣の男は、いったい何者なのだろうか。
それを探ろうとしても、追跡すら不可能なほど完璧に、精神世界からも霊的な領域からも、完全に姿を隠しているのだった。──まるで初めから存在していないかのように。
今はこの問題について考えるのは止めて、明星の燭台の動きについて探ろうとしたが、こちらもやはり魔術的な隠蔽が施されており、簡単には彼らの動きを探れそうもない。
だがどうも、邪神となったアボッツの件に関わっていた魔術師たちだが、骸の王との関連は確認できなかった。
同じ『死の魔導書の写本』が使われているにもかかわらず、この二つは一方的な繋がりを持っているのだと思われた。
それは魔術師たちは骸の王の存在についてはまったく関知しておらず、しかし骸の王は明らかに魔術師たちを認知していた。それは死亡した魔術師たちの記憶から、なんとか探る事ができた。
そして彼ら魔術師は本来なら、邪神アボッツを援護して、俺を迷いの森の中で仕止めるつもりでいたようだ。
しかし邪神の魂は彼らの意には添わず、魔術師たちの命を自らの受肉に利用してしまったのである。
邪神を制御できると考えていた魔術師たちの死は、まさに自業自得を体現していた。
「ふぅ……」
意識を精神領域から現世に戻すと、俺は寒さに震えた。
身を縮め、外套に包まるようにして外気を遮断していたが、じっとしているだけだと、さすがに森の冷気が染み込んできていた。
俺は立ち上がりながら、体力や魔力が回復しているのを感じ、先へ向かう事を考えた。
まずは迷いの森に張られた結界をすり抜ける術式を組み上げ、簡単な魔法の形式に落とし込んだ。
魔法障壁の単純な術式に精神防壁の要素を組み込んだ、単純な魔法。細部はあとで手を加えるとして、今はこの単純化した防御魔法で十分だ。
その魔法を自身に掛けると、森の奥に向けて歩き出す。
迷いの森を歩いている途中、木陰に白骨化した遺体を発見した。それは木に寄りかかり、投げ出した足に白い雪がかかっていた。
身なりから冒険者だと思われたその遺体は獣に食われる事もなく、長い間その場に放置されていたようだ。
死体が死霊化する事もなく、ただ霊魂だけがこの森の邪霊に支配されていたのだろうか。
森の中で遭遇した亡霊の中に、この遺体の持ち主だったものが居たのかもしれない。
「だとしたら、魔剣に喰われてしまった訳だ」
だがそれは迷える魂にとっては救いだろう。
いつまでもこの森で彷徨い続けるよりは。
眠り続ける死者の横を通り過ぎ、俺はさらに奥へ向かって木々の間を歩いて行った。
どれくらい歩いただろう、山が近くに見えてきた。白い岩山は崖状になっていて、ほとんど垂直に近い岩壁を形作っていた。
森を抜け出ると、そこは岩山との間にできた空き地だった。
そして切り立った岩壁には、岩山に彫り込まれた柱や壁画、そうした物に囲まれた門が置かれていた。
「神殿の入り口か」
まさか山の中をくり抜いて神殿を造ったのか。──俺は柱の横にある壁画を見ようと近づいたが、風化していてなにが描かれていたかほとんど判らなくなっていた。なんらかの塗料を使って絵が描かれていたのは間違いないようだが、その色の多くは剥がれ落ちてしまっている。
「どうも急拵えの感があるな」
壁画の状態もそうだが、よく見ると門を形作る彫刻も、それほど細かい作業が施されたようには見えない。
柱に刻まれた模様の中には呪術的な形式を持つ図柄も使われていたが、丁寧な仕事を施したとは思えない代物だった。少なくとも本職の彫刻家(建築家)が関わって造られた物ではない様子だ。
入り口を塞いでいた扉は切り出した岩で造られていたらしく、それは破壊されて通路に向かって打ち倒されていた。
最近破壊された物ではない。もうずっと昔に扉は壊されて、その石扉の上を踏み越えて行った者が居るのだ。
山の中に掘られた神殿の中から、なんとも言いがたい圧迫感が流れてくる。──今まで感じた事のない、不可思議な感覚が自身の内部から沸き上がってくるのを感じるのだ。
(まさかこれは──恐怖か?)
喪失感を覚えた時の、心臓が縮まるような感覚とは違う、全身を巡る血液の流れが遅くなってしまったかのような、時間の流れがゆっくりと感じられ、自分の体から意識が遊離しそうな──気味の悪い感覚。
本質的な畏怖とでもいったものを感じていた。
(この中に、魔神ディス=タシュの一部が……)
壊された門扉を踏んで神殿の中に入りながら、俺は灯明の魔法を使って周囲を照らし出し、通路の様子を確認する。
暗がりが照らし出されると、通路の先がすぐに壁に突き当たっているのが見えた。
白い塗料が塗られた壁に、大きな浮き彫りがあった。それは人であるような竜でもあるような、正体不明な見た目をしていた。それを彫った者も、自分が壁になにを彫ろうとしているのか、分かっていなかったのではないかとすら思えた。
その彫刻は、外部から神殿に踏み込んで来た者を威圧する為に、通路の正面に配置されたのだと思われる。
近づいて見ると、それは確かに女性像を題材としながらも、背景にある巨大な影のごとき物がその女性的な部分を呑み込み、邪悪な獣を連想させる姿を作り出していた。
「女神を喰らう邪竜──といったところか?」
だがどうも腑に落ちない。
その彫刻の中央にある女性像らしき胴体から、邪悪な竜が繋がっているような形になっているのだ。なんでこの構図になっているのか理解できないが、この彫刻自体も慌てて作られたらしく、外側にいくほど乱雑な彫り込みが為され、彫刻絵画の額縁部分である柱に届く前に、彫るのを中断した跡が残されていた。
浮き彫りのある壁の左右に向かって通路が分かれており、その先は暗くて見えなかった。
神殿の中の空気は凍りつき、壁も床も冷気を放っているみたいに感じられる。──まるで氷の洞窟に入り込んだ感じだ。
この神殿が建てられて以来、ずっと冷気を溜め込んでいたのだろうか。
左の通路を進むと、しばらくして通路は右に折れ曲がっていた。通路の先に魔力探知を掛けるなどして、罠や敵を警戒してさらに奥へと向かう。
通路は幅も高さも一定で特に変わったところも無く、無機質な道が真っ直ぐに延びているだけだった。
所々の床が黒く汚れ、白い壁の一部が黒く焦げていた。それらはこの場でおこなわれた戦いの跡のようだが、相当に古いものらしい。焦げ臭さも血の臭いも、まったく感じられなかった。
そこからさらに三十から四十歩ほど歩いた先で、通路の横に部屋──いや、ちょっとした空間が造られている場所があった。
侵入者を迎え撃つ兵を控えさせておく場所だろう。
十数人が待機できそうな場所に木製棚がいくつか設置され、そのうちのいくつかは腐食して崩れていた。
空の棚は残っていたが板は歪んでおり、今にも崩れ落ちそうな状態だ。
崩れた棚の所に金属の物が置かれていた。近寄って見ると、それは鉄の兜や胸当てといった物だった。
革の部分や留め金の部分はすでに腐食しており、防具としての機能は期待できない物となっていた。
鞘に収まった剣も三本あったが、それらはすべて鞘の中で刃は錆びつき、使い物にならない状態だったので、俺はそうした遺物を残して先に進む事にした。
通路は再び右に直角に折れ曲がっていた。
薄暗い通路の先から得体の知れない不安と恐怖が滲み出しているかのように、足が重く感じられた。本能が「このまま進むな」と警告しているのを感じる。
だが、聴死はなんの反応もしない。──当然か、あの死導者の力は死の訪れる瞬間を察知するだけで、不安や恐怖には頓着しないのだ。
あるいは聴死では把握できない死の中に向けて、歩き進んでいるだけなのかもしれない。
凍てつく通路の真ん中で立ち止まると、俺は冷たい空気を大きく吸い込み、覚悟を持って歩を進める決断をした。
通路を進んで行くと、この神殿が単純な形をしているのだと気づいた。
左右に分かれた通路が再び一つに繋がるとすれば、通路はちょうど中央に岩壁を残す形で囲みを作っているのだ。
今まで歩いてきた感じからすると、中央部にある岩壁は、正方形に近い形状になっていると思われた。
その予感は当たっていたようだ。
通路の先に暗闇が続いているが、その道の途中で右側に向かう通路があり、三叉路になっていた。
「いよいよか……」
右に曲がった通路の先は、この神殿の中心部に位置するはずだ。
そこに魔神ディス=タシュの肉体の一部が……
俺は奇妙な胸の高鳴りを感じていた。──それは恐怖に近い好奇の感覚で、危険であるのを理解しながらも、それに近づいて確認しようとする──身のほど知らずの感覚だった。
三叉路から神殿の中央に繋がる通路を覗くと、やはり奥に部屋があるようだ。通路の先に開かれた扉があるのが灯明の光によって照らし出されている。
暗い通路を進む。
俺の足取りはさらに重くなっていった。肉体を守ろうとする本能が警告しているのではない。
むしろそれよりも高度な、霊的な領域からの警告だった。
魔術師としての直感が、恐るべき存在を感知しているのだ。
ところがだ。魔眼には魔神の反応が確認できず、扉の向こう側にある部屋の中には、空虚な闇が広がっている事しか確認できずにいた。
(なぜだ? なぜ魔眼は魔神の存在を感知できない──?)
今までは五柱の魔神に近づくと、おおよその居場所が探知できた。
それなのになぜ、この神殿には魔神の反応が感じられないのだろうか。
「まさか、ここには無いのか?」
しかしこの異様な圧迫感は、間違いなくこの先に危険が待ち構えている事を暗示している。それが勘違いである可能性は断じてない。
三叉路から奥に向かって一歩、二歩と進むたび、俺の直感が強い警告を発していた。
頭の中に冷たい血液が流れて、その流れる音によって耳鳴りがするように感じられる。岩山の中の圧迫感と、冷気に満ちた暗闇の所為で起こっているのではない。
俺の霊感が肉体的な感覚に訴えかけて、なんとか奥に進むのを止めさせようとしているのだ。
(しばらく黙っていてくれ)
俺は霊的な警告を意識的に遮断した。
この通路の先にある部屋の中になにがあり、あるいは無いのか。それを確認するまでは決してここから出る事はできない。その覚悟をしてここまで来たのだから。
神殿に侵入した者が居たのは間違いないだろうが、その者たちが魔神の一部を持ち去った可能性は──、いやそれはないだろう。
侵入者がここに来たのは相当に前の話。それも何百年も前の事だろうと感じられた。戦いの痕跡や、神殿の風化具合から見ても、ここに立ち入った者がここ最近は無かった事は疑いようがない。
もしここからすでにディス=タシュの一部が失われているなら、魔神ラウヴァレアシュがここに俺を来させる理由はないはずだ。
それにあの黒狼も言っていた。「天蓋の神々が彼の魔神が封じられた場所を見つける前に」と。
神々もディス=タシュの復活を怖れ、魔神の肉体を回収し、封印しようとでも考えているのだろう。
神々が先を越していった可能性もあるが、それを確認する為にも、俺は神殿の中心部に向かわなければならないのだ。




